2007年05月16日

もののあわれ83

東歌には、埴輪の表情があると、万葉を支持する識者は言う。
確かに、そのような原始的な底抜けに明るい表情がある。

そして、初々しい、歌に対する姿勢である。
習い初めの言葉が、楽しいのである。
それは、実にまた、縄文の様である。

すべてが新しい。
そして好奇心に満ちている。

単純素朴であるが、言葉については、品格を保つ。
もっとも、もっとエロスが旺盛であったと思われる。
ところが、言葉の新鮮さにより、堕落していないのである。
堕落とは、言葉に対する感動が無いということである。

言葉を覚え始めた子供は、同じことを何度も繰り返す。覚えた感動である。
東歌にも、それがある。

最初は、話している様が歌になる。ということは、五音と、七音という調子は、もっとも日本人の息遣いだったのであるというだ。
五七調、七五調として、後に、分析されるが、そんなことを意識していない。
言葉の息遣いが、精神の息遣いになった。

それが、なんと、昭和初期までに続いていたのである。
日本人は、潜在的に、この五と七の音に立ち戻りつつ、進む。
底辺に、それがある文学作品を日本人は、美しいと感じるのである。

川端康成がノーベル文学賞を与えられた時、ああ、日本語の、そして日本の美しさを世界の人に読んでもらえると、喜んだ記憶がある。
川端文学の底辺にある語感は、まさにそれだった。

そして、今に至るまで、短歌や俳句が盛んに作られている。
これほどに、続く文芸行為は、世界に類をみない。
誰もが、万葉に続く者なのである。

万葉からはじまり、長い旅をして、再び万葉に辿りつく。つまり、万葉は古里だった。

言葉は、民族の命である。
他の民族は、宗教とは、切り離せないが、唯一、日本は、宗教ではなく、歌なのである。
そして、それを最大に推し進めたのが、天皇である。
私が天皇を、お歌の宗家というのは、そういうことである。

西洋では、詩歌と、歌う声楽と分けるが、日本は、詩歌は、そのまま歌である。
和歌は、そのまま朗詠になる。
野蛮な民族に、その地を奪われたケルト民族も、そのようであった。文字が無かったというが、言葉は、あった。
日本の言葉の有り様と、非常に似ている。
同祖というならば、ケルト民族であろう。

ケルトの自然共生、共感の思想と、循環の思想は、共に日本の古神道である。
そして、最も驚くべくきことは、自然淘汰を善しとし、それを神と見立てることである。その働きを神と観るのである。
原始宗教感情は、すべて自然の働き対するものである。
畏敬すべきもの、それは、自然であった。
実は、今も、そうなのであるが、欧米の思想は、自然支配に立つ。
自然を神から与えられた。それゆえ、如何様にも扱えるという傲慢である。

謙虚な学問がある。
文化人類学である。
歴史、考古学、文化的行為、民俗学等々を総称する。
人類の成長発展を、文化という一つに当てて、俯瞰する学問である。
中学から、これを取り入れて、一つの授業とするべきである。
まだ、未分化であるが、これが、世界に貢献する学問になることは、必至である。

小学生のうたから、株式を教えて、経済的人間を育てるというアホなことをするが、最も大切な、道徳教育が、誤解、彎曲されて理解されているのであるから、文化人類学に、期待する。

道徳教育を、一つの価値を押し付けるものだという、あまりにも、偏狭な考え方に、絶句している。
人間理解の学問が、一つもないのである。
学問を為して、人間ではなくなることを善しとする。
呆れて、物が言えない。

子供たちに偉人伝を読ませると、偏るという、その根性が理解できない。
道徳教育とは、別名、伝統教育だった。
それは、礼儀作法である。
生き方のマナーである。

戦中以外の伝統教育は、素晴らしいものだった。
そして、世界で唯一といってもいいが、伝統教育をしないのは、日本だけである。理想的な伝統教育が出来るのにである。
欧米、アラブ等々の、伝統教育は、一神教の教育である。それは、徹底している。

日本の伝統教育は、平和教育になるのである。
自由と、平等と、博愛というスローガンを掲げる教育も、結果は、一部の人のものである。全くの嘘八百である。
表は、自由と平等、博愛というが、裏では、差別のオンパレードである。
それに、言うが、自由、平等、博愛を教えた仏陀の思想は、壊滅しているではないか。
仏陀の仏教が壊滅している。それは、それらの思想が、遂行されないものだという証拠である。

世界に、自由と平等と、博愛などない。
すべて、損得勘定の、他者排斥の思想である。
それを倫理が無いという。
欧米の倫理は、キリスト教が主であり、アラブは、イスラム、中国は、共産主義である。
そして、ロシアは、侵略思想である。帝国時代から、共産時代に至るまで、である。
どこに、倫理がある。

倫理の哲学の得意な、西洋に、倫理はあるか。
教会を倫理の主にしているだけであり、教会は、倫理のみか、道徳も無い。あるのは、妄想の神の観念による、支配である。
教義は、倫理にあらず。
それでは、哲学者たちが語る倫理は、どこへいった。学校の中で語られるだけである。

現在の欧米の倫理観とは、プロテスタントのカルビンから出たものである。
日本は、儒教の影響が強い。
アラブは、勿論、イスラム法である。
そして、中国は、人民支配の共産主義という、幹部による支配主義である。
そして、ロシアは、どう見回しても、侵略主義のみである。

日本の倫理は、本来、自然共生、共感であるから、それをもっての教育は、世界の平和に寄与するものであるが、アホが、何人いても、アホであるから、教育界には、期待ではない。
社会主義なのか、お馬鹿主義なのか、日教組という組合が仕切る教育は、絶望的である。自由と、平等と、博愛をやっているつもりなのであろう。
この世にありもしないものを掲げているという、哀れである。
実に、宗教と同じであろう。
あの、宗教である。
華麗なる詐欺集団の宗教と同じである。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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