2007年05月19日

キリスト8

「神の国は人が土に種をまくようなものである。かれがよるひる寝起きしているうちに、種は芽を出し成長する。しかし、かれはどうしてそうなるかを知らない。土は自ら働き、はじめに苗、つぎに穂、つぎに種の中に豊かな実を生ずる。実がみのると、かれはただちにかまを入れる。刈り入れの時がきたからである。」
聖書研究では、種は、適当な条件さえそろえば、実を結ぶ。人間の世界に建てられる神の国も、条件さえともなえば、人間の気づかぬうちに、多くの実を結ぶ。神の国は、教会をも意味する。人間に与えられる、超自然の恩恵にもあてはまる。
以上、何とも、寝ぼけた解説である。

「神の国を何になぞらえようか。また、どんなたとえで言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。からし種は土にまかれるときは、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、伸びてどんな野菜よりも大きくなり、そのかげに空の鳥が宿るほど大きな枝を張る」
「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くのたとえ話をもって、みことばを語られ、たとえ話なしには語られなかった。しかし、自分の弟子たちだけのときには、すべのことを解き明かされた。」

人々の聞く能力に応じて・・・そう、豚に真珠は与えられない。

神の国のたとえ話というが、たとえ話であろうか。
事実、自然の事実を言うのである。それが、神の国であるという。
はい、ここから神の国ですという、線引きは出来ませんという。すでに、神の国が、この世に存在するという。
この世の自然の恵みに、神の国がある。
すなわち、ここにこそ、神の国があるという。

弟子たちの時には、すべてを解き明かされたというが、一体、他の何を解き明かすのか。
もし、超自然の神の国の存在を説明するとしたなら、妄想である。
超自然を理解することは出来ない。
すべては、自然の働きの延長にある。
それを、そのまま、神と観た、大和民族、日本民族、それが、古神道である。自然を神と観たのである。自然と共生、共感する民族は、あえてたとえはいらない。
そのこと自体に、恵みがある。

イエスは、神の国、つまり天国を説明すべく、たとえで話たのであろう。
それなら、天国は、今、ここにあるということである。
ここで重大なことを言うが、キリスト教徒は、神の国、天国を、この世ではない、特別の場所とか、空間だと思い込むのである。
そこでは永遠の命を与えられる等々。

一神教の大きな誤りは、超越した絶対者である神という定義を置く。
しかし、それを誰も、認識することは出来ない。なんとなれば、超越した存在を確認するには、こちらも超越しなければならないからだ。

たとえで話たというが、たとえでも何でもない。そのままである。それが真実、神の国である。
すでに神の国に在る存在が人間である。

イエスが、「信仰薄い者たちよ」と言う。信仰とは、何か。イエスは、何を信仰と言ったのか。
親鸞も、ただ信じる心を説いた。法然の教えを信じるのである。それが嘘でも信じる。なんとなれば、この身は、地獄に行くべき身だからである。しかし、弥陀の本願によって救われるというならば、地獄行きの私でも、救われると説く法然の言葉を信じるという。

何とも、おめでたい信仰であるが、当時は、それで精一杯だった。
しかし、今に至るまで、その親鸞の苦悩というか、救われない者でも、救われるという云々という、哲学的ともいえる言葉の世界に嵌る人がいる。
親鸞の思索の過程を、共に楽しむのは、それでよい。
しかし、信仰というものを、明確にしなければならない。
どうしても、超越者を置くというところに、何故、疑問を持たないのか。
何故、超越者が必要なのか。

嘘でも、妄想でも、在ると仮定して、信じ込むことが信仰であろうか。

これは信仰ではなく、拝むという行為になる。

自分が空想した世界を拝むとは、何とも悲しいものがある。

実際、私は、死者が自分の墓を拝んでいる様を観たことがある。死んでから、自分の墓を拝むのである。実に、人間は、拝むものが欲しいのであると、その時、感じた。

さて言う。
自然の有様を神の国のたとえとして話すということは、自然にすでに神の国の栄光が現れているということである。
つまり、どこか別の空間、別の次元に神の国が在るのではない。
今、ここが神の国である。
それには、心の目覚め、それを改心という、それが必要である。

イエスは、政治的なものに、一切触れなかった。
イエスは、心の状態のみを見つめていた。

神の国を、教会のことでもあるという、解釈は、全くの誤りである。イエスは、組織についても、一切語らない。
ただ、心の在り方のみに、目を向けていた。

イエスの弟子の多くは、当時の下層階級である。漁師が多い。自然の恵み無しには、生活の出来ない人々である。
当時の宗教観、及び、信仰が、いかに、イエスが言う信仰とかけ離れていたか。
どうでもいい、規則と作法に、汲々として、それを信仰と思い込むユダヤ教徒たちに、何とか、真実の信仰、つまり、儀式、作法ではない、心の状態を伝えるべく、当時の言葉を通して教えるという、実に、大変な労力を使ったのである。

モーゼの律法という名で、煩雑な規則作法を創造していた、偽の信仰生活を、真っ当にすべく、心血を注いだのである。

しかし、今のキリスト教徒も、当時のユダヤ教徒と同じく、教会という組織の中で、汲々として、規則作法を作り、それが信仰生活だと思い込む。
同じ繰り返しをしていることに気づかない。

拝み崇める神ではない。
共に生きる神である。
裁きの神ではない。共に生きる愛の神である。
心に宿るべく在る神である。

「主よ、主よ、という者が天国に入るのではない。神の国と、その義を行う者が入る」と言う。
雁字搦めの、形式ではなく、心の在り方、心の有り様によって、心に天国を有する者になるべくの、イエスの説教である。
これが宗教というものである。
しかし、古神道では、それも語らない。宗教ではないからだ。
それを伝統として、存続されている民族の伝統を、今更ながら、見事だと思うのである。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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