2007年03月14日

もののあわれ17

斉明天皇御製
今城(いまき)なる 小山(をむれ)が上に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ
孫である、建王(たけるのおほきみ)が八歳でなくなられた説きに歌われた挽歌である。
挽歌とは、何か。
人の死を歌ったものである。
万葉初期の挽歌を読めば、当時の死に対する考え方が探れる。
それは、それ以前の人の死に対する考え方であるといえる。
今城の小高い丘陵に、たなびく雲、はっきりと立ち上って欲しい。その雲を愛しい孫の形見と思い、心を慰めて、悲しみを忘れようぞ。

死は、身を隠したものである。これに尽きる。
消滅したという観念はない。現世から、身を隠したのである。現身(うつしみ)から、隠身(かくりみ)であった。
死が、無常感と感じるようになるのは、仏教の浸透以降である。つまり、平安時代以降である。
万葉期では、「天雲の五百重(いほへ)が下に隠り給いぬ」「雲隠ります」「隠(こも)りにけらし」「磐隠ります」「隠らばともに」などと言う。
隠れるのである。死は、隠れた状態であり、消滅したものではない。これが、万葉の死生観である。

霊学から言う。
死生観と言えば、一つの物の見方ということになるが、隠れるという表現は、全く真実である。
その身を隠したのであり、無くなってはいない。亡くなっても、無くなってはいないのである。
万葉初期は、それ以前の日本人の死を見詰た目である。その目は、確かである。
それを自然から学んだ。自然の有り様から学んだ。花の芽が出て、花を咲かせて、そして萎んで散る。また、次の年には、芽が出て、花を咲かせる。その自然の理の中に、人の死を観たのである。
人は死んで、その身を自然の中に隠すのである。つまり、自然と同化するのである。
自然と同化することをもって、人は死後に逝くべき世界のあることを知っていた。
霊学では、次元移動という。次元については、省略する。この世の言葉で、あの世のことは、語りない。語れば、無理がでて嘘になる。
見て来たようなウソを言わなければならない。

まだ、言さえぐ、思想に犯されていない時期の、日本人は、そのものを、そのままに観ていたのである。死体は、土に成ってゆくということである。肉体は、土に、そしてその思いは、立ち上り行くと。思いとは、人の思いであり、死者の思いである。思いを霊と呼んでもいい。思いは、消滅しない。
土に戻ることを隠れたと言い、思いを立ち上ると観たゆえに、雲に託した。霧に託した。それらは、突然現れ、そして消える。しかし、またいつしか現れ、消える。
人の思いも、そのようであると観た。信じたのではない。観たのである。
純粋素朴に、虚心胆管に観れば、そのように観えるのである。
あるがままに、とも言う。
この、あるがまま、を忘れたのが、時代の進化であろうか。

人は死んでも、死なない存在であることを、知っていたのである。
千の風という英詩を、意訳した歌詞が歌われて、感動を誘うというが、何故、万葉集の挽歌を知らないのかと言う。
私は、お墓にはいない。とは、万葉人が観たことである。ただし、ここが驚きである。
稜を造り、喪に伏したのである。人の死を、伏したということである。死んで消滅したならば、何もせずともよいが、喪に伏すということは、どういうことなのか。
ここに、人生の秘密がある。
生死を断絶させない。
簡単に言う。古代人は、生死を行き来したのである。
仏教伝来以前から、死者を奉る所作があった。そして、死者を呼び、共に食し、共に過ごした。それが、神呼びとなった。
神道での、魂鎮め、魂振りなど、それは死者に対する所作から始まったのである。
神霊を云々という話は、後の後である。
まず、死者との対話から始まったものである。それが、後に、己を修行させるものへと変化する。そんなことをしなくても、古代人は、清らかであり、今の言葉で言えば、神に近い思いを持っていた。
例えば、現代人の知能が少々発達したところで、彼らと差があるかといえば、彼らの方が、別なところでは、現代人の比ではない。
そんな瑣末なことは、どうでもいい。
それよりも、彼らが観ていたものの、観たものである。

死を絶望としては理解しなかった。虚無も無い。
死は、姿を変えたものだった。だから、お隠れになるのである。お隠れになっただけで、思いは溢れるほどにある。
清く、直き、明き心である。その目で観るのである。
柿本人麻呂の歌。
隠口(こもりく)の 泊瀬の山の 山の際(ま)に いさよふ雲は 妹にかもあらむ
あの娘が雲と化してたゆたふている。
化身するのである。死者は、自然の何かに化身して、その存在を示すのである。これ、信じることではなく、そうなのである古代の人は。

神代からという言い方を多く、古の歌人はする。
神代とは、古い昔の時代のことである。それは、今に続けているのである。
神代が、この世と隔絶された世界ではない。人は死んで、この世の続きの神代に隠れたのである。神代は、祖先のいる場所である。
この世と、対立した世界ではない。今は、神代である。今も、神代である。そのようにして、死を捕らえていた。そして、それは正しい。



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