2007年05月06日

キリスト2

洗礼者ヨハネから、水の洗礼を受けた後、主イエスは、霊に導かれて、荒れ野に行く。
40日間、サタンの試みを受けるとある。
サタンとは、悪魔の親分である。

サタンから、誘惑されるというものである。
わざわざサタンの試みを受けるとは、どういうことか。

サタンとは、元、大天使ルチフェルのことである。
天使がサタンになるということからして、お話じみている。
アメリカ映画の、SFXのようだ。

仏陀は、悟った後、そのまま死ぬべく準備をすると、ブラフマー梵天が現れて、教えを述べよと促す。
この梵天というのが、魔神であるからして、頭を捻る。

お話の前段階であろうか。序章である。

エクソシストという映画があった。
悪魔に取り憑かれるというものである。それを、エクソシスト、悪魔祓いの司祭が対決する。
神道では、悪魔の存在は無い。皆、荒ぶる神と言う。
悪魔とは、何か。
単なる、馬鹿な霊である。ごろつき、頭の悪い霊である。
そして、奇跡を行う。要するに、奇跡を行う霊である。
それでは、主イエスも奇跡を行った。後で、その奇跡については書く。

サタンの試みは、この世の欲望の誘惑である。
それを主イエスは、すべて跳ね除けた。
しかし、考えてみるに、この世の欲望を捨てたら、生きられるだろうか。生きられない。とすると、すべての人間は、悪魔の側に立つのである。
悪魔の勝ちである。

この世の欲望を、どう捉えるかが、問題である。
欲望否定が、キリスト教の主たる教義になる。おかしい。
欲望を罪として、罪を犯す。それは、罪であるという意識の快感を持って罪を犯すのである。要するに、教義は、実は、悪魔から出でいるのではないかと思わせる。
何故、生きることの欲望を罪とするのか。
ここに、最大の問題がある。

端的に言う。
欲望は、恵みである。人間に与えられた恵みである。
それを、何故、罪に結びつけるのかといえば、それは、人間支配のためである。つまり、教団とは、支配する団体の何物でもない。

人間の世界に、暴力団や、やくざ、マフィア等々がいる。
霊界にも、それらがいる。悪魔とは、そういう集団である。

それに関わって試みを受けるということを、真実考えたキリスト教徒は、いるか。
悪魔の試みを受けるだろうか。
主イエスは、それらと質も次元も違うはずである。
伝道に先立っての自己対話であろうが、悪魔の試みを受けたと書かなければならない事情がある。
悪霊や、悪魔、魔王等々を持ち出さなければ、よく理解できないのである。
神と悪魔との対立。実に解りやすい。
対立の思想は、欧米の考え方の中心である。
中世の異端審判も、正統とされた一派が他を、悪魔の存在として、裁いた。魔女狩りも、そうである。土着の信仰形態をも、悪魔の仕業と考えた。

仏陀も、静かに瞑想している時に、多くの悪魔の試みを受けたとある。
それは、自分の中にある欲望の種である。
美しい女たちが、仏陀を性の快楽に誘う。仏陀は、それを撥ね付ける。すると、彼女たちの本性が現れる。醜い、悪魔の姿である。
どうしても、快楽を罪としたいのであろうか。
快楽の陥ることを、罪とする考え方の、どこかおかしい。

古神道は、欲望を恵みと捉える。
それでは、古神道は、悪魔のものであるかといえば、全く別物、質も次元も違う。

聖書は、この世を悪魔の支配する場所として捉える。
しかし、それは一面的である。
この世は、悪も善も共に在る。味噌も糞も一緒の世界である。

実は、欧米では、神と対立する悪魔に関しての、想念が強く、その想念が生み出した悪魔というものが多い。
キリスト布教の当時は、魔王の働きが強かったことは、事実である。
しかし人間の欲望を手玉にとって、人間を支配するというより、それは、偽善という形で、魔王は、人間を支配した。あたかも、神の側にいるように見せかけて、敬虔に見せかけて、人を指導するという。
簡単に言う。人から尊敬を受ける者の、多くが魔王に支配されていたのである。
キリストは、それとの対決をした。

人間の欲望を手玉に取るのは、悪魔より、教団である。そして、教義を作り信徒を支配する。
信仰は,極めて個人的情緒にある。
内村鑑三は、実に、それを見抜いて、無教会派を名乗り、キリスト教徒となった。
日本の伝統を持って、キリスト教を理解したのである。

悪魔は、その正体を暴かれることを嫌う。
明らかに、悪魔の試みを受けたと書く意図は、何か。
おいおい、それを書くことにする。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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