2007年06月12日

イスラム3

召命、しょうめいとは、神からものであると、いわれる。
しかし、それを証明する、何物もない。

古神道では、必ずサニワという、診断する者がいる。その神からの言葉が、真実、神からのものであるのかという。
勿論、日本には、神々がいらっしゃるから、どの神であるかも見抜くことが必要である。

ムハンマドが、自分は神の使徒であると、確固たる心境に達するには、相当の時間が必要だった。
多くの旧約聖書の預言者が、そうであったように、ムハンマドも、旧約聖書の、生ける神に、捉えられる。預言者の多くが、そうであるように、彼も、戸惑い、出来れば、それから逃れたいと思った。

ムハンマドは、六世紀末に生まれ、七世紀の前半に活躍した。
資料の少ない古代の人ではない。すでに、この歴史の中で堂々と、活動した人物である。
史実としても、創作の余地はない。
しかし、召命を受けた後のことは、しっかりと記録されているが、それ以前、40歳前の彼のことは、不明である。
メッカの一市民だったものを、誰も記録などしない。
その点で言えば、ムハンマド伝に関しては、召命前のことは、想像の内である。

さて、ムハンマドが、神の使者として活動を始めても、それは、何事もなかったかの如くであった。
メッカ市民に、街角に立ち、神についてを語りだしても、何のことはない。当然のことであり、神というものが、当然のことであるから、誰も真面目に聞く者は、いない。神のことを聞くならば、聖殿に行けばよい。

最初の信者になったのは、彼の妻、ハディージャである。そして、次の信者は、矢張り、身内の者から出た。
ムハンマドの後継者になる、アブー・バクルの入信である。彼は、第一代のカリフとなる。
バルクは、当時のメッカでは、クライシュ族の中で、指折りの豪商であった。その清廉潔白な性質と、穏やかな人柄は、多くの人の尊敬を集めていた。
彼は、ムハンマドの新興宗教に、その膨大な財産を提供した。
そして、それ以来、ムハンマドと終生共に、過ごすことになる。

次に、第二代のカリフとなる、ウマルが入信する。
それにより、新教団は、基礎を築くのである。
しかし、最初は、上流階級や、金持ちより、社会の下積み、虐げられた人々が圧倒的多数、信者になった。

血筋、生まれを無視して、人間の素のままに受け入れるという、新宗教の教えが、貧困階級の人々に、喜びを与えた。

これは鎌倉仏教の中の、浄土宗、法然の活動に似る。
貴族の仏教、救われる者は、僧になるものという、差別の仏教を、念仏により誰もが救われると説いた。老若男女問わず、救われるという、一大画期的な教えを説いたのである。
その弟子には、更に、その救いを深める親鸞も集った。
阿弥陀仏が、一人でも救われなければ、私も救われないという、願を起こした。その願に、ひとえに頼る、絶対に頼り切る、つまり、絶対他力である。
その阿弥陀仏に、帰依する。
南無阿弥陀仏と、唱えることで救われる。
阿弥陀様に、帰依すると、宣言することで救われると説く。
法然の説教には、身分を超えて、人々が集った。溢れた。

勿論、今の浄土宗は、その頃の熱意はない。惰性と、組織のシステムに陥り、寝ぼけた信仰を持って、まだ、救いの妄想の中にいる。
阿弥陀というのは、観念であり、人の想像した、無いものであるから、架空のものに、帰依しても、どうしようもない。単なる、自己満足、自己陶酔である。
最後は、自己催眠であるから、気の毒である。

霊界に 阿弥陀の世界 尋ぬれば 行けども無けれ 風吹くのみて  天山

現代であれば、貧乏人と、病人ばかりと言われた、創価学会がある。
当初は、そんな中で活動を始めたが、今では、世界に広がる、堂々たる宗教団体となった。
それは、日蓮法華経に帰依する。
特徴は、題目を上げることは、折伏することと同じである。
折伏とは、説き伏せることである。
言論の暴力を持って、説き伏せる。その根拠は、法華経にある。法華経こそ、仏陀の最後の教えであるという確信である。
法華経を教えるために、仏陀は、多くの喩えを伝えた。行き着くところは、法華経にあり。

法華経の作者は、誰であろうか。仏陀は、一切の書き物を残していない。
経典といわれるものは、すべて、後々の作者がいる。
仏陀、滅後、500年を経て、経典が書かれるのである。
まして、それを、漢語に訳したものを読経しての、法華経である。漢字をすべて、音読みする。その解釈は、いかようにでも、出来る。
何が正しいのかを、誰も知らない。

日蓮も取る、天台の教え、一念三千世界というものも、単なる哲理に過ぎない。それを真理とは、言わない。一人の寝ぼけた、哲学である。その根拠は、無い。一つのものの見方、考え方である。つまり、言葉の遊びに始終するのである。

だが、この法華経を経典として、立ち上がる新興宗教は多い。
立正佼成会、霊友会等々、小さなものを入れても、膨大な数の宗教がある。

宗教も進化すると考えると、確かに、既成の聖典に乗り、そこから始めると楽である。
全くのオリジナルは、大変な労力を使う。
必ず、その前身があるのだ。

霊能か、思い込みか、はたまた詐欺か、それを鑑定するには、大変である。
神懸かる、神に憑かれると言っても、その神の種類を見極めるのも、大変である。

人の見えない世界のことであるから、正しいとか、誤っているとかを、簡単に言うことが出来ない。

ムハンマドに懸かった霊は、一体、どのような霊だったのか。つまり、それは、イスラムというものが、どのようなものであるかを知ることになる。



posted by 天山 at 00:00| イスラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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