2007年05月16日

キリスト5

「エルサレムから下ってきた律法学者たちは、「イエスはベルゼブルにとりつかれている」と言い、また「悪霊のかしらによって悪霊を追い出すのだ」とも言った。」
奇跡を起こす者に対する、当時の真っ当な考え方である。

ベルゼブルという名は、ペリシテの都市エクタロンの神の名、バアル・ゼブブからなる。イスラエル人は、憎しみから、敵の神の名をわざと曲げて、滑稽に呼ぶと聖書研究にある。
つまり、ベルゼブルとは、悪霊のかしらという意味である。
これは、イスラエル人は、他の、敵の神を悪魔とするということである。
一神教の特徴であろう。
他の神を悪魔として、戦う。
戦争が終わらない訳である。

イエスは、それに答えた。
「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。もし国が内輪もめするならば、その国は立ち行くことはできず、かえって滅びてしまうであろう。また、先に強い人を縛らなければ、だれもその強い人の家にはいって家財を奪うことはできない。縛ってのちはじめて、その家を荒らしまわることができる。あなたがたによく言っておく、人の子らの犯すすべての罪と、神に対する冒涜は、ことごとくゆるされる。しかし、聖霊に対して冒涜のことばをはく者は、永遠にゆるしが得られず、永遠に罪の責めを負う。」こう仰せられたのは、「かれは汚れた霊につかれている」とかれらが言ったからである。」

ここでも解る通り、聖霊とは、イエスと、その父とは、別格であることを言う。
三位一体ではない。
イエスが言う聖霊は、神である。
イエスが言う父とは、イエスの守護霊のことである。

ユダヤ教徒に言わせると、ユダヤの神以外は、すべて悪魔ということになる。
神道で解釈すれば、ユダヤの神も、一民族の神であり、それは、地域の神、つまり地霊のことである。
地霊は、産土神うぶすなのかみの支配の元にある。
そして、何と、ユダヤの神と言われる地霊は、アフリカから彼らが連れてきたのである。

それが、勢力を持ち、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神になった。
大変な出世である。今では、世界宗教の中の三大宗教になっている。
そして、今に至るまで、互いに敵視し、戦うあたりは、魔神としか言いようが無い。

ユダヤ教と、イスラム教は、魔神を、そして、キリスト教は、魔神を神とし、その子をイエスとしている。
先に、旧約の神は、複数いたといった。その彼らの勢力争いが、今も続いているということである。

主イエスは、ユダヤ教に侵された人々の心を改心、回心とも言う、それをさせるために、説教を繰り返した。
それは、許しと愛の神である。
それは、非常に強力な意思が必要である。当時の状況を鑑みれば、当然である。すべてを敵にしなければならない。それ程、時は、瀕死の状態だった。

日本のカトリック作家である、遠藤周作などは、全く見当違いのイエス像を描き、日本の読者を騙していたということが解る。勝手すぎる解釈である。
無力な男であった。しかし、泣く人と共に泣き等々、新興宗教の様である。また、プロテスタント作家の三浦綾子などは、旧約の魔神と、主イエスを一緒くたにして、平然として、妄信していた様は、哀れである。

日本のクリスチャンといわれる連中は、ムードの信仰と言っても過言ではない。
ローマ法王を見よ。主イエスの言葉は、実に空しい。
「人の子には、ねぐらも無い」と言う。その前に、狐にも、ねぐらがあるがと、つく。
豪華絢爛たる教会建築を見よ。そこに神がいるか。いるのであろう。魔神である。

仏陀の教えも、主イエスの教えも、結果的に虚無に帰した。
慈悲も、愛も行われることなく、戦争から、今では、いたるところでの、テロ行為である。
仏教は壊滅し、主イエスの教えも、無になり、残るは、怨念と、憎悪である。

西洋が多くの国を植民地化する際に、必ずキリスト教の布教師が着いた。その土地に、キリスト教の信仰を植えつけるためである。
日本も、ある時期、そうであった。
信長は、命懸けで布教する宣教師たちを、手厚く持て成した。比叡山に代表される僧侶たちの堕落に、心底怒りを感じていたからだ。伝統に甘んじている様、許せなかった。比叡山焼き討ちは、当然のことであった。
だが、その宣教師たちも、布教と共に、日本をローマの属国にするべく働く。当然である。ローマが正しいのである。
秀吉が気づいて、弾圧しなければ、とんでもないことになっていたはずである。

実に、今に至るまで、西洋の植民地化の影響が残っている。
アフリカ、アジア等々、皆々、植民地であった。それが、独立するのが、太平洋戦争、第二次世界大戦後である。
日本が、その突破口を開いたのである。
日本は、我が身を犠牲にして、大東亜圏を拓いたといえる。
日本の戦争責任という時、それを、どの程度考えてのことかと、私は思う。
細部をほじれば、色々な問題出てくる。戦争は非常時である。

その根本が、実に傲慢な神の思想である。
一神教の罪深さである。
アフリカの地霊を神として崇めて、それを唯一の神とする程度の信仰である。
誤りも甚だしい。

神武天皇が、大和を平定した時に、その地の、すべての地霊、奉る神々を集めて、奉り事をした。それが、政の初めである。
まつりごと、とは、それを言う。
政治を政から切り離して、近代が開かれたという言い方も出来るが、何が正解なのかは、まだ、これからの話である。

日本のまつりごとは、西洋には無い。
兎に角、敵の神は、悪霊であるから、叩き殺すのである。叩き殺すことから、彼らの政治が始まる。
これは、キリストの絶唱であるから、以下省略する。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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