2007年05月22日

キリスト9

「汚れた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスを迎えた。」

聖書には、よく汚れた霊につかれた、または、悪霊とか、悪魔、サタンにつかれた人が登場する。
それをイエスが祓うという奇跡だ。

汚れた霊とは、仏教では、不成仏霊ということであろうか。
要するに、成仏せずに、この世に留まっている霊ということだ。幽霊とか、お化けになるのか。
汚れた霊を悪霊というのが、聖書の特徴である。

ここで、霊というものの存在が確かだということである。
目に見えない霊を、明確にしている。イエスに反対する者も、霊の存在は、否定しないのである。

霊、というものも、観念である。
ただ今は、スピリチュアルという言葉が流行っているが、明確に出来ないでいる。単に、目に見えないもの、それを霊としているのみ。まして、死者と話すということを、平気でする。死者と、話すということは、死者と同じレベルであるということである。送信と受信は、同じレベルで行われる。レベルが違えば、合わない。ということは、話をする死者は、生きている者と、違わないレベルにいるということである。つまり、不成仏霊に近いのである。もし、死者が、遥かなレベルに存在するならば、受信は、出来ないのである。

もはや、目に見えないものは、無いということが出来ない時代にある。目に見えないものが沢山あることが、科学で解ったからである。見えないから無いとは、言えない。
ただし科学的に霊の存在を云々するというのは、いただけない。科学は、その次元までに至らないからである。

実に、霊能者には注意が必要である。
その人にしか、解らない事を言うのである。

さて、イエスが汚れた霊を取り除くことの意味は、何であるのか。

「かれは墓に住んでいたが、もはやだれもかれを縛っておくことはできなかった。鎖をもってしてもだめであった。かれはたびたび足かせや鎖で縛られたが、そのつど鎖を引きちぎり、また足かせを打ち砕いたからである。それで、だれもかれを取り押さえることができなかった。かれは夜となく、昼となく、墓や山で叫びたて、自分のからだを石で傷つけていた。かれはイエスを遠方から見つけると、走りきてひれふし、「いと高き神の子イエスよ、わたしをどうしようというのですか、神かけてお願いです。どうかわたしを苦しめないでください。」と大声で叫んだ。それは、イエスが「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。またイエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、かれは、「わたしの名はレギオンです。わたしたちは大勢いますから」と答え、そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、懇願した。」

今ならば、精神疾患である。
これを読む限り、精神疾患の人は、霊に憑かれているといえる。
二千年前のことである。
医学の知識も無かった。今のようにである。
当時、このような人を治すことができなかったということが解る。
ところが、主イエスは、悪霊を祓い、治すのである。
当時のユダヤ教にも、大司祭や、律法学者等々がいたのである。しかし、誰も、霊につかれた人を治すことが出来なかったということである。
これが問題だ。

「おびただしい豚の群れがそこの山のふもとで草を食べていた。そこで、汚れた霊どもは、「わたしたちが豚に乗り移れるように、そのほうに行かせてください」と願った。イエスがそれをお許しになると、汚れた霊どもはその人から出て行き、豚の中にはいった。すると、およそ二千頭の豚の群れが、がけから湖へなだれ落ち、おぼれて死んでしまった。」

実に、おかしい話である。
霊は、死んでいるから霊であろう。
豚に入り、もう一度死んでも霊であろう。
これで消滅したのだろうか。そんなはずはない。

その後で、人々が来て、その話を聞き、恐れをなしたという。
芝居じみている。

こういう霊の集団がいるということである。
今もそうであろう。
ただ、それが別の形に変わった。
生きている人間より、死んだ人間の方が多い。実際、霊の方が圧倒に多いはずである。
と、これは、質より量の話であるが、単純に言うとそうである。
さて、このイエスの行動には、どんな意味があるのか。
悪霊が、神かけてのお願いですというのも、おかしい。悪霊というより、仏教で言う不成仏霊という方が、当たっているようである。

この箇所が、霊的能力のある者にも疑問を持たせる。
何故、豚に入れたのか。そして豚を死なせたのかである。
イエスほどの力のある者が、何ゆえに、こんな程度の低い扱いをするのだろうか。
一つだけ言えることは、この地方の人は、異邦人といわれる人が暮らしている土地であるということだ。ユダヤ人からは、異邦人である。
別の信仰を持つ者。仲間ではない者。
聖書研究では、政治的な存在としてイエスを見ないからだという。政治的に利用されないからだということ。
イエスは、この後で、霊につかれた男に、自分の身の上に起こったことを話せと言うのである。大変な宣伝である。

この記述から解ることは、ユダヤ人とは、実に偏狭で、差別意識が強いかということである。新約聖書の中には、多く、このような記述がある。
これで、一神教のユダヤ教というものが見える。排他的であり、非寛容である。
そして、選民意識を持つ。

イエスも、ユダヤ人である。そのユダヤ人に、何を説くのであろうか。聞く耳のある者は、聞くがいいという説教だが、ユダヤ人が聞くはずもないことを、一番知っていたはずである。規則と作法に、雁字搦めにされている者である。それを信仰として、成す者である。

イエスの宣教は、実に空しい。

そして、奇跡である。それゆえにも、恐れられ、批判される。そして、結果は、磔である。
何を、イエスは、成したかったのか。

当時も、こうであるならば、今なら、もっと理解されないはずである。

エクソシストという、悪魔祓いといわれる行為は、今でもある。
しかし、一向に成果を挙げていないはずである。
悪霊として対座するからである。
何度も言うが、同じレベルでなければ、送信、受信は適わないのである。
この世の次元で成す霊は、この世の次元以下でも、以上でもない。ゆえに、この世の人のように扱うのである。
つまり肉体というものが無い状態の、想念体である。
霊とは、想念体のことである。特有の気を発する。
それが浮遊している場合もあり、自縛している場合もある。そして、怨念を持ち、怨霊と言われる場合もある。
祟り霊といわれる場合もある。

イエスの霊祓いは、いつも、その力で、追い払う形である。どうも理解できないのである。ここでも、対立の思想なのが不思議だ。
何故、悪と善という形の対立をさせるのか。
神と魔の対立である。
キリスト教徒の対立概念は、イエスから始まっているのか。いや、その根底には、ユダヤ教の対立概念がある。
イエスも、ユダヤ人であることから、免れていないといえる。

しかし、霊的に解釈すれば、主イエスの行動は、当時の人に明確に、神と魔とを対立させて教えを伝えたのであることが解る。
誰もが解るようにしたのである。

ところ変われば、その方法も変わる。
古神道では、対立させることはない。
説き伏せて、奉るのである。鎮まることを願うのである。また、次元を移動させる。霊的空間に、戻すのである。戻らない場合は、この世に、別空間を作り、奉る。
そして自然移行を願う。
霊は、荒ぶる霊でも、時を経て、本来の場に戻る。気づく。それを促すのである。
力づくでの行動は、取らない。
だから、イエスのような、超人的な存在はいない。
古神道には、教祖がいない訳である。

しかし、祟り霊という観念も、仏教伝来以降からのものである。それ以前は、そんな観念は無い。日本人の信仰形態が、恐れから始まるという学者もいるが、全く見当違いである。それは、平安期以降の話であり、それ以前は、恐れからの信仰などない。

すべての事柄が、讃歌であった。万葉集を読めば、そこに証拠がある。
生老病死に苦を観ることもなかった。
苦ではなく、それは、悲であった。
以下、省略する。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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