2007年02月28日

君が代伴奏命令合憲という判決

君が代伴奏命令合憲という判決がなされた。
当然である。
私は、法的云々ではなく、感情論として言う。
教師側の主張は「君が代は、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついており、公然と伴奏は出来ない。君が代の役割を教えずに、児童に歌わせることも出来ない」と言う。

国旗、国歌を巡る同種の訴訟は、現在全国で、13件あり、約950名の教職員がいる。
東京地裁は、昨年の四月、都立学校の教員401名が起こした訴訟で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するよう義務づけた都教委の通達は違法」とする判決をした。

彼らが、全くの間違いを起こしていることを知らない。
児童は、過去の体験を持たない。国歌は、国歌として認識するのみ。そこに、大人が、自分の思想、信条を持ち込むことがおかしい。児童の混乱が目に見えるのである。
それこそ、児童に対する、思想、自由、良心の侵害だとは、考えない。実に、身勝手な行為である。それに気づいていない。

君が代が、過去の日本のアジア侵略と密接に結びついているというのは、個人の考え方であり、それを誰も否定しない。それで、よろしい。
しかし、それを持って公の場で、礼儀作法を無視してもいいとは、許されない。

ある人が、君が代は、現在の日本の繁栄と密接に結びついているから、素晴らしいと考えてもいい。言論の自由であるから、何を言ってもいい。
彼らは、個人と、公、公人としての意識が希薄過ぎるのである。

海外に出掛けて、観光する。ある場所では、履物、素肌を出すことを禁じられている場所がある。また、どんな国に出掛けても、もし、その国の、国旗に人々が敬意を払っている場面では、外国人であっても、敬意を払う。
これ、礼儀作法である。
昔、ある宗教団体に公演に呼ばれたことがある。私は、その教義を信じる者ではないが、彼らが敬意を払う仏像に、敬意を払う。公演の前に、その仏像に、私は敬意を称して、額ずいた。これ、礼儀であろう。

公立学校の教師であるということを忘れて、我が身の思想、信条を盾にとり、それを言論の自由だと思っているならば、即座に改めるべきである。
または、私立学校に転職するべきである。

それにしても、私が腑に落ちないのは、君が代が、過去のアジア侵略に密接に結びついていると考えることである。
あれは、歌である。
歌を聴いて、様々な感情を持つのは、個人的、極めて個人的な感情である。
彼らは、他人が、自分の嫌いな歌を歌うと、止めろと言う、傲慢を言うのである。ちまたに溢れている、騒音に対しては、鈍感で、君が代だけに、異常に拘るというのは、まず強迫神経症である。

そして、最も罪深いのは、この行為によって、子供たちを混乱させているということである。自分の感情を、良心であると言い、正当化しているが、それによって、子供たちを混乱させる。それが、罪深い。
国歌斉唱、国旗掲揚、共に公である。
公とは、おおやけ、であり、おオほオやアけエである。
オとアとエである。
送る、開ける、留める。
つまり、おおやけとは、人に送り、心を開き、それを留める。国家幻想のあり方である。
彼らの行為は、国家幻想を破壊せよと言う。つまり、自分の居場所まで破壊するということを知らない。実に、愚かであり、哀れである。

どうして、このようになったかは歴然としている。左翼主義のアホどもが、国家転覆を狙って成したことである。天皇制廃止とか、愚にもつかないことを考えた末のこと。
ロシア、中国共産党、北朝鮮を見れば、彼らの末路が解るというものである。

ここで、はっきりと言うが、日本上空に開ける霊界は、またの名を、高天原神界という。
世界で、一つしかない、正神界である。これは、いくらでも証明することが出来る。
正神の霊界を有する国は、日本のみである。何も、民族の云々を言うのではない。現実を言うのである。
魔界の無い国である。
よくよく歴史を見回して欲しい。ユダヤ魔界、インド魔界、準じて、イスラム魔界によって、世界は支配された。何故、日本が、このようにあるのかをとくと考えてみれば、解るはずであるが、勿論、霊的感応力の無い者が、千人集っても解らない。

高祖皇宗によって、守られている日本であり、その個人的自由を許している。
その個人的行為は、因果応報、自業自得して、自分に返ってくる。

日本には、専制君主制は無い。天皇の住まいを見渡せば解る。歴代天皇のお住まいは、城壁で囲まれたものは、一つも無い。
いつでも、滅ぼすことが出来た。しかし、武力政権を取った者も、誰一人、あの信長でさえ、天皇家を攻撃することはなかった。何故か、天皇家は、一般国民に支持されていたからである。我らの本家であるという意識は、神であるというより、身内である。

君が代から、私がここまで書くのは、飛躍し過ぎである。それを解って書いている。
君が代は、歌である。歌が、ここまで威力のあるものであることを知る。
日本は歌道の国である。
この問題は、日本人の歌に対する感覚が、いかに優れているのかを教えるものである。
単なる歌に、これほどの議論が必要なほどに、日本人は、歌に支配されるのである。
私の、もののあわれを、是非読むべきである。
学者どもが書けない、もののあわれを、お見せしている。
勿論、私の霊感という妄想であることは、必然である。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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