2007年05月07日

キリスト4

マルコ福音書の冒頭は、キリストの奇跡、病気治しと、悪魔祓いが多い。
福音を伝える手前の段階である。
奇跡を見せなければ、人は、その説教を聞くことがなかった。

一時、手当てにより、病を癒した者が映画にもなった。
たまたま得た能力である。しかし、その能力の意味を知らず、病気治しをした。突然与えられる、そのような力は、実に、危ない。
低レベルの霊が作用するからである。動物の霊でも、そのような奇跡を起こす。
動物の霊も、霊界では進化する。その過程で、自分の力を過信し、人に憑いて、奇跡を起こす。

キリストの悲しみは、その時点で、すべて始まっていた。
本来は、その病により、あることを知るためのものである。病に、人生の秘密が隠されてある。それを知ることなく、奇跡によって治るということ、その意味を知ることなく、知るチャンスを失ったということである。
しかし、それを行わなければならなかったキリストの悲しみを思う。

奇跡を起こすことは、霊界のあるレベルと接触すれば、簡単なことである。しかし、その後、その霊界の支配を受ける。それが、魔界の場合多々ある。

私も多く、病を癒す気功家を知っている。
霊能力で癒す人も知る。しかし、その多くは、レベルの低い者だった。つまりレベルの低い霊界との接触、または、動物の霊であった。
その証拠は、その人間性である。それを見れば、一目瞭然である。
気功家では、自分を失ってしまった人もいた。痴呆のようになってしまった人もいる。
一時期の隆盛は、瞬く間に消えた。

日本で、病を癒すようになったのは、大陸の呪術が入ってからである。
加持祈祷などは、その典型である。
すべて、魔界のものである。特にインド系は、そうである。霊験あらたかとは、別名、魔物の仕業である。
多く渡来した神によって、大和の人は、奇跡を見た。
しかし、本来の神道では、奇跡を成さない。
奇跡は、神よりのものではない。

キリストは、当時の価値観の転換を図った。
それは大変なことだった。すべての既成の戒律、律法を否定することになった。
何故、断食をしないのかと問われて、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」と答える。
これは、既成の価値観を破るものだった。
しかし、その言葉の意味を、彼らはすぐに悟ることがなかった。
キリストは、今までの方法を前面否定したのである。

「安息日は人のためにもうけられたものであって、人が安息日のためにあるのではない。それゆえ、人の子は安息日に対しても主である。」
当時、安息日には、何事を行ってはならないとの掟である。
しかし、キリストは、それを無視した。

今、キリスト教徒は、キリストを神であると信じるから、抵抗が無いが、当時は、それは大変な挑戦だった。

ファリサイ派の人々は、主イエスを訴えようと、人を癒すのを見ていた。
すると、案の定、キリストは、その片手のなえた人を癒した。
「安息日に善を行うことと、また、命を救うこととと、殺すことと、どちらが律法にかなっているか」とお尋ねになったとある。

規則に縛れた者たちに、キリストは、あることを示した。
しかし、それを理解する器が無い。
今のキリスト教徒も、教会の規則により、キリストの真実を忘れた。
キリストは、キリスト教徒によって、殺されること、必至である。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。