2007年05月23日

キリスト10

マルコによる福音書は、奇跡のオンパレードである。

十二年間、出血症をわずらっている女がいた。多くの医者に大変苦しめられた。持っているものを、すべて使い果たしても、治らない。イエスの噂を聞いて、群衆に交じって、イエスの服を触る。
「私の服を触れたのは誰か」とイエスが言う。弟子は、こんなに大勢の人がいますので、誰かは解りませんという。
女は、身の上に起こったことを知り、イエスの前に出る。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行け。病気が治り、元気でいるように」とイエスは言う。

「あなたの信仰があなたを救った」
この言葉を書くために、マルコは、これを書いたとしか思えない。

あなたの信仰であり、イエスの恵みではない。
しかし、別の箇所では「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだ」と言う。
賜りたる信仰である。

聖書解釈は、いかようにでも出来る証拠である。
兎も角、奇跡によってしか、イエスを判断出来なかった当時の人の様が見える。

現在も、奇跡を行う者を信じる。
空間から、物を取り出す、インドのサイババという人も、そうである。
その奇跡を見て、人は、驚嘆し、信じる者と成る。
しかし、イエスは「見ないで信じる人は、幸いである」とも言う。

ここで、私は、きっぱりと言う。
奇跡は、魔界から出る。
霊界の常識である。
それでは、イエスは、魔界の者か。
違う。
どうしても、奇跡を見せなければならなかったのである。その悲しみは、いかばかりか。
いかに当時のユダヤ教が、堕落していたかである。
それは、今に至る。そして、イエスを神として戴くキリスト教も、然り。
主イエスの名において奇跡を成しても、教会は認めないだろう。
だが、マザーテレサのように、世界的に有名になると、死後、速やかに、福者とし、いずれ聖人として認定する。
マザーテレサは、カトリックの広告塔になったといえる。

病にある者は、病の癒えることを願うが、病の意味を問うことは少ない。
病は、何故病なのかを問うことが必要であるし、そのための病である。

仏陀は、生老病死を苦と観た。病も苦とみた。それは、人間の生涯なのである。
人間の生涯は、苦であるという。それも、一つのものの見方である。

奇跡を見せることほど、悲しいことは無い。
奇跡は、悪魔の最も好むものである。
それで、すぐに結果が出るからである。
そんな安易なことならば、生まれる必要も無い。
何故、この世に生まれたのか。それは、生老病死を体験するためであり、その意味を知るためである。

イエスは、最も悪魔に近づいたといえる。

人は必ず死ぬ。出来れば、楽に安らかに死にたい。自然死、老衰が一番良いが、そう簡単なものではない。様々なことを経験して生きるために、生まれたのであるから、病も必要である。

生長の家という新興宗教がある。ある霊能者は、開祖の何がしが、高い霊界に上がったというが、私は、それを知らない。
その開祖は、病は、影だと言う。本来は無いものであると。実相世界は、病など無いと。しかし、では、何故生まれたのか。
肉体を持つ人間として生まれた。生老病死が、当たり前であろう。

よしんば、奇跡によって病が癒されても、人は死ぬのである。
人は神の子であるから、云々という。その通りである。しかし、だからこそ、生老病死を経験するために生まれたのであろう。
病になれば病を生きる。それでよし。
病を癒して、10年長く生きても、何であろうか。
実相世界が主であれば、死ぬことが一番であろう。
長く生きることはない。

生きるというこが、何であるかを、開祖たちは知らないのである。
それで、教祖として、のうのうと生きたのである。
運が良いとしか、言いようが無い。

教祖として成功したのである。良かった良かったである。

教えもどきに、信仰して、救われた人は多い。しかし、また転生するであろう。
何度も繰り返して、同じことを繰り返す。
仏陀は、そのからくりから、逃れることが本当の道だと教えた。
要するに、二度と転生しないことである。

しかし私は言う。
永遠に転生してもいい。迷いを迷っていればいい。
繰り返しをして楽しめばよい。
愚かなままで、いい。そして、精根尽きて、もういいと思った時、消滅を願う。

全くの消滅である。

宇宙の外でいいのである。
宇宙の外は、無である。
神も仏の世界もいい。消滅を願う。
それが、最大唯一の救いであろう。

すべては、観念に尽きる。




posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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