2007年05月20日

もののあわれ87

高き峰に 雲のつくのす 我さえに 君につきなな 高峰と思ひて
たかきねに くものつくのす われさえに きみにつきなな たかねとおもいて

つくのす、とは、なす、の方言。
我さえには、我までもという意味。
君につきなな、の、終わりの、な、は、願望の助詞。

高い山に、いつも、雲がついているように、私も、あなたに寄り添っていつていたいという思いで、いっぱいです。あなたを、高い峰と思いつつ。

この歌は、自然の有り様を、どのように観ていたのかを知る手立てになる。
自然把握が、自然と一体にあるということが解る。

現在、自然というものを守るとは、言うものの、果たして、自然というものを、どのように把握しているのか。

実は、自然という言葉は、ジネナと読む、思索のための言葉である。
実際の自然は、天然なのである。
天然を自然と、呼んでいるのである。
天然とは、そのままである。山や川が、そのままにあることを天然という。
自然と言う時、そこには、人の手が入るということである。
人が暮らしやすいように、手を入れて、自然を作るのである。
そのままの状態であれば、天然であり、実は、天然であることを守ることが、自然を守るということになる。

自然の逆は、開発である。
人が住めば、当然、開発が必要になる。
一つ、自然と対立するものは、ゴミ問題がある。自然にゴミを放置すれば、自然は破壊される。
土に帰るようなゴミではない。
例えば、バリ島などは、天然溢れる土地だったが、観光客によって、あらゆるゴミが出されるようになった。
下水処理も、十分ではなく、冗談ではなく、観光客の糞を、餌にして、なまずの養殖をしたりしている。
汚水処理が出来ないからの、苦肉の策である。

昔のゴミは、土に帰った。しかし、今のゴミは、放置しておくと、そのままである。土に帰らないゴミなのである。
バリ島の川も、自然に汚染されるようになり、今では、当たり前の沐浴も、出来ない状況になってきた。

自然を守るということは、どういうことであるのか。
これから、真剣に考える時にきた。

山を切り崩すと、もう、山は、元に戻らないのである。
それを、十分に考えて、事を行うべきである。
政治家や、業者の利益のために、日本の自然は、大半が破壊された。
人間に便利になように自然を扱い、山に道路を作るだけで、多くの生き物を壊滅させる。そして、引いては、人間も住みにくくするという、アホなことになる。

青楊の 萌らろ川門に 汝を待つと 清水は汲まず 立処ならすも
あおやぎの はらろかわとに なをまつと せみどはくまず゛ たちどならすも

川楊が青々として芽吹いている川の門で、あなたの来るのを、待ちわびています。行き来して、土を踏み鳴らして、いるのです。

水を汲みに来た女が、水汲みを忘れて、男を待っている。行ったり来たりして、いらいらと待つのである。早く会いたいがために、土を踏み鳴らしている。
春の光に満たされて、このひとときの、万葉の時。今も、変わらず、人は、そのように生きている。何の変わりがあろうか。現代と、万葉とで、何の違いもない。

繰り返し。
人生は、これに尽きる。
毎日の繰り返しの中で、人は、生きる。
その繰り返しが、深まるのか、高まるのかは、解らない。しかし、繰り返しにほかならない。
万葉集を読むとは、人生を読むのである。
そして、我らと続く、祖先の生き様を見るのである。
そこに、人生の普遍的原理である、生き続けるものを、観るのである。

生き続けたものは、何であろうか。
それは、言葉であった。
言葉が生き続けて、現代と万葉の時代を結ぶ。

言葉、言語の発生を鑑みれば、それは、民族の発生と重なる。
日本語は日本民族のことばにほかならないのである。

人間だけが過去の文化と遺産、そして歴史の経験を生かし、その延長線上に現代という時代を拡大してゆく。
歴史という過去の時間を内面化することによって得られるものを、私は知恵と認識する。

次に、防人の歌を読むことにする。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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