2007年05月21日

キリスト7

「ともしびを持ってくるのは、ますの下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているものであらわにされないものはなく、また、秘密にされたもので公にならないものはない。聞く耳があれば、聞くがよい。」
「注意して話を聞きなさい。あなたが量るそのますで、あなたがたも量りあたえられ、しかもさらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる。」

実に、解りやすい例えであるが、実際、この話を理解するのは、至難の業である。
お目出度いクリスチャンは、その言葉通りに受け取り、頷くが、全く理解していないことは、明白である。
解ったつもり、というのが、最も悪い。

聖書研究を見る。
一時的に隠されているが、将来、もっと多くの人に表されるという。
もっとも、世界宗教となったキリスト教であるから、その通りであろうが、知られたことが、大切なことではない。
信者が多いから良いのではない。

聞く者は聞け。注意して聞けと、何度も主イエスは言う。
それ程、重大なことを言うのである。

隠されているものとは、何か。
秘密にされているものとは、何か。
聖書解釈は、単純に、それは、主イエスの言葉であり、その存在であるという。

隠されているものと、あなたが量るそのますというのは、連動している。
隠されているものとは、人の因縁である。それゆえの、量りである。人は、自分の器でしか、ものを量ることは出来ないのである。その原因は、因縁である。
解るということは、実行出来るということである。
単なる理解は、頭だけのこと。本当の理解は、即実行出来るということである。

秘密にされたことで公にならないものはない。
秘密とは、人の因縁である。
それは、その人を見れば、すべて出るのである。
話は、それからの問題である。

実に、量ることなど出来ないということを言う。
あなたが量るますで量られるというのは、自業自得を言うのである。
これを、聖書研究は、イエスの言葉を実行する人は、ますます真理を悟り、そうでない人は、ますます真理から遠のくという。
一体、真理に近づく、遠のくとは、どういう意味か。
イエスに従う人が、真理に近づくと単純に思う。
イエスに従うということが、どんなことであるのか、知らない。
すべてを捨てて私について来なさいというイエスに、従えるのか。

あの当時も、画期的な説教であるが、今も、イエスの言葉は、画期的である。

イエスの言葉は、対立を生む。
その対立が、今も続く。
汝の敵を愛せよという言葉にあるのは、敵を想定するということである。最初から敵を想定する様は、いかなることか。
「わたしは、世に剣を持ってきた」とも言う。
何故、キリスト教徒が戦いを好むのかは、イエスの言葉にある。
すでに戦闘状態を言うのである。

仏陀は、一切の敵を想定しなかった。
だから、慈悲の思想が生まれた。
イエスの愛の思想は、対立の思想である。
時に、慈悲と愛を、同じように定義するアホな、宗教家がいるが、全く違う。
愛は、戦い抜くのである。
慈悲は、戦わない。戦いの観念が無い。

当時のユダヤ教徒との、全面戦争を想定した説教であること、明白である。
キリスト、救い主という思想については、後で書くが、ユダヤ教徒の、メシアは、政治的メシアを言うのであり、精神的支柱を言うのではない。
最初イエスに付き従った者たちも、イエスが、この世の王になることを信じたのである。
勘違いである。

イエスの言葉を解くには、キリスト教論理を超えなければ解るものではない。

イエスの教えは、教会ではなく、世界的視野に立った、多くの思想からの解釈が必要なのである。
なんとなれば、今も、イエスは語り続けているからである。

マザーテレサが、ある時、キリストが目の前に現れて言う。
「私は乾く」と。そこから、マザーテレサの活動が始まる。
その時、キリストとは、主イエスであるのか。
それは、主イエスの眷属である。眷属とは、主イエスの多くの霊界の仲間である。
波動が違う世界に、メッセージを送るということは、同じ波動にならなければならない。受信機の波動になってから、メッセージを発するのである。主イエスの波動は、もはや、この世にコンタクト出来ないはずである。派動が、違い過ぎる。

この世は、味噌も糞も一緒の次元であるから、高い次元の波動の者も、低い次元の波動の者も、一緒である。
それが、この世の意味である。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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