2007年06月11日

キリスト11

奇跡は続く。
今度は、12歳の死んだ娘を生き返らせる。

イエスは多くの人が、泣いたり叫んだり、大騒ぎしているのをごらんになり、中に入って、「何を泣きさわいでいるのか。子供は死んだのではない。ねむっているのだ」とおおせられた。人々はかれをあざ笑った。・・・
子供のいるところにはいり、子供の手をとって、「タリタ・クム」とおおせられた。それは、「娘よ、私は命じる。起きよ」という意味である。すると娘は起き上がって歩き出した。

イエスは、このことを誰にもしらせるなと、かたくかれらをいましめ、また、娘に食べ物を与えよとおおせられた。

人に知らせるなという意味は、近くにいた人のメシアニズムがあまりに未熟だったからだと、聖書解釈にある。
嘘である。
死人が生き返ったのだ。話は、瞬く間に広がる。
こういう箇所に、イエスの悪魔的行為の瞬間を見るのである。大きな誤解を招く。

当時の、エセ信仰家たちの反感は、その神か悪魔かという、混乱である。
もし今、死人を生き返らせる人がいたら、どうだろうか。
あまりの、驚きに、判断を迷うだろう。
一時期、病を治す力を得た、普通のサラリーマンがいた。映画にもなった。本人の自覚なしに、そのような能力を得たということが、おかしい。必ず、背後に、霊的存在がある。それが、何であるのか。それが問題である。

奇跡を見せられて信じるとしたら、あまりに、愚かである。

だが、科学のみを信じる者も、あまりに、愚かである。

要するに、蒙昧であるものがある。
蒙昧とは、解らないことである。解らないことは、解らないと、言うべきである。
人は、見えないものを見ない。
心の内にあものを、見る。

イエスの奇跡を、どう解釈するかによって、イエスの本当の姿が解る。
聖書の奇跡の記述は、教えを伝えるための、方便だという考え方があるが、それも違う。
要するに、自分の意識に起こらないことは、無いと信じきるのである。
イエスの復活も、信じられないのである。
死んだ人間が生き返ることはないという、観念である。

ここに、キリスト教の限界がある。
人は、生き通しの存在であるという教義がない。
つまり、転生を教会は、認めない。教会が認定しなければ、無いものなのである。
そして、人間は最後の審判の時に、肉体を持って甦ると教える。
全くの誤りである。

だがしかし、教会は、人は塵から造られ、塵に帰ると教える。
徹底した矛盾を平気で教える。

原始キリスト教団、初めは、多くの派閥があった。統一されたものではない。
専門的なことは、暇な専門家に任せる。
ローマカトリックは、皇帝と結びついて、正統であるとされた、一派である。それが、中世、異端審判として、どれ程多くの人を殺害したか知れない。
ローマのキリスト教徒迫害の様より、酷い。
お解りか。
カトリック教会という団体の真実を。そして、ルターが起こした、プロテストである。教会の、あまりの絶対権威と、その、とんでもないあり方を、批判し、それでは、イエスの教えから、あまりに遠いと、革命を起こした。それに、賛同した人の多いこと。

ローマカトリックが偽者であること、明々白日である。
イエスは、政治に関して、きっぱりと言った。
「私の国は天にあり」と。それで、総督ピラトは、手を洗う。つまり、私は、関係ない者であるという意味である。その後は、ユダヤ人に任せた。すると、皆々、イエスを殺せと叫ぶ。イエスは、ユダヤ人、ユダヤ教徒に殺されたのである。

ユダヤ教を完成させるために、現れた者が、ユダヤ教徒に殺されるという様を、何と見るか。
旧約聖書の神々の勢力争いである。
創世記
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」
神は、第七の日に、すべてを完成させ、仕事を離れて、安息した。
これが天地創造の由来である。と書かれる。
この、一週間という期間に、今は、世界中が、従っている。

この由来は、アフリカのものである。
それを借用したのである。

エジプトから、モーゼがイスラエルの民、ユダヤ人を引き連れて、さ迷うのである。今も、さ迷う、ユダヤ人である。
神から選ばれた民である。
地方の神々による民族である。
イエスは、それを世界の神に格上げした。
それが、ローマカトリックである。本当であろうか。

選民意識というものは、実に恐ろしい。
宗教と、民族は、この選民意識に、やられる。
対立と戦争が終わらない訳である。
いずれ、イスラムについて書く時に、さらに詳しく言う。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。