2007年06月03日

藤岡宣男について

自分が舞台に立って歌うことで、藤岡宣男を追憶する。

日本歌曲を歌う。
しかし、声楽家のようには、歌わない。その間合いも、雰囲気も違う。違って当然である。私は、演歌師であり、歌師であるから、別物になる。
楽譜の通りには、決して歌わないし、歌えない。
何となれば、大和言葉で歌うからである。当然、楽譜を大和言葉に変更して歌う。また、その時々によっても違う。それが、再現芸術の最もたるものである。

藤岡も、様々なジャンル、それはクラシックの中でも行った。
歌曲は、日本、イタリア、フランス、ドイツである。凄いことである。
そして、歌いきれた。

私は、改めて、この行為によって、童謡という歌に目覚めた。改心した。回心もした。
ドウヨウとは、漢語である。大和言葉だと、わらべのうたということになる。
わらべうた、であるから、誰もが歌う。ドウヨウだと、子供の歌う歌となる。

わらべうたは、和歌の世界と同じである。
大和言葉で、とくに、言葉が優しい。簡単明瞭である。しかし、その奥は、深い。どこまでも行く。考えれば考える程、深く行く。

こうして私自身が歌うことで、何が正しいことかということが、解った。
正しいという歌唱法は無いということである。
もし、そういうことを言う人がいたならば、嘘であるということだ。

そしてもう一つ、民族音楽のことである。
音楽とは、民族音楽のことである。勿論、西洋音楽のクラシックも、民族音楽の一つである。それをもってして、音楽全般ではない。それを知るか否かで、その人の音楽の教養が解る。

藤岡宣男が、ポップスに向かっていた気持ちが、解る。
限定されないもの。誰もが、聴けるもの。
歌い手ならば、当然である。
限られた人に聞かせのではない。多くの人に聴いてもらう歌を歌いたいと思う。

クラシックの声楽の世界は、あまりに狭いのである。その狭さを、格式があると思い込む、声楽家のアホも多い。高級だと信じている。信仰に似る。
だから、賢い人は、決して近づかない。遠めで見るのである。

舞台は、漁師が命懸けで、漁をすることと、一緒である。
命懸けの行為である。
そして、漁と同じで、その結果が大漁になるか、駄目になるかも、同じである。ただし、行為自体は、どちらにしても、同じく、命懸けということである。

死にたいと思っていた人が、歌を聴いて、明日も生きると、勇気を持った時、大漁といえる。一人でも、である。

リハーサルも、本番も汗だくになる。
藤岡は、実に、計算して賢くやっていたことを知る。
私は、頭が悪いゆえに、その程度が解らない。ゆえに、歌い終わると、死ぬほどになる。
だが、私は、それでいい。
とすると、今まで出会った声楽家はと、考える。

日本語以外の歌詞を歌い、その歌詞の意味さえ知らない者がいたから、驚く。一体、何を歌っていたのだろうかと思う。信じられないのである。
勿論、日本語の歌でさえ、意味を知らない場合は、終わっている。

有名な声楽家で、どこの国の言葉で歌っているのか解らない者もいる。
それを感動して聴くというから、驚きである。
雰囲気だけで聞かせているとしたら、それはまた、凄いことであるが・・・
続く訳が無い。

私は歌を歌うということで、死ぬまで、藤岡宣男を追憶することにした。
勿論、命懸けである。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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