2007年06月13日

もののあわれについて112

山部宿弥赤人、不尽の山を望める歌一首に短歌
やまべのあかひと ふじのやまをのぞめるうたいっしゅにたんか

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 不士の高嶺を 天の原

ふり放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も

い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りけりる 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 

不尽の高嶺は

天地の 分れし時ゆ
天地開闢の時から、と、古事記、日本書紀の説話を元にする。

天の原 ふり放けみれば
あまのはら ふりさけみれば
天空を振り仰いで見ればという意味。

渡る日の 影も隠らひ
渡る日は、太陽のこと。
影は、太陽の光をいう。
その影に隠れて、見えないという意味。
照る月の、光も見えずも、同じ意味。

白雲も い行きはばかり
はばまれて、行き悩む。遠慮するという意味。

時じくぞ
その時節でもないのに。
時なしに、という意味。

天地が、はじめて分かれた太古の時から、まことに、神々しく、高く貴い姿で、そびえる、駿河の国の富士の高嶺。それを、天空遥かに、振り仰ぐと、大空を行く日の光も、その山の高さで、見えない。照る月の光も、隠れて、見えない。
白雲も、行きはばかり、時なしに、雪が降っている。後々の代まで、語り伝え、言い伝えていこう。
何と言う、気高い、貴い、お姿であろう。

生命感覚の衰弱は、形式と、観念に、縛られる。
自分の尊敬する人の歌を真似することは、決して悪いことではないが、それを、観念としてしまうと、生命感が、消滅する。

赤人は、人麿に影響されている。
人麿が、観念になり、そこから、抜け切れなくなるのである。

私は、万葉集の成立を、舒明天皇即位から、考える。
初期万葉は、持統天皇、文武天皇で、終わる。
そして、詩魂の上では、柿本人麿を最期とする。

丈夫は、衰退し、手弱女に移行してゆくのが、わかる。
実に、声に出して読むと、整然として、まとまっているが、力、生命力が無いのである。

古今集の中においても、不思議ではないほどの、手弱女、たおやめ振りである。

端正で、精粋な自然観照の歌風は、優美清廉とした、平安期に、好まれるのである。

目で見た、そのままを、歌うのではない。
観念で歌うのである。
富士山の裏に、日の光、月の光をもってゆくという、観念、小細工をするのである。

後に、この小細工を、歌の心であるとした、平安期の歌人たちである。
歌の心が、変質するのである。

だが、時代の流れである。

私は、舒明天皇即位から、万葉集の成立年代としている。
来年、2008年は、万葉集成立1380年である。
万葉集の作品で、最も多いのが、759年である。
おおよそ、760年頃から、生命感覚の衰退が、はじまっている。
それが、現在まで、続いて、益々と、生命感が、希薄になるのである。

もののあわれ、は、しかし、それだからこそ、益々と、明確に見えてきた。
仏教の無常観に、洗われて、無常哀感となり、そして、無常美感と成長する。
勿論、観念である。

観念なくして、人は、生きられなくなった。

だが、その根底には、脈々と、もののあわれ、が、息づくのである。
だから、無常観というものも、廃れることなく、日本人の心に、留めている。

それは、実は、仏教の無常観ではなく、やまと心の、もののあわれ、であると、気づく人は、稀である。

もののあわれ、は、無常観を抱いてある。
無常観を、容認できるのだ。

常無い人生の様を、無常と、捕らえるが、もののあわれ、は、その背後にある、存在の様を、見つめるものである。

それを、源氏物語は、男女の関係の機微に観た。
移り行く人の心の様と、その刹那にある、人の心の真実である。
つまり、人は、人の心に生きるということである。

無常と、嘆いているのではない。
人の心の機微にこそ、人が生きるものである。
その、人の心に、働きかけるもの、それを、もののあわれ、という。

無常観は、非常に、それに、似る。ゆえに、無常感覚を、素直に受け入れた。
しかし、別物である。

人生が、無常であるとして、悟った風な顔をしている者に、人生など、解るはずがない。

日々の生活の中での、七転八倒する、心の有り様に、こそ、人生の真実があるのである。

それが、無常か。

それを、もののあわれ、という。

観念の無常に、嘆くことなかれ。
この人生に、嘆くことなど、何一つ無い。

生きて、動いて、心を砕き、さらに、生きようとする。それを、総称して、もののあわれ、という。

もっと、解りやすく言う。
母親が、家族のために、食事の支度をし続ける様に、もののあわれ、がある。
愛する人を亡くして、さらに、生きようとする意欲に、もののあわれ、というものがある。
病にある人に、祈る心を、もののあわれ、という。

これすべて、観念ではない。
現実生活における、様々な、心模様であり、心を砕いて生きることである。
どこに、観念があるのか。

万葉初期の、歌を読めば、生きること、生活することが、すべて、生き生きとして、瑞々しく、命が、弾んでいるではないか。

喜怒哀楽すべてが、もののあわれ、という、心の姿に、現れるのである。

更に、くどく言う。
冷たい、味噌汁を、温めて、食べさせたいと思う心に、もののあわれ、というものが、ある。
そして、日本人は、それを、それをこそ、救いと、観たのである。

癌の再発した父に、私は、手術をする体力がないから、そのままに、自然死をと、母に伝えた。家で、看取ることであると。
この世の最後を、家族の見守る家で、在ること。
母は言う。
また、父さんに、会いたいなーーーと。
まだ、死んでいないが、死んでからも、父さんに会いたいという。
ここにこそ、日本人の、もののあわれ、というものがある。

お解りか、仏教の無常観に、酔い、嘘八百の妄想凄まじい、お経というものを、読経し、写経するものども、
そこに、救いなどない。
単なる、催眠術の、救いである。

今、傍にいる者に、最大出来ることをせずに、何が、無常観であるか。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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