2007年05月07日

もののあわれ74

笠女郎の歌を、もう一首。
大伴家持に贈った歌である。

思ふにし 死にするものに あらませば 千度ぞ吾は 死にかへらまし
おもうにし しにするものに あらませば ちたびぞわれは しにかえらまし

このような、大胆、素朴、技巧など、吹き飛ぶほどの情熱が、万葉の世界である。

焦がれ死ぬということがあるならば、私は、千度生き返っても、あなたを恋慕う。
家持より、年上の笠女郎である。
激しいばかりの恋心を歌う。
年増女の押し付けが、はっきりと解るのも、面白い。
平静を装っていても、歌を作ると、この激しさである。
実に、万葉集は、大胆不敵でいい。

古今、新古今には無い、野性的な感情である。
新古今は、雅、洗練という意味では、非常に評価されるが、この野性的、生命力は、万葉集に適わない。
一つ言うが、古今も新古今も、万葉集が土台であり、それが無ければ、成り立たなかったということである。

解った風なことを言う、者に言う。
万葉集を基にしてこその、古今であり、新古今である。
親が無くて、子が生まれることはない。
万葉集は、古今、新古今の親である。
万葉晩期は、古今に近くなる。そして、新古今へと続く。
しかし、芸としては高まるが、生命力は、落ちる。

万葉には、芸術活動、文学活動という意識は無い。
ほとばしる、言霊の世界である。
勿論それは、音霊、おとたま、の根拠がある。
音霊とは、数である。
五七五七七という、五七調、七五調には、音霊の訳がある。
これ以上は、古神道になる。

大祓祝詞には、タカアマハラに 神づまります カムロギ、カムロミ のミトコもちて 八百万の神たちを 神集いに集いたまい

大和言葉の、言霊の、そして音霊の、言葉が続く。
そしてそれらの言葉は、善言美辞に溢れるのである。
不吉な言葉や、不幸を連想する言葉は使用しない。

井沢元彦氏に、登場してもらう。

「コトダマは日本人を動かす中心思想の一つである。そして、さらに重要なのは、そのことを万葉時代の日本人は自覚していたのに、現代の日本人はまったく自覚していないことだ。
だから、知らず知らずのうちに振り回される。」
さらに続けて
「二つほど例を挙げよう。
一番わかりやすいのが、前にも述べたが憲法第九条の問題である。
私は、これでも法学部の出身だ。
法律を学んだ者の目から見れば、今の憲法は国民の平和で安全な生活を守るための基本的条件を満たしていない。なぜなら、外国から侵略された場合の対処について、何の規定もないからだ。
この欠陥を埋めるのが、安保と自衛隊だが、自衛隊は憲法第九条を字義通りに解釈すれば、あくまで違憲(偉法)の存在である。
だから、私は憲法九条を改正すべきだと思っている。
国民の安全を守るために、国が軍隊を持つのは当然の義務であるし、持つ以上はそれを憲法に規定しないと危険だ。というのは軍隊とは強力な力を持つ組織だから、法律できちんと縛っておかなければ危ないからだ。簡単に言えばシビリアンコントロール(人民統制)ということである。
戦前の日本、いや大日本帝国はこのシビリアンコントロールが確立できなかったために軍隊が暴走し国を滅ぼした。」

「それなのに、なぜ日本社会党は「非武装中立」などという、現実には実行不可能なことを主張したのか、いや、できたのか。
それもコトダマである。
コトダマの世界では、「外国が攻めて来る」などという「不吉」な想定は一切排除し、「平和、平和」と叫んでいればいい。それで平和は保たれる。もし、「外国の侵略があったら、どうするのか」という意見を言うヤツがいたら、「平和の敵」としてその口を封じればいい。コトダマの世界では「外国の侵略」などというコトアゲするヤツは、「侵略されることを望んでいるヤツ」である。だから、意見を言わさなければいいのだ。そして、一方で憲法を読む。憲法は「祝詞」だから、読めば読むほどにその霊力(すなわちコトダマ)で世界は平和になる。」

「さらに一つコトダマが生きている例を挙げれば「言葉狩り」がある。」
「それゆえ差別を表す語(差別語)を「狩って」消してしまえば、差別という実体も同時に消滅することになる。だからこそ、あんなに熱心に「言葉狩り」をする人々がいるのである。」

「このように、日本人は現代でもコトダマの多大なる影響を受けている。」

言霊を認識していた、万葉人は、現代の人より、賢いと言える。
現代人、特にインテリと言われる人々は、認識せずに、言霊の迷信に陥っているということである。

しかし、井沢氏は、だから、万葉集の意義があるとしている。
言霊ゆえに、編まれた詞華集である万葉集を認めている。

「歴史の宗教的・呪術的側面を無視して、歴史を解明しようとしても、それは無理というものである。」

私も、その通りだと言う。

言霊を知らない者が、いくら解釈しても、解る訳がない。
推測、憶測で、解釈するだけである。

もう一つ言う。
言霊然り、大和言葉然り、それを理解せずに、日本の歴史、日本の心を理解できるわけがない。

そして、それを伝える、教えられる者がいない。教育の世界に、いないのである。これは、驚嘆に値する。
ユダヤ、キリスト教、イスラム教では、幼児から、その経典を教え、思考の土台を作るのである。
もし、小学生の時から、日本の言霊について、大和言葉についてを教えられていれば、インテリと言われる人たちも、幼児以下の日本語の教養を解消できるはずである。

前にも言ったが、井沢氏は、私と違った視点で、歴史と、その根本的原理を見ている。
それが、コトダマであり、私の言霊、大和言葉なのである。

正確に相手の名前を解れば、逢わずとも、祈りや、呪いを掛けることが出来る。日本には、そういう伝統がある。
それを、インテリ、知識人たちは、一笑に付すが、それは、とんだ誤りである。
今、現在も、それが出来るのである。
私は、それの実践者であるから、解る。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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