2007年06月07日

千の風、本当・・・

松下幸之助は、兎に角、テレビに広告宣伝をした。
それが、唯一の販売、売り上げを上げる方法だと言う。
実に、正しい。
それほど、テレビの力があることを知っていた。
矢張り、商売の天才である。

千の風を、紅白で歌ったAのリサイタルが、完売、完売である。
テレビに出て歌えば、最低最悪の歌でも、人は聞くのである。
実に、素晴らしい。
大衆を簡単に誤魔化すことが出来るのである。

こんなに単純になった時代も無い。
兎に角、テレビに出ればいい。
そうして、テレビに出る物を、大衆は、良しとする。
自分の住む土地にいる、素晴らしい芸術家より、テレビに出る最低最悪の芸術家の方が良いと信じるのである。

万事休す。

私は、Aというテノール歌手に、なんら恨みは無い。
ただ、私の耳には、到底、歌というものではないということだけである。
私には、アォー、ワァーと聴こえるのである。私の耳が悪いのであろう。

歌に感動するのは、歌詞であったり、メロディーであったり、歌手の人柄であったりする。
千の風には、その一つも無いのである。
しかし、紅白に出た。その一点である。
そして、それに感動する、軽薄短小な、ある世代である。

私のオフィスの、ソプラノ歌手のリサイタルでも、最後に、ある、おじさんが言った。
今度は、千の風を歌って欲しいと。
団塊の世代である。

ああいう、直接的な表現を、日本人は、好まないはずであるが、おじさんは、好むようである。それは、伝統教育を受けなかったからである。
日教組世代の、おじさんである。

日本語の語感を忘れた日本人は、これから、どこへ行くのであろうか。

語感とは、情緒である。
情緒は、なさけをむすぶ、という大和言葉になる。

なさけとは、心が初々しいという心の状態である。
それが、結び合うのである。

野口雨情という作詞家がいる。童謡で有名である。
彼の歌に、しゃぼんだま、という歌がある。中山晋平の曲である。
それは、亡き子を追悼するために、書いたと言われる。その通りである。

そこには、消えたという、歌詞が、一番と二番で、四回も歌われる。

私は、墓にはいません。千の千の風になって、云々という歌詞は、意訳としては、実に良い。
しかし、しゃぼんだまの、歌詞には、適わない。
死んだ私は、墓にはいません。いつも、風になって、吹いています。

私が関心するのは、一神教のキリスト教徒が、あの歌詞を書いたということである。あれは、一神教では、書けない歌詞である。
しかし、あの露骨さは、矢張りと思わせる。

さて、私は、実は、あの作詞を以前から知っていた。
藤岡亡き後に、ある人が、私を慰めるために、進呈してくれたのである。
ただ、一度、目を通して、そのままにしてあった。

無理である。
亡くなった人を思えば、あれでは、無理である。
そう思い込めば、そう思えるという訳には、いかない。
矢張り、いないのである。

生まれてすぐに、飛ばずに消えた
という、しゅぼんだま、の、歌詞が、慰める。

どう思い込んでも、いないのである。
何と言おうが、この世にいないのである。
消えたという方が慰めに成る。

それを大和言葉では、隠れたという。また、その方が、より慰めになる。

結局、あれは信仰である。
千の風という宗教的な信仰である。

忘れる、振りをするということである。
忘れる振りをして生きるということである。
それも良し。言うことはない。

千の風になって、漂うことが出来る霊体は、実に少ない。

それにしても、あの歌手は、随分と下手である。歌心というものが無い。あれは、発声のみであるから、歌とは、言えない。しかし、それを歌として、聞く人がいる。
実に、大衆は騙しやすいのである。
聞くことは出来るが、聴くことは出来ないのである。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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