2007年06月10日

もののあわれについて109

後半である。

天地は 広しといえど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといえど 吾が為は

照りや給はぬ 人皆か 吾のみや然ね わくらばに 人とはあるを 人並みに 

吾もなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる かがふのみ

肩にうち懸け 伏蘆の 曲蘆の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 

囲み居て 憂ひ吟ひ 竈には 煙ふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて

飯炊く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物の 端切ると

言へるが如く 楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり

すべ無きものか 世の中の道

わくらばに
たまたまという、意味。

人並みに 吾もなれるを
どこといい、変わったところはない、という意味。
世間の人と、同じである。

海松の如 わわけさがれる
海松は、海草の一種で、海草は、干すと、よれよれになるので、ほつれて、よれよれになった、着物の形容である。

かがふのみ
かがふとは、ぼろぼろになった襤褸、ボロである。
襤褸と書いて、かがふと、読ませる。

直土に
土間の土に、直接に。

憂い吟ひ
うれい さまよい、と読む。
憂いは、哀しみ嘆く様。
吟よいは、呻吟する様。歩くことではない。


こしき
米を蒸す、蒸篭のこと。

ぬえ鳥の のどよい居るに
ぬえ鳥は、つぐみ科の、とらつぐみ。
夜間、寂しい声で鳴くことから、のどよい、にかかる枕詞。
のどよふ、とは、細々と、あはれな声で鳴くこと。

いとのきて
はなはだ、という意味。
ここでは、加えてという意味でよい。

短きものを 端切ると
ただでさえ、短いものを、更に、端を切って、短くする。
困ることの上に、更に、困ることが、重なるのである。
今で言えば、踏んだり蹴ったりである。


本来は、潅木などの、茂った枝の、繁みや、その小枝をいう。
ここでは、苔。ムチという。
苔を、しもと、と読んでいる。

里長の声
当時、50戸をもって、里とした。
里ごとに、長一人。
戸口の調査や、桑、漆の増殖、租や、賦役の事務に当たらせた。
その、里長の厳しい声である。

天地は、広大だというが、私には、狭くなってしまったのだろうか。
日月は、明るいというが、私のためには、照り輝いてくれないのだろうか。
それとも、自分だけが、そう思うのだろうか。
たまたま人として、生まれて、この世に在り、別に変わったこともない、人並みの人間であるが、綿も、ちぎれて、入っていない、袖なしの、海草のように、よれよれに破れているボロを、肩にかけて着ている。
そして、潰れかかった、柱の傾いた小屋の中で、土間に直に藁を敷いている。
父母は、枕辺の方に、妻や子は、足の方に、私を取り囲んでいる。
皆で、添い嘆き、悲しみ、竈には、火器の煙もなく、米を蒸す甑には、蜘蛛の巣が、からみ、飯を炊く方法も忘れて、ぬえ鳥の鳴くように、あはれに、力なく、呻いている。
ただでさえ、短いものの、端を切るようだ。
その譬えのように、苔を手にした、里長の声が、小屋の戸口まで来て、わめきたてる。
これ程までに、どうすることもできないのか。
この世の中の道というものは。

憶良は、この歌で、有名になったといってよい。
これに目をつけたのが、社会共産主義の学者たちである。
当時の律令政治の重税の実態を、歌うものだと、声高らかに言う。

この歌を、歴史の資料とするのである。
勿論、一つの、たった一つの資料である。
それを、絶対だと言うから、私は、笑う。
知らないものは、無いものなのである。
そして、うがった物の見方をすれば、何でも、自分の考え方に、使用できる。

学会の定説だというから、更に、驚くのである。
学者のアホ、バカ、間抜け振りというものである。

律令体制の重税に喘ぐ、民衆とは、笑わせる。
見て来たような、何とかである。

憶良が、どういう目的で、この歌を読んだのか。

万葉集の学者たち、その諸共、話にならないのである。
世の趨勢におもねるべくの、解説である。
皆々、生計のためであろう。
食うために、自説など無い。
皆々、迎合しての、お説である。

金を貰えば、翌日には、自説を簡単に変更するのが、学者である。
話にならない。

人間愛に燃えて、地底にうごめく民衆のために、歌ったという、説に、驚くのである。
貧を取り上げた歌は、万葉集では、憶良のみである。その通りであるが、解釈が、全くでたらめである。

憶良は、単に、人生の不合理、世の中の、不可抗力に、すべがないと、歌うのであり、貧を歌うものではない。

この世に、執着すればするほど、そういう心境になる。
その、元凶は、仏教思想である。
あの、妄想の無常観という、観念である。

反歌を読む。

世の中の 憂しとやさしと 思へども 飛立ちかねつ 鳥にしあらねば
よのなかの うれしとやさしと おもえども とびたちかねつ とりにしあらねば

この世に生きるのは、骨身を削られるほどに、辛く、憂いと、恥のかぎりである。しかし、だから、どこに、飛んで行くといえるのか。飛び立つことは、鳥でないから、出来ない。

貧を歌うのではない。
人生の無常を歌うのである。

これ、平安期になると、歌の主流になってゆく。
無常を歌い、セックス三昧である。
笑う。
実に、笑う。

ちなみに、うれしとやさし、である。
憂いを、うれしと、読む。どこかで聞いた言葉である。嬉しいという言葉である。
憂いは、嬉しいに通じる。
そして、やさしは、痩すという、動詞の派生語であり、身も細る感じの意味で、恥ずかしいという意味になり、そして、現在の、優しい、やさしい、に転じた。

憂し、嬉しい。
全く、相反する言葉である。しかし、それは、裏と表の関係である。
この世のもの、すべて、裏と表とある。
裏だけのものは、化け物である。

うれし、には、憂いと、嬉しいと、一緒にあると、考えた方がいい。
しかし、これ以上の説明は、省略する。

これからも、憶良の歌を読めば、それが、確たるものであることが、解る。

私の尊敬する、万葉集の解説者も、無常観を、仏教思想を肯定し、それを、善しとして解釈する。
そこで、私とは、全く、別の解釈になる。

明治期から、西洋の学問や、物の見方を持って、日本を解釈した。
大きな誤りであること、明々白日であるが、学者は、アホであるから、未だに気づかない。

どうして、りんごと、ミカンを比べられようか。
哲学は、相違を持って成るものであろう。しかし、アホな学者は、西洋の学問を是として、日本を解釈するという、愚かしさ。

上記の解説者も、仏教という思想を持って、あの大嘘の大乗仏教という思想を、もって、解釈するから、驚くのである。

日本を解釈するに、日本の精神、心、魂を持って解釈するのが、道理であろう。

そう、大和言葉によって、解釈することである。

詮無いことゆえ、これ以上は言わないが、ホント、アホどもの、学問には、辟易する。

正統のユダヤ人キリスト教が、母屋を取られた、ローマカトリックに異端とされたように、大和言葉を、知る者を、異端として、学会は、退けた。
すべて、権力によるものである。

しかし、権力は、朽ちる。そして、権威が、立ち戻るのである。




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