2007年05月30日

イスラム1

「げに、アッラーの目より見て、汝らのうちにて最も高貴なるものは、汝らのうちにて最も敬神の心深き者なり」
一人一人が、神の前に裸である。
高らかに、ムハンマドは声を上げた。

ベドウィンたちに個人という意識は無かった。彼らは、個人が単位ではない。部族が単位である。その部族の元は、血である。一切は、血族である部族による。それが、生きるモラルである。何人も、それを犯すことは出来ない。

ムハンマドが声を上げたのは、キリスト誕生から600年を過ぎた頃である。
ムハンマドの存在は、内にも外にも、絶大なる影響を与えることになる。
というより、絶大なる抵抗と、烈しい迫害である。
これぞ、新興宗教といえる。

ローマカトリックに代表されるキリスト教が、異端を抑えて、隆々として世界制覇を掲げていた。
法王の権威は、王をも凌ぐになるのである。
カトリックの最大の異端は、ネストリウス派であった。彼らの、教義は、イエスを最も神に近い人間とした。三位一体の教義を、真っ向から否定するものである。
父と子と聖霊は、同格なのであるが、ネストリウス派は、三位一体説をとらなかった。カトリックは、皇帝と結び、徹底した異端審判を行った。

ところが、別の角度から、ムハンマドが、それを言う。
イエスの神聖を否定し、人性だけを認めた。
つまり、イエスは、旧約の預言者たちと同じ格なのであり、ムハンマドも、その一人であると宣言した。
カトリックが掲げる三位一体を徹底して糾弾した。
自分も、そのセム的一神教の預言者の最後を飾る者であると、高らかに宣言したのである。
神に、父や子があるか、神は、御一人である。これが、ローマ教会を激怒させることになる。そして、教会は、イスラムに対して、武力攻撃を決意する。それが、あの十字軍である。

イエスが、ユダヤ教の完成を言うように、ムハンマドも、旧約の神を神とする。つまり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、共に、旧約聖書を聖典とするのである。
ユダヤ教は、今でも、救世主の出現を待ち、キリスト教は、新約聖書により、旧約がイエスによって完成し、イスラム教は、ムハンマドが、最後の預言者であるとする。
ここに、三つ巴の戦いが始まるのである。

話は別だが、私が三蔵法師玄奘を調べた時に、かれの通った道の国々は、すべて仏教を信奉していた。しかし、ムハンマドがアラッーの教えを開始すると、それらの国々は、皆、イスラムに転向した。それが、私の謎である。
確かに、イスラムは、シリアを取り、エジプトを取り、メソポタミアを取り、ペルシャを取り、インドを取り、北アフリカを取り、遂にはスペインにまで至ったのである。
それは約百年の間のことであるから、驚く。

これは、私の偏見から言う。
武力で成る布教により、人は信仰を受け入れるのだろうかということである。
敵を想定しない、仏陀の教えの方が、受け入れやすいと考えるのだが、世界は違うようである。
人の心にある、怒りや、憎みを最大限に生かしきることで、成り立つイスラムという宗教の信仰を正しく理解するには、大変な努力が必要である。
出来る限り、虚心胆管にして、冷静に見つめてみたいと思う。

ただし、私は学者ではない。私の霊学からも、口を挟むことになる。

異質なものを理解する行為は、今こそ必要である。
イスラム圏に出掛けていた日本人は言う。彼らは、気違いだと。真っ当な会話すら出来ないと。
あまりにも、彼らの思考がこちらと違うということである。
世界に、こんな考え方があったのかという驚きである。

国際感覚などとは、まだまだ遠い。
知らないものを、知らないと認めないと、何も始まらない。

イスラムを理解ために、ムハンマドをまず、見つめる。



posted by 天山 at 00:00| イスラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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