2007年02月26日

万葉の時代を探る

万葉の時代を探る。
まず初期万葉は、舒明天皇から始まる。629年。
淳仁天皇の天平宝字三年。759年。130年間にわたるのである。
私は、学者ではないから、それを初期、中期、後期と区分けることはしないが、初期から伺える、大和言葉の生命力、宇宙的存在の讃歌から、次第に個人的な感覚へと移行してゆく。後期になると、古今集に近くなりつつあり、それは、またそれで意味が深いものになってゆく。
私は、歌風などを分析はしない。
大和言葉の、もののあわれを尋ねてゆく。

万葉の世界の生みの親ともいえる、舒明天皇御製から見る。
「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 大和の国は」
天皇(すめらみこと)香具山に登りて望国(くにみ)したまいし時の御製歌(おほみうた)

天皇は、てんのうと読めば、漢語である。大和言葉では、すめらみこと、である。
すめら、とは、統べる、統治する。命は、ミコト、御言である。
多くの人、今までは、政治を統べるを持って、天皇と言うが、私は違う。
また、政、まつりごと、つまり、政治と、祭り、奉るを司る人というもの。しかし私には、違う。
私は、御言、みことを、統べる人と言う。
天皇の宣言を、詔(みことのり)という。御言を述べるということである。
天皇は、私には、最初に御言を発する者であるという意識である。
天皇に対する、考え方が、まず違うということを言う。
何度も書いたが、大和言葉は、言霊、音霊、数霊の言葉であるということ。一音に意味があるということ。それを使用する者は、大和、日本人であるということ。国とは、国土のことのみではない。国とは、意識である。国体という意識であり、それは、国民である。その国民の代表者としての、天皇の存在がある。天皇は、人間を超越したところの、神なる存在ではない。もし、神というならば、それは全く論外のことである。
神という存在は、この世に、この宇宙に存在しないからである。
神、ミコトとは、尊称である。これを理解してもらわなければ、私の、もののあわれを、理解できない。
国体の代表者である、天皇の御言が、初めにあると考える。
その御言は、誰に向けられるか。それは、祖先である。そしてまた、その祖先の代表者が、天照大神である。
何をいいたいのかといえば、日本でいうところの、宗教や信仰とは、この祖先と、子孫の通じ合いであるからだ。
超越した絶対者など、日本には、いない。大和言葉を理解したいのならば、それを知ることである。

そうして語り続けられてきたものこそ、真実である。そこには、想像も、妄想も無い。在ることしかない。
言葉を古来、言の葉と言った。言の葉のようなものである。葉とは、木の葉の、葉である。
一つの樹は、多くの葉をつけて成長する。それらの考え方、すべが自然からの学びであることを言う。
日本に精霊信仰が、云々という、言い方を私は好まない。
言葉までを、神として尊称する民族である。当然、自然も、神として尊称するのである。
それを、八百万の神、千代万の神と言う。

先を続ける。
大和の国には、たくさんの山があるが、非のうちどころのない、円満具足の天の香具山に登り、国見をするために眺めると、ここかしこに煙が立ち、様々な池には、カモメが、しきりに飛んでいる。何という、美しい平和な国であろうか、この秋津島、大和の国は。

万葉の歌は、目で読むのではなく、声に出して読むものである。
その訳を言う。
当時は、文字が無かった。これは、簡単に言う。要するに、言葉は話し言葉である。文字という意識は、中国からの書物による。
これを短絡的に考えて、文字が無かった、すなわち、文化が遅れていたと考えてはいけない。文字にする必要が無いほどの、記憶力があった。
また私は、文字があったと考えている。しかし、当時、中国の文字を利用するという考え方が出た。それは、ある種の策略である。それを今は、言わない。
学術的には、文字が無かったということである。今は、それに従う。
さて、当時の人々は、文字に頼らずに、耳に頼った。記憶である。口から耳へである。語り継がれ、聞き継がれていた。これは、口から出る言葉の「響き」に、重大な意味があるということである。
ある研究家が言う。
「口から発せられる言葉の響きに対する人々の感覚は、おのづからに、極度に鋭敏化され、純化されていたに相違ない。言霊信仰が生まれる理由の一つもここにある。」

言葉は誤魔化すことが出来ても、響きを誤魔化すことは出来ない。
言葉を大切にするということは、実は、言葉の響きを大切にせよと、同じである。言葉の響きの濁りは、人格の濁りになる。
ただ今は、言葉の響きの重要性を教える人がいない時代である。喋る人はいるが、語る人が、極端に少ない時代である。
日本は、話芸の国である。語りを芸として、高める国柄である。書き言葉よりも、話し言葉に言葉の妙がある。これについて書けば、長くなるので、止める。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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