2007年06月05日

もののあわれ104

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲ばゆ 何処より 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいし寝さぬ

うりはめば こどもおもほゆ くりはめば ましてしのばゆ いづくより きたりしものぞ まなかひに もとなかかりて やすいしなさぬ

まなかい。
目先の意味。

もとなかかりて。
もとづくところなく。わけもなく。しきりに、の意味。

やすいし寝さぬ。
安眠すること。ぬ、は、打消し。

瓜を食べると、子供のことを思い出す。栗を食べると、なおさらに、子供が恋しく思い出される。いったい、子供というものは、どこから、どのような因縁で、現れてきたのだろうか。その面影が目先に、ちらついて、夜も、眠られないのである。

反歌

銀も 金も玉も 何かせむに 勝れる宝 子にしかめやも

しろがねも こがねもたまも なにかせむ まされるたから こにしかめやも

銀も金も、玉も、それがどうしたというのであろう。とても、子供には、及ばない。

反歌は、有名であり、結婚式などで、挨拶の言葉で、聞くことがある。
しかし、それは、実に、濁りがある。意味は、解るが、その前後の歌を読むと、この歌には、どうも、純粋な情感がない。
心に沁みる、清らかさ、香りの高さはない。

こういう、直接的表現をしなければならない、憶良の心境に、迷いを観る。
万葉初期ならば、子供の有りのままを歌い、そこに、深い情を感じる歌になるのである。
わざわざ、こういう、明らかに、納得させる歌を読むところに、憶良の迷いがある。

序に、生半可な仏教経典の言葉を大量に使用して、大上段に構える。そして、長歌と、反歌で、子供に対する思いを、歌う。どうも、何か、勘違いしている様あり。

すでに、現代の人のように、妄想の教えに、酔い、あたかも、知る如く、悟るが如くに、ある様、如何にも、現代の人に似る。

多く、新興宗教の教祖などの文を読むと、そこには、薄っぺらい感傷と、大上段に構える言葉の羅列があるが、決して、心に響いてこないのである。
しかし、信徒は、それを読んで、最も、解りやすいようであるから、感動する。その感動も、実に、薄っぺらいということに、気づかない。

しまいに、漫画のような、文になるから、終わっている。

絵のある漫画の方が、それより、深い場合、多々ある。

解釈というものは、実に、その解釈をする人の、思想による。
思い込みによる。
憶良の歌を評価する学者は、すべて、当時の政治の有り様で、解釈する。
律令体制の、重税にあえぐ、庶民の云々とか、言う。
明らかに、目が濁るのである。

最初から、主義という、物差しを持って、解釈しようとする。
だから、学者の解釈を、鵜呑みにしないことである。

偏見と、偏狭に満ちている。
いずれ、貧窮問答歌の際に、それを書くことにする。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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