2007年06月12日

もののあわれについて111

病に沈みて自ら哀しむ文、を読み続ける。

つくづくと考えてみれば、古代であれ、、現代であれ、賢人、愚者の別なく、すべての人が嘆息して、やまないことは、歳月が迅速に流れ過ぎて、昼夜も止まらないということである。
曽子が、過ぎ去ったら、二度と帰ってこないのが、年だといい、孔子が、川のほとりで、逝くものは、それかくのごときか、と嘆いたのも、このことである。
老衰と病が、互いに手をとり、朝となく夕となく、絶えず我が身に,、襲いかかってくる。
魏の文公が、時の賢者を惜しむ歌で、いまだに、西苑の夜宴がつきないのに、にわかに、北郊の墓の塵となると歌ったように。
一代の歓楽が座前で、たけなわであるのに、もう千年の憂苦が、座の後に迫っている。
すべての、生きとし、生けるもの、限りある身でありながらも、等しく、無窮の命を、求めてやまない。
だから、神仙の書、抱朴子に曰く、皇帝神農が言うには、百病が、治らなければ、どうして、長生きができようかと。
帛公が言うに、生は好きものであり、死は悪しきものである。
もし、不幸にして、長生きを望みえないのであれば、せめて、生涯にわたり、病の無いことを持って、最大の至福と、しょう。

長い文も、最後である。

今、自分は、重い病に悩まさせられて、起き臥しも、ままならない。
どうしたらいいのか、途方に暮れる。
なす術を知らないのである。
不幸中の、すべての不幸が、自分に集中している。
書経には、人が願えば、天が従うとあるが、それが、真実ならば、どうか、哀憐を垂れて給いて、すみやかに、この病を取り除き、幸に、常の姿に復することができるようにと、願わずには、いられない。
死んだ人間は、生ける鼠に及ばないと、鼠を譬えにしたが、決して、恥ずべきことと思わない。

この、憶良の様を例えると、新興宗教巡りをする人に、似る。
あちら、こちらと、巡りて、さ迷い、色々な、知識を得るが、一向に、救われないのである。誤って、土壷に嵌る場合は、入信して、似た者同士が、嘆きあい、そして、架空の神や仏に、入れ込むのである。
最後まで、それで、騙され続けているれば、いいのだが、時に、正気に戻って、その、団体の嘘などを、見抜くと、更に、苦悩するのである。
自分の苦悩だけでなく、信じるものに対する、不信の苦悩である。

上記の文は、すべて、仏典から、漢籍からの、引用で成り立っている。
憶良が、身につけた学力、博識には、ただ、驚くばかりだ。

しかし、儒、仏に関する知識が、単に知識に止まるのである。
また、日本の唯神の道にも、遠い。
現代の知識人と、本当に、似ている。

字義の意味を深めることをしないのである。単に、知識の多くを得ている。
学者などは、それを、商売にしている。

字義の深さを知らないことが、憶良の、最大の不幸であった。
悲劇であった。

世の中の、すべなきことを、言う。それが、憶良である。
しかし、突き詰めると、その、すべなさを、徹することが、できなかったのである。

人間把握の徹底さを妨げたものとは、知識である。

これは、ゆゆしきことである。
多くの学問は、知識の多くを学ぶものである。
知識は、知性を養い、理性を整えるものである。
学問とは、人間把握のなにものでもない。

憶良は、死ぬまで、何にも、徹底することができず、繰言を繰り返したのである。

最後の歌である。

山上臣憶良、病に沈みし時の歌一首。

士やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして
おのこやも むなしかるべき よろずよに かたりつぐへき なはたてずして

男子たるもの、空しく朽ち果てていいのだろうか。万代まで、語り継がれる立派な名を立てることを、しないで。

憶良は、学識というものに、裏切られたのである。
更に、悲劇の主人公となるべく、演じて、その悲劇の様を、あからさまに歌うことで、歌人として、かろうじて、万葉集に残された。
万葉の精神からは、離れていても、こうして、残したということに意義深さを感じる。

人麿と、比べると、よく解る。
人麿は、肉体を超えて、歌を読むことで、歌人まで、超えた。
そして、天地自然の命に、融合し、さらに、皇国の理念との一体を成した。

同じ時代にあるということで、実に、比べやすいのである。

人間の、生きると言う、あらゆることに通じるものが、一つある。
無形のものに、向かうことである。

限りある命の時であるから、無形のものに、寄与することなのである。

例えば、私は、音楽のコンサートを開催している。
それは、多くの人に、聴かせるものではない。
芸術家が、芸術という、無形のものに、寄与するという行為を成すことで、得られる、生きるということの、本質を観るものなのである。

演奏も、歌も、芸術、芸に、寄与するのである。
これを失うと、単なる、コンサートイベントになり、いつも、集客を考え、利益を考えて、それを得るために、芸術に寄与するよりも、別のことに、心労し、世におもね、迎合することになる。

端的に言う。
自分の芸の術を、高めることで、芸術に寄与するのである。

報われずとも、黙々と、書き続けて、ゴッホは、芸術に寄与した。
生前は、何一つ、報われることがなかった。
しかし、書き続けて、彼は、成功した。

世に認められないと、その行為を止めれば、それで、おしまいである。

私が、続けることが成功であるというのは、無形のものに、寄与する行為を続けることに、成功するという、理念があるということを言う。

私は、もののあわれについて、を、書いている。
最も、もののあわれについて、に、遠い、憶良の歌を上げた。
実に、意義深い。

万葉の時代に、すでに、もののあわれに、遠い、歌を多く読んだ憶良が、いるのである。
これは、実に、説得力がある。
憶良の歌によって、もののあわれについて、が、より明確に観えるのである。





posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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