2007年03月15日

もののあわれ27

万葉集を語っているが、忘れていたことがある。
何故、万葉集と名づけたかということである。
まんようの集いである。まんようの言の葉の集まりである。
この万葉とは、万代を言う。万代とは、永遠を意味する。
これ万葉集の中から、見る。

和銅四年歳次辛亥、川邊宮人、姫島の松原に譲子(おとめ)の屍を見て悲しび嘆きて作る歌二首 のうちの一首を上げる。
妹が名は 千代に流れむ 姫島の 小松が末(うれ)に 苔むすまでに
お前の名前は、千代に流れている、だから、永遠と名づけよう。
この、苔むすまでにの表記の、までを、万代と表記している。まで、が、万代なのである。
万代は、万葉に至る。つまり、万代の言の葉を、万葉と言う。故に、万葉集とは、永遠に残される歌集という意味である。
万代、まで、とは、いついつまでも、である。までは、永遠に続く、まで、である。

千代、万代とは、万葉と同じく永遠性を言う。

もう一首の歌を読む。
難波潟 潮干なありそ ね沈みにし 妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも
すがたを、光儀と表記する。以前、挽歌の時に言ったが、人の死を万葉の人は、現代の人とは違う、見方をしていた。
魂の抜けた肉体である。気の抜けたものが死体なのである。魂は、別の世界に飛躍したのである。
難波の潟に流れている娘の死体を見るのは、苦しいものだ。
しかし、当時死体は、どこでも見られた。一般人の死体は、その辺に置かれてあったのだ。
インドのガンジス川では、今でも、死体が流れている。それと同じである。

万葉集を語るのに、実は、古事記の世界にも、関わることで、その意味が深まる。
ここに至って、私は、とてつもない世界、もののあわれを語ることになる。
それそこ、終わりの無い、もののあわれ論になるかもしれない。
藤岡宣男の歌にある、もののあわれに行き着くまでに、私の命が亡くなることもありえると感じるようになった。
いずれは、万葉歌人の柿本人麻呂について、そして、その歌の本質を見て、そこから続く、歌の道は、西行までに至り、俳諧の松尾芭蕉にまで至ることになる。さらに、山頭火の歌の世界までも網羅して、もののあわれを語ることになるという予感がする。
それならば、日本の精神史ということにもなる。
とんでもない世界に入り込んだものである。
何も仏教思想の、膨大な数の世界に驚くことはない。

億万、劫という無限の数の世界を言うことなく、無限を千代、万代で表して十分である。人の寿命が100年たらずを思えば、千代、万代と言えば、永遠を表すのである。
この万葉集とは、題名から、永遠を思い、願いを込めて編纂された歌の数々である。これを日本民族が有しているということに、誇りを持つ者である。
世界の古典で、名もない者も参加している書き物は、唯一、万葉集である。
それも、三十一音という、最小の音の組み合わせである。
信じられないことである。それが、今目の前にあるという奇跡である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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