2007年06月07日

演歌

氷川きよし、という演歌歌手がいる。
あれほど、上手くならない歌手もいない。
デビューして、何年経つのか。
今は、育てるということをしないようである。

デビューした時は、少し期待したが、もう、残念である。
ただ、使い回されている。
歌心というものがない。ただ、勢いで歌う。
あれならば、声楽家と変わらない。

少ししたら、声が震えるようになる。ビブラートではない。単に震えるのである。
森進一のような、独特の声質でもない。
あのままでは、駄目になる。誰か、きちんと指導しないのかと、思うが、あの世界は金儲けであるから、売れなければ、次を探すのだろう。
哀れである。

シングルの新曲を二枚出すという。それは、実に珍しいと言う。
哀れである。
売れなくなった時、始めて解るだろう。誰も助けない。
彼のファン層の多くは、もうじき死ぬ。

さて、演歌という歌は、日本人の歌である。日本人だから、説明抜きで解るものだ。
その作詞も、五七調、七五調である。
字余りで聞かせる歌手に、長渕という歌手がいる。たいしたものだと思う。しかし、あれも演歌である。

演歌というジャンルは無いという人もいるが、それは、演歌の発祥を知らないからだ。
演歌は、演歌師から始まる。
明治の初期である。
時の政府を批判し、世相を斬った。
人に解りやすく、歌で、演題を説いた。
しかし、政府に禁止される。そこで、演歌師たちは、地方に出る。そして、次第に、人の心模様も歌うようになる。叙情歌の始まりである。

竹久夢二の「宵待ち草」が有名である。
ついには、ヴァイオリンを持って歌った。そして、それは、昭和初期まで続いた。
演歌とは、伝える演題があるということである。
伝えたいものがある歌を、総称して、演歌という。ならば、歌は皆、演歌である。

歌謡曲とは、戦後、政府が作った言葉である。
しかし、演歌という言葉に適わない。
歌謡とは、平安期からの歌を言う。歌謡の意味を書くと、これは大変な文芸論になる。
歌は、謡であり、詠いである。それは、また、伝統である。

便宜上、童謡、唱歌、演歌、歌謡曲と区分けるが、歌は、皆、演歌である。
伝える心を、歌心という。
伝えるものがない歌は、空虚になる。それが、声楽家の歌である。
発声の問題ではなく、頭の問題である。

氷川きよしの歌が、声楽家の歌に似る訳である。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。