2007年06月07日

もののあわれ106

世間の住まり難きを哀しめる歌一首並びに序
よのなかの とどまりがたきを かなしめる うたいっしゅにじょ

集り易く琲ひ難きは、八大の辛苦。遂け難く尽くし易きは、百年の賞楽。古人の嘆く所にして、今も亦これに及けり。この故に因りて一章の歌を作り、以ちて二毛の嘆きを撥ふ。
その歌に曰くー

八大の辛苦とは、仏教の八の苦しみ。すなわち、生老病死の四と、愛別離苦、求不得苦、怨憎会苦、五陰盛苦である。
あいべつりく、くぶとっく、おんぞうえく、ごおんじょうく、と読む。

四苦八苦とは、このことである。

愛する人と、別れる苦。求めて得られない苦。怨憎する人と会う苦。そして、肉体の欲望の苦である。
肉体の欲望を苦と見るところに、特徴がある。

確かに、仏陀は、そのように分析したであろう。
そして、中庸の行為を持って、それに対処するように、指導した。

実は、仏陀の生き方の指導は、長寿のためのものだとは、今だ、誰も言わないし、知らないらしい。
長生きしたいのなら、仏陀の指導を受け入れるとよい。

これを語ると、長くなるので、省略する。

百年の賞楽。
百年は、人生の寿命の最大を言う。人の一生である。
あの頃でさえ、人生100年と言うのである。人生50年と言う時代は、後であるから、おかしい。
百年を生きることが出来たのである。
賞楽とは、楽しみである。

二毛の嘆き。
黒髪に白髪の交じる哀しみ。

集り易くして、排し難いのは、生老病死など八大の苦である。
得難くして、たちまち尽くしやすいのが、人生百年の楽しみである。
古人も、そのことを嘆いたが、今の人の嘆きも同じである。
そこで、一首の歌を作り、老いの嘆きを撥いたい。

撥う。払うという。

古人も、嘆いたという。何度も言うが、万葉時代も、今も、矢張り、変わらない。
今も、現代も、それを嘆く。

私は、嘆かない。
嘆くことなど無い。
老いることは、楽しいし、死ぬことも、願いである。
いつまでも、青年のようであれば、化け物である。そんなものに、なりたくない。だから、老いても、心が若いなどという、アホなことは言わない。
日本の伝統である、老成を目ざす。

憶良は、実に、もののあわれ、の、反面教師である。
万葉の時代に、すでに、もののあわれ、から、逃れようとする人がいたのである。
何と言う驚き。

人生が、たちまち、過ぎ去るから、辛うじて、この冗談のような、人生を生きられるのである。
私の部屋には、一年先のカレンダーがある。手作りである。
コンサート開催のためでもあるが、時の過ぎ去るのが、実に、楽しい。
それが、死に向かっていることが、また、楽しい。
必ず、死ぬということが、救いである。

そして、過ぎたものを、ダッタダッタと、捨ててゆく。それが、実に、いい。

私が恐れるのは、本屋に入ることである。
入る時、本は買わないと、誓って入る。しかし、どうしても、と、数冊。
私は、本により、部屋が乱れることを知っている。
何度も、捨てたが、捨てるに追いつかない。
今は、出来る限り、図書館から、借りて読む。
本の場所がない。
ベランダに置いた本は、雨風で、やられて、捨てることになる。実は、捨てられる状態を待つのである。
捨てるに忍びないから、もう駄目だという状態まで、待つのである。

もし、私に妄執があるなら、本である。これを、すべて、捨てられたら、私は、解放される。
性欲の方が、よほど、いい。
本より、セックスを楽しめることが出来ればと、何度も思った。
しかし、本の魅力には、適わないのである。

セックスは、体が衰えれば、それまでであるが、本の妄執は、死ぬまで続く。それも、益々と、熱が入る。
浅はかな知識を得るために、黙々として読むというのは、狂気じみている。
本を読む姿など、人に見せられるものではない。

知識という、死骸を集めて、何をすると思う。

仏教も、これについては、あまり言わない。それを言えば、仏教の妄想の、知識を否定することになる。
知欲というものがあるのである。
あらゆる欲望の中で、最も、熾烈な欲望である。

この欲望の前には、他の欲望など、屑、塵のようなものである。

言葉というものは、多次元に通用しないのである。

しかし、知識は、言葉である。

人類が発明したもので、最も罪深いものは、言葉である。

これが無ければ、どれ程、気楽に生きられたか。
そして、これがあることで、人類は、生成発展してきた。

強い薬は、強い毒にもなる。

言葉は、神であるという聖書の言葉、実に、罪深い。
神は、罪深い存在である。

日本には、そのような神はいない。
私が、日本の伝統である、古神道を善しとするのは、説くことも、書くことも、せず、ただ、自然の中に、隠れたものを、善しとするからである。
そして、自然との共生が、救いであることを、暗示するからである。

山川草木に、注連縄を張り、貴きものとして、拝する、伝統こそ、救いである。
そして、人間の肉体の欲望を否定しない。
それを、恵みとする。
つまり、人間も、自然の一つであるという、謙虚な姿勢なのである。

人間の肉体の欲望など、たかが、知れている。
一体、どれだけ、食べられるのか。
一体、どれだけ、セックスが出来るのか。
365日、確実に、食べているが、セックスなど、そんなにしていられるものではない。
一日、射精を10回しても、それは、精々、10代で終わる。

八百万の神の楽しさは、飲んで歌って、色事も楽しむ。
なんという、おめでたい、神々であろう。
毎日が、お祭りである。

そうでもしなければ、こんな、馬鹿馬鹿しい人生など、屁のようなものである。
と、いうことを、神々は、日本の神と、呼ばれる霊たちは、手本を見せる。

日本には、宗教など無い。
あるのは、宗教的であるということである。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。