2007年05月18日

もののあわれ85

東歌には、どこの国の歌か解らないものもある。
その中から、みる。

うらも無く わが行く道に 青柳の 萌りて立てれば もの思ひ出つも
うらもなく わがゆくみちに あおやぎの はりてたてれば ものもいづつも

うら、とは、裏表の、裏である。つまり、心を意味する。
うら悲しいとは、心悲しいということである。

萌りて立てれば、とは、柳が青々として芽を吹く様である。

もの思ひ出つも、とは、出つは、出づ、いづの方言である。

心無く、無心に歩いていると、柳の木が青々と芽を吹いている。それを見ると、何やら、物思う心が出てきた。
単に、そういう心境を歌う。

西行の歌に
おしなべて 物を思わぬ 人にさえ 心を作る 秋の初風
という歌がある。
それに似る。

実は、この心が、本居宣長がいう、もののあわれを知る心である。

四季の移り変わり、移ろいにある、そこに流れる自然の心。それを心と、捕らえていた。言い難き感覚、感動。早春には、その風がある。

この風という言葉も、自然の心と、観たのである。
風が、心であるという思想。

さらに、推し進めて、風情や、風流という言葉が生まれる。
フゼイ、フウリュウである。これは、漢語読みである。
それでは、大和言葉にしてみると、かぜのこころ、かぜのながれ、である。
これを、欧米流で説明すると、膨大な言葉が必要になる。

大和言葉であれば、一首の歌で、説明する。

秋の夜の 月冴えわたる 寂しさに もの思う我 今ここにあり 天山

風よ吹け 心の闇を 吹きつけて 遥かに照らせ 山の端の月  天山

夏の夜の 月と星との 語り合い 宵わぬうちから あれ色々と 天山

名残おく 風に思いを 乗せてゆく 今日のひと日は 永遠(とわ)の彼方へ  天山

色々と 語れば語る 酒の夜 もう飲まないの ねえ飲まないの 天山

手を重ね 口説いた先に コンドーム セーフセックスの 文字華やかに 天山

歌の道 そんな柄じゃない この俺は それがいいのよ アホでいいのよ 天山

どうぞ皆さんも、うら無くも、暇つぶしに、短歌を作って、楽しんでください。
自分のために。

短歌の作り方
誰かの歌を真似て、戯れ歌にする。
誰かの歌の替え歌を作る。
そのうちに、何となく、自分の言葉になってゆく。
そして、言葉という観念にある、私という意識に、疑いを持つ。
まてよ、俺って、本当の俺って・・・
ということになり、何かに誤魔化されているのじゃないかと、行き着く。
いつから、この言葉を、こう観念したのかという、ところにゆく。
言葉でしか、俺を、俺というものを、認識できないのかと、疑問に思う。
何だ、何なんだ。
そうして、思想というものが生まれる。
実に、人生は、死ぬまでの暇つぶしであるということが解る。

アンタがいてもいなくても、大海の一滴よ。大海の一滴が、無くなっても、どうでもいいじゃん、とは、ボヴォワールの言葉である。
実存哲学という、本当か嘘かしれない哲学の、私の好きな一人です。

日本の実存哲学の道元は、竿の先から飛べという。
もう後がないのが、人生だというのだろう。

そう、毎日、もう後がない人生を生きている。
私も、毎日、竿の先から飛んでいる。

言の葉の 遊びはよして 濡れましょう 今だけ越える ああ深草の 天山

柔肌の シルクに揺れる 桃色の その色染まる 月の夜の宴 天山

上記、卑猥な歌であろうと思うな。
人生は、それに尽きるだろうが・・・
その時だけは、真剣なはず。
それ以外で、真剣なことが出来るなら、世の中、もっと良くなっている。

人を軽蔑することは、知るが、自分を軽蔑することを知らない人の多いこと。
それらが、匿名で何やら書き込みをするから、笑う。
そういう者には、昔、糞して寝ろ、と言った。
または、糞して死ね、と言った。




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