2007年03月19日

念仏、題目からの開放

念仏、題目からの開放を言う。

あれは、時代に合わせたものであり、皆々、ウソである。
念仏によって、弥陀の本願に入ることは無い。
題目によって、救われることは無い。

祈りが叶うということ自体あり得ない。
祈りは、自己暗示以外の何物でもない。

そろそろ目を覚ますべく、私が言う。
日本の大半の人を敵に回すことと知りつつ言う。

念仏、題目は、仏教にあらず。単に、仏教の一部である。それをもって、仏法ということ自体、詐欺である。
私の祖母も念仏宗だった。私の家系も念仏宗になる。
しかし、間違いであること明々白日である。

これは実に、重大なことであるから言っておく。
神や仏が、人の祈りを聴くことは無い。次元が違うのである。通ずる訳が無い。神や仏とは、異次元の世界の存在である。
要するに、テレビがあっても、電波が届かない存在なのである。
テレビにスイッチを入れても、画面が出ない。しかし、電気が点いたので、テレビがついていると信じているようなものである。

要するに、人の祈りとは、自己の念力であり、神や仏なる、異次元のものとの接触はないということである。
一番いい例が、クリスチャンの、この苦難は越えられる。神は越えられない苦難を与えるわけが無いという言葉にあるように、思い込みである。
因果応報、自業自得が天地の理である。神や仏がこの三次元の人の世に、関わることは無い。
関わる神や仏がいれば、それは、次元の低い、霊である。または、低俗、低級の霊の仕業である。

題目により、宿命を転換する等々の言葉は、人を迷わせる大罪である。
人は、助くる者を助く存在である。

神は、奇跡を行わないのが真実であり、神によって、願いが叶うことはあり得ないのである。

古神道を見よ。
在るがまま。在るだけである。
その祈り、感謝の言葉のみである。
すべてを与えられてある故に、神に求めることがない。そして、入信の手続きも無し。
神殿は天地であり、ご神体は太陽である。

祈りの効果を神や仏であるという迷いを出す。
単なる自己暗示を神や仏に転化するなとどは、とんでもないことである。

ただでさえ、生きていることさえ、いや生まれたことさえ、奇跡である。これ以上に奇跡を求める根性が病んでいる。

私の、もののあわれについて、を読み、古代人のあり方を見よ。
外来の言葉の世界に誤魔化される時は、終わったのである。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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