2007年03月01日

万葉集の表記は、漢字でなされた

万葉集の表記は、漢字でなされた。文字は、言葉があって始めて成り立つ。その逆は、あり得ない。
音を漢字の文字に当てはめて書き残したのである。
そこで、一つ言うが、あくまでも、漢字は、借り物だったということである。
後に、歴史家といわれる者たちが、漢字の解釈によって、歴史を解釈したことは、実に愚かなことであり、実際は、何も知らなかったと言える。
漢字の解釈の前に、大和言葉の解釈を持ってしなければ、事の真相は、解らないのである。
例えば、いつも言うが、大和心をだいわしんと読めば、漢語になり、意味が解らない。大和魂についても、やまとだましいと読めば、漢語である。大和言葉で、おおいなる、やわらぎの、こころ。おおいなる、やわらぎのたまと読めば、意味がよく解るのである。

また、人の死に関しても、死と言う言葉は、漢語であり、死の意味も、それによって、確定された意味になった。
極端な言い方をすれば、死という意識はなかったと言う。
漢語の死という文字の意味を、大和人は、持たなかったと言う。
死は、隠れるという意識だった。それが、言さえぐ、仏教思想により、死という断絶した意識を持つようになったと言う。
私にしてみれば、余計なお世話だったのだ。
それにより、死に対する感覚が、実に悲しい切ない、そして余計な思想である無常などというものに、支配されるようになる。
この無常観は、いずれ、無常感覚になり、無常哀れ感になり、最後に無常美感を作ることになるのである。情緒の遊びといってしまうことが出来る。ただし、それにより、文芸などに高めたことは、日本人らしい。

仮名を大和言葉として、漢字を真名と呼んだところなど、時の為政者、厩戸皇子に象徴される者は、何を考えていたのか、不思議である。聖徳太子と言われる者のことである。
律令政治を起こしたかったことは、理解できるが、何故、漢字を取り入れて日本の文字としようとしたのか、不明である。
しかし、万葉集からは、万葉仮名が生まれ、片仮名が生まれ、そして平仮名が生まれる。というより、元からあったものが復活するのである。

私は、母音に大和言葉の骨頂があるという。だが、母音があるということは、父音があるということであり、そこから、子音が生まれるということである。
学者は、母音のみに捕らわれて、父音のあることを知らず、そこから子音が生まれたことを知らない。
読者は、初めて、父音という言葉を聞くであろう。
このことについては、いずれ書く。

実は、心という言葉も漢語である。
漢語の心は、心臓のことである。ちなみに、西洋ならば、頭脳のことを言うのであろう。
それでは、大和言葉としては、心は、何か。
私は、霊学から、心の在り処は、胸の辺りにあると言う。体から離れて在るものである。頭脳の意識とは別にする意識である。
大和言葉の心とは、何か。

手の平のことである。手の平を、たなこごろと言う。心は、手の平に在るのである。
日本の伝統文化は、手の置き所を実に大切にする。それは、心が現れるところだからだ。
舞踊、茶の湯、等々、所作は、手のあり処によって成る。
掌とは、たなこごろ、と読む。大和言葉である。
心には、たな、が、つくのである。
たアなアである。矢張り、ア音がさきにくる。
たな掌、つまり、たなごころ、つまり、手の有り様が、心の在り処である。
軍隊の気お付けは、思考停止の状態を言う。それは、手の置き所によって成る。
心は、気の置き所なのである。
最初、人は、手に心の、気の、置き所を作る。
手は、人の気を現すのである。

大和言葉を考えるというのは、そういうことである。
漢字の解釈によって成る解釈は、全く検討違いのことがあるということを知るべきである。
これについては、追々と書いてゆくことにする。
漢字は、あくまでも外来語である。
勿論、現代は、中国よりも、漢字の文化を取り入れ、咀嚼して、中国よりも漢字を有効に使用していることは、疑いない真実である。中国は、自国の漢字の文化までも放棄している。哀れである。

心というものは、息遣いであると、以前書いた。
加えて、心の様は、手のありように有ると言う。
心の教育は、そういうことである。
漠然と心を言う人々に私は言う。知らないことを、知っているように言うなと。
心も精神も、魂も、一緒くたにして考える人は、何も知らないといえる。
一音に意味がある大和言葉を知ること、急務である。

心を芸に高めた世阿弥がいる。
花伝書に
「花は心、種は技なるべし」と言う。
心を花として舞台に乗せる。その種は、技であると言う。
心という花を咲かせるためには、業が必要であるという。これ、心の教育を言う。
つまり、能という所作は、種である技を身に付けなければ、成らないということである。
簡単に言う。
心を込めた料理でも、不味いものは、不味い。心を込めるのであれば、旨い料理を作る訓練をしなければならないということである。
心を込めるということは、念力のようなものではない。しっかりとした訓練があって成り立つ。つまり、そういう訓練を教育という。そしてそれは、別名、強制である。
強制という言葉に抵抗を感じるのは、押し付けられるという感覚を持つのであろうが、違う。自ら、それを求めて、つまり、強制される場を求める、それが、習うということである。
学問を、大和言葉で言えば、ものならう、という。ガクモンと漢語で読んで解釈するから、解らない。ものならう、といえば、よく解るのである。
習うということは、従うということである。
型を教わり、自分の形を作ってゆく、それが学問である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。