2007年06月11日

635日祭

6月25日は、藤岡宣男崩、635日である。

藤岡は、最初の音楽の関わりは、ピアノであり、そして大学、大学院、アメリカ・ミシガン大学院にては、ピアノ教育を専攻していた。
声楽に目覚めたのは、非常に遅い。
ただし、大学時代に、グリークラブに入っていたことから、歌うことは、あった。

声楽に目覚めたのは、札幌時代である。
30代が一つのポイントになる。
そして、それがまた、カウンターテナーであったということが、実に珍しいことだと思う。
ファルセットに目覚めたとでもいうか・・・
ブライアン・アサワという日系アメリカ人のカウンターテナーとの邂逅も、そのきっかけになった。

私が出会った頃は、丁度、その発声の練習を始めていた頃である。
すでに、教会などで、歌っていた。

そして、東京から札幌に指導に来ていた、森という先生に師事していた。
藤岡の転機を促したものは、仕事のマンネリと、職場のアホどもの姿に愕然としてことであろう。これは、私の言葉である。藤岡は、紳士であるから、そんなことは言わない。
能力の無い者が、集って仕事をしている振りをして仕事をするというのは、どこの会社にもあるが、ヤマハ財団というところは、特に、そうである。
よく、出張と言って、藤岡は、東京へ出掛けていたが、その内容を聞いて、私は、驚いた。あれ程の給与を貰っても、こんな程度の仕事、いや、仕事ではない、暇つぶしをしているような、研究会と称する集いである。
大きな会社というところは、実に、社会に貢献していると、思った。無能な者でも、妻子を養う給与を出しているのであると。

そして、もう一つの転機のポイントは、発生指導の森先生という人の言葉である。
君なら、東京に来るべきだと。東京に来て、歌をやるべきだと。
実に、無責任極まりない言葉であるが、そう言った。
歌でやって、食べて行かれる訳が無い。森先生は、教えて、食べている。歌で食べているのではない。それからして、詐欺師に近い。
今も、教えているのであろう。
膨大な指導料を藤岡は払い続けて、習った。
その当時は、私も一緒に鎌倉に住んでいたので、よく解る。
しかし、藤岡は、10ヶ月程で、自然、先生から離れることになる。
当然である。
習うだけである。舞台に出るのに、いつも、10万円は必要であり、そんなことを続けてゆかれる訳が無い。そのために、仕事をしなければならない。
歌でやってゆけとは、よくぞ言ったものである。
そして、それを、そのままに、許している、弟子の面々である。
その弟子も、気づいて止めて行くのである。しかし、また、騙されて、新しい弟子が入る。その繰り返しである。

色々な詐欺があるものであると、感心した。
私も、占い師を名乗っていた頃は、詐欺師呼ばわりされていたが、それを承知で、占い師をしていた。勿論、今も、占い師である。詐欺師に、最も近い占い師である。

さて、言う。
藤岡の歌は、舞台によって、成ったものである。
舞台が、藤岡の唯一の師匠であった。
それは、紛れも無い事実である。
では、その舞台を誰が用意したか。私である。

リサイタルは、練習ではありませんという、嫉妬とやっかみの、クラシック音楽家、声楽家、音大の馬鹿教授などの、批判を受けても、私は、藤岡の舞台を用意した。

それは、私も舞台に出る者だからである。
最も、舞台の力を知っている者である。
芸人は、舞台で成長する。真実である。
どんなに上手に歌えても、舞台で、歌わなければ、詮無いことである。
部屋では、名ピアリストであっても、舞台では、聞くに耐えないピアニストならば、話にならない。

一人で歌うと、最高に上手いといっても、詮無いこと。
それなら、一人で、山でも海にでも行って、歌えばよい。

舞台で、聴かせられるか、否かである。

多く、声楽家の歌を聴いたが、皆、練習の成果を歌うものりであり、芸人ではなかった。
あんなもので声楽家とは、よく言ったものである。
舞台の真ん中に立ち、ようやく歌う様は、滑稽極まりない。
簡単に言う。
プロと呼べる歌い手は、舞台が見えないのである。
舞台が無くなるとでもいう。
舞台を飲み込んでいる。それが、プロである。

藤岡は、自分の舞台マナーを作っていた。
それを私も聞いている。それを元に、私も声楽家を目指す、藤岡の門下を指導する。今は、藤岡の孫弟子たちがいる。

生きるということは、伝えるということである。
実に、藤岡は、伝えるものを残して逝った。





posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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