2007年06月14日

もののあわれについて113

反歌

田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ 不尽の高嶺に 雪はふりける
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

田児の浦を抜けると、真白に富士の高嶺は、雪をいただいていた。

人の口にのぼる、赤人の有名な、歌である。

整然として、良い歌である。
ただし、雪はふりける、という、結句に、力を感じないのである。

ある種の感動は、伝わる。
突然、視野に入ってきた、富士山に、畏敬する驚き。

万葉初期と、違うのは、万葉初期の歌を、見ればよい。

いわ走る 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも
志貴皇子

春過ぎて 夏きたるらし 白衣の 衣乾したり 天の香具山
持統天皇

大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ浪に 立てる白雲
作者不詳

どこか、違うのである。
万葉より、古今に近づくのである。

赤人の短歌を読むことにする。

み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒ぐ 鳥の声かも
みよしのの さきやまのまの こぬれには ここだもさわぐ とりのこえかも

ぬばたまの 夜の更けぬれば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く
ぬばたまの よのふけぬれば ひさきおふる きよきかはらに ちどりしばなく

若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
わかのうらに しおみちくれば かたをなみ あしべをさして たづなきわたる

風吹けば 浪か立たむと さもらいに 都太の細江に 浦隠り居り
かぜふけば なみたたむと さもらいに つだのほそえに うらかくりおり

長歌より、短歌の方が、万葉である。

ぬばたまの、歌は、特に万葉といえる。
そして、若の浦に、も、良い。

私が良いというのは、万葉の心を、写すという意味である。
観念に、まとまった、歌ではないということである。
その歌から、無限に広がる世界を、自然を思わせるのである。
万葉の歌は、祈りの言葉でもある。
祝詞である。

言えば、わかのうらに しおみちくれば かたをなみ あしべをさして たづなきわたる、と、唱えることが、出来るというものである。

しかし、次の歌を読むと、祝詞ではなく、歌のための歌になる。

春の野に 菫採みにと 来し吾ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける
はるののに すみれつみにと きしわれぞ のをなつかしみ いちやねにける

明日よりは 春菜採まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
あすよりは わかなつまむと しめしのに きのうもきょうも ゆきはふりつつ

百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむかも
くだらのの はぎのふるえに はるまつと おりしうぐいす なきにけむかも

自然は、あくまでも、外の世界であり、万葉初期の、自然との共感が、薄れる。
自然と同化しないのである。
つまり、赤人には、自然畏敬が無い。つまり、自然に、神の存在を見ないのである。
さらに、自然を対立するものとして、捉える。
歌という、観念に在ることを、善しとするのである。

それを、芸術活動と言うならば、それでもいい。

例えば、小説作法というものを作り上げて、小説とは、このようなものであると、観念を作る。そして、それに添って、小説を書く。
現代の小説は、その日本の心を写す小説は、川端康成で終わったと、私は思うが、それは、私の感じ方であり、他の人は、まだまだ、小説は、終わらない。日本を書けるのだという。
それでいい。

すべて、夏目漱石が、書き終えてしまった。
後は、亜流である。と、思えば、読む気がしない。

はっきり、申し上げておくが、小説の出来栄えが問題なのではなく、売れるか、売れないかが、問題である時代に、小説について、論ずることが、愚かである。

芥川賞という文学賞が、商業ベースによって、作られたという事実である。
水戸黄門の印籠のように、なるという、不思議である。

読み捨てにされる小説をもって、小説であるというならば、それでもいい。

私は、昔、二十歳前後の時に、夏目漱石の全集を、二度繰り返して読んだが、今も、読みたいという欲求がある。
日本文の、すべてを、夏目は、書いたのである。
そして、川端康成で、日本の心の風景を、書き終えたというより、もう、書く者がいない。
そして、かろうじて、中上健二という作家によって、新しい、小説の道が見えたような気がしたが、如何せん、亡くなってしまった。

今、小説は、エンターテーメントとして、別の世界を作る。
時代によって、小説も変わるのは、当たり前である。

小説を読まずとも、現実の方が、芸術的になっている。
創作を読まずとも、現実が、面白い。

純文学と称して、作品を書く者の、作品を読むと、反吐が出る。
観念まみれで、宗教の妄想の教義と、同じである。

小説は、いかに、バーチャルであるかが、問題になる。
あたかも、本当であるような嘘。しかし、すでに、現実が、それを超えた。

現実が、本当のような嘘であり、バーチャルと化している。

端的に言えば、アメリカの核に守られて、世界の現実から遠い日本に住む者である。
すべては、外の世界のことであり、紛争も、テロも、別次元のように思える。
ふんだに使う物が、他国の環境を破壊しているなどと、想像も出来ない。

現実を、実感として、肌で知る人は、自然災害に遭う人である。

想像力の欠如の者が、商業ベースに乗せられた小説を読んで、涙を流しても、全く、人生には関わりが無いのである。

居ながらにして、テレビからの情報を得て、そのバーチャルに、満足し、意識だけは、肥大化して、生きていると、勘違いする。
何一つ、行為せずとも、何かに参加していると、思い込むちという、病に陥るのである。

体の動けない老人ならば、理解出来るが、活動出来る者が、そうであるから、ホント、人生とは、何であるのか。

これは、きっと、悪い冗談なのであろう。
そして、死を迎える。
それも、バーチャルなのであるから、その幽霊は、浮遊する。

とんでもない、時代である。

不幸にある時、人は、現実を知る。
しかし、できえれば、不幸ではない時に、それを、知りたいものである。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。