2007年05月19日

もののあわれ86

稲つけば かかる吾が手を 今夜もか 殿の若子が 取りて嘆かむ
いねつけば かかるわがてを こよいもか とののわくごが とりてなげかん

稲をつくので、こんなに荒れてしまった手。今夜、お屋敷の若様が、それを見て、嘆くだろう。

下女、奴婢として働いている少女が、屋敷の息子に愛されている。叶わぬ恋であるが、少女には、命の燃える恋である。
悲恋という関係が、多くの人の心を動かし、残った歌である。

吾が面の 忘れむ時は 国はふり 峰に立つ雲を 見つつ偲はせ
わがおもの わすれんしだは くにはふり みねにたつくもを みつつしのばせ

あなたが旅先で、私の顔を忘れそうになったら、国いっぱいに広がる雲の峰を見て、私を偲んでください。

旅の無事を祈る歌である。
峰に立つ雲、というのが、いい。

仏教伝来によって、この万葉の心が、狭く解釈され、余計な観念が与えられた。
雲を心の濁り、塵だとして、仏の慈悲を月の光に見立てるのである。
この観念より、月は、仏の光と限定されて、今に至る。

小理屈、屁理屈の仏教思想が、万葉の心を無碍にしたといえる。

心に雲がかかると、仏の慈悲が見えずに、云々と、したり顔で言う僧たちの、堕落は、甚だしい。
どんなに精進しても、仏教の観念の内から、逃れられないのであるから、困ったものである。
白鼠が、クルクルと回っているようなものである。

南都の仏教は、いわば、大乗の初期の仏教であり、それは、国家的精神的支柱としたものである。
そして、天台、真言の、最澄と、空海は、それぞれ、優秀な者の仏教である。お勉強が出来た仏教である。最澄の天台が、今の日本仏教の根本精神になっている。すなわち、悉皆仏性である。皆々、仏性を宿している。全ての人が救われる、仏になれるというものである。
ここから、生ぬるい仏教が、始まり、鎌倉仏教に至っては、仏教とは、名ばかりの思想に堕落した。
勿論、文学としては、耐ええるものだが、宗教としては、三文の値打ちである。

仏教の教学とは、滅茶苦茶なものである。
妄想を積み上げて行くのであるから、いくらでも、生成発展する。しかし、所詮は妄想である。
念仏の浄土宗は、中国浄土宗の流れを汲む。勿論、禅も、そうである。中国思想である。
題目の日蓮は、法然の念仏からヒントを得ての、題目である。題目を上げて、云々というのは、自力というが、法然の他力と、違わない。根は、同じところから出る。
空海の真言は、最低である。インド、バラモンの呪詛を元に、壮大な妄想を描いたのである。曼荼羅。なんという、魔であろうか。あれを、凄い凄いという者、多数。解らないからである。

宇宙の真理を図にするというから、それは、図に乗るだけの行為であると言う。
証券会社の株取引や、資産運用のお勧めではないだろうが。
あれを、真っ当に拝んでいると、チベットのように、国を奪われる。

勿論、美術としては、認める。否定はしない。
宗教とするところに、妖しさを感じるのである。
手品のように扱うから、笑うのである。

もう一つ、言う。
一つの経典を取り出し、宗派を興すのは、勝手なことであるが、それが、仏陀の教えではないということである。
それでは、仏陀の教えはというと、ダンマパダである。
しかし、寝ぼけたような言葉の羅列である。それを、ご丁寧に、解釈するという。何とでも、解釈できるのである。
そして、言うが、仏陀は、書き物を一切残していない。
つまり、教えは、書くことが出来ないと、知っていた。
つまり、真実があれば、それを書くのではなく、行為行動するということである。
いかに、僧侶たちの、説教というものが、嘘か、解る。

膨大な書を残した宗教家は、文学者であり、小説家の程度と、考えていれば、間違いない。あれらは、小説なのである。
小説とは、人間の迷いの嘘八百を描くものである。
これくらい言うと、少しは、解るであろう。

本物の宗教的有様は、伊勢神宮の様にある。
何も無い。
教祖も、教義も、大伽藍も無い。
無い無いづくしである。
あるのは、天照大神のお住まいである、掘っ立て小屋、高床式の小屋である。神明造というが、小屋に変わりなし。
そして、ご神体といえば、鏡。
うすら、煤けた鏡である。
この世の価値は、皆無である。
自然の有様を、そのままに、最低限の手の入れようである。
あれでいい。

私が仰天したのが、龍の宮である。
注連縄を張り、その中に、石が積み上げてある。
盗もうと思えば、一つや二つ、すぐに手にすることが出来る。しかし、あんなもの、何の価値もない。
石ころである。
それを、そのままに、龍の宮というから、仰天する。

あれでいい。

妄想に染まりきって、生き死にを繰り返すならば、石ころの方が易い。

仏教を、お勉強すれば、輪廻から抜けるというより、輪廻から、抜けられなくなる。それを、知らないから、哀れである。
もののあわれ、ではない。
単なる、哀れである。

余計な知恵は、人間が、ずるくなるだけで、救いなど、ある訳が無い。

念仏を唱えて救われるなら、あいうえお、を唱えて救われた方が易いのである。
阿弥陀と縁をするより、あいうえお様と、縁をする方が実によい。
経典に帰依する、南無妙法蓮華経は、更に終わっている。
人間の魂を、何だと思っているのか。
魂を下に置き、経典を上げるという、愚昧、蒙昧である。
救われるはずがない。

とにもかくにも、日本に仏陀の教えは無い。
華麗なる詐欺集団、宗教という集団に搾取されて、喜んでいるようでは、終わっている。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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