2007年06月06日

もののあわれ105

敢えて私懐を布ぶる歌三首
あえておもひをのぶるうた さんしゅ

天離る 鄙に五年 住まいつつ 都の手ぶり 忘らえにけり
あまさかる ひなにいつとせ すまいつつ みやこのてふぶり わすらえにけり

都を遠く離れた筑紫の田舎に住んで、五年。都の風習も、忘れてしまいました。

かくのみや 息づきをらむ あら玉の 来経往く年の 限り知らずて
かくのみや いきづきをらむ あらたまの きえゆくとしの かぎりしらずて

このようにして、いつまでも、溜息をついて、暮らすのでしょう。これから先も、数知れず、新しい年を迎えては、送ることでしょう。

吾が主の 御霊賜ひて 春さらば 奈良の都に 召上げ給はね
わがぬしの みたまたまひて はるさらば ならのみやこに めしあげたまわね

あなた様の御霊の御愛念を賜り、来年の春になりましたら、私を、都にお召しになってください。

あなた様とは、大伴旅人のことである。

憶良は、長官である旅人と、歌合せを行っている。
その作風は、全く別物であるから、相克があった。
しかし、旅人は、その大らかな性格と、長官であるという意識から、鷹揚に構えている。

宴席を中座する憶良が、歌う有名な歌。

憶良らは今は罷らむ 子泣くらんーーー

その際に、旅人が、讃酒歌を読むのである。
卑屈な憶良に対して、旅人は、鷹揚に構えて、歌を読むのである。

ある万葉集研究家の言葉である。
「やはり憶良の本音は。憶良が生涯をかけて追求めた立身出世への執念の旅路、その旅路の果てに、憶良が手にしたものは、失意であり病苦であり老いであり死であるという絶望の呻きにあり、愚痴の悶えにある。はばかることなく、現世に執着して、死に至るまで燃やし続けた煩悩の激しさにあり、惑いの深さにある」

憶良の、それは、現代人に似る。
ゆえに、理解しやすいのである。
屈折した憶良の歌が、理解されるということは、この時代も、大きく屈折しているのだろう。
何ゆえの、屈折か。
思い通りにゆかないジレンマである。
努力が、なかなか、認められない、成功しない、妄想の自分に成れないこと。

現実とは、かくも、厳しいものである。

都で、成功して、つまり、出世して、吾世の春を謳歌したいのであるが、それが、叶わぬ。それのみか、失意と、病苦等々である。
針のような、小さな不幸も、象のような大きな不幸に思えるという、不幸である。

だから、人の不幸に同情し、共感して、歌を読む。
あたかも、我が身の如くである。

不幸の好きな人は、不幸を呼ぶ。
幸せであることが、不安なのである。
勿論、本人は、そんなことを思わない。

男に騙される女は、次の男にも、騙される。
人は、繰り返しを、求めて安心する。不幸も、そうである。
幸福感を得る時、それを無意識に否定するのである。こんなはずではない。幸せになるはずがないと。

人生を作るものは、多く、性格である。
性格は、因縁による。
不幸を好む因縁である。

それが、病になると、依存症ということになる。
お金を借りるという行為も、依存症の一つであり、多情債務者とは、借りることを繰り返して、安堵する。

幸薄いという人は、幸を求めていないのである。
この、心のカラクリを知らないと、いつまでも、不幸を繰り返す。

嫉妬。
この感情を潜在意識に植えつけると、他者に向けていた、嫉妬が、自分の心を襲う。
つまり、自分が成功した時に、何と、私が吾に嫉妬するのである。
それゆえ、その成功に安堵できず、その幸福感に浸れない。しまいに、幸福であることを、無意識に拒む。
本当に、幸福になれないのは、すべて、自分の中にある、意識のせいである。

ただし、勘違いしては、駄目。
マイナス思考のことではない。
思考法は、プラスとマイナス思考を共にするから、良い。それを、バランスという。

幸薄い人は、マイナス思考なのではない。
幸せになっては、いけないと思う、思い込む因縁、性格を持つのである。

マイナス思考とは、後ろ向き思考のことである。
プラス思考とは、前向き思考である。
それを、バランス良く、持ちつつ生きるから、楽しい。

憶良は、生まれ育ちに、負けているのである。

同じく、遣唐使と共に、唐に行き学んだ空海は、船に紛れる如くに乗り込んで、真言密教の継承権を、持ち帰ったのである。
その野心といったらない。
最後は、天皇に取り入れらるようにとの、野心である。
御所の側近くに、建物を建てて、自己顕示する。

両者共に、立身出世を求めたが、全く違う。
一方は、繰言多し。一方は、人の心に迫る文を書く。
そしてその行動もである。

空海は、精力的に、神出鬼没ともいえる行動である。
そのエネルギーたるや、凄まじいものがある。
ついには、死にながら生きるという、芸当までやってのけた。
今でも、真言宗では、空海が、生きている時と、同じように、食事を差し上げるという様である。

そして、その空海の修法から、一歩も先に進んでいないというから、驚く。
空海を超える、真言の僧、一人もいないのである。

余計なことを書いた。

さらに余計なことを書く。
空海の、文、そして、行為行動は、評価する。
しかし、密教は、評価しない。
秘密の教えというところに、嘘がある。
奥義、奥伝というものがある。
それらを置くもの、皆々、嘘である。

その呪術の奥義を、秘密にする。
誤って使用されては、困るとでも言うのだろう。

空海当時、加持祈祷により、多くの難題を解決した。
それもありであるが、一時的なものである。

病を癒しても、人は、死ぬ。

呪術は、念力、つまり、想念力である。そして、不浄な霊を取り込み、それを使用する。
当時の陰陽師も、そうである。
式神という、不浄な霊を取り込んで、奇跡を起こす。
共に、お勧めできないものである。

しかし、アホがいて、霊能力や、念力を求めて、修行するから、しょうもない。
修験道も然り。

信仰というものがあるならば、それらは、すべて亜流である。

ホント、余計なことを、書いた。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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