2007年02月26日

3月25日は、藤岡崩(神上がり)545日祭

3月25日は、藤岡崩(神上がり)545日祭である。
一年と半年を経る。
喪に服すのは一年がおおよそであるが、私は、三年を喪に服すと決めている。
喪とは、もがり、であり、思いを尽くして追悼する、慰霊するということである。
持統天皇は、天武天皇の賓宮の儀から、大葬の儀まで、二年と三ヶ月をかけている。
私は、三年をかけて、藤岡の葬儀を行う。
簡単に言えば、通夜の時間である。今、私は通夜の時間を過ごしている。
葬儀は、すでに形式化しているが、葬儀は、人の心である。何年、通夜を過ごしてもいい。それを、私が決める。

仏教が葬儀を始めたのは、鎌倉時代からである。
戦で亡くなった人のために、名もない僧が、彼らを供養したことから、始まる。
仏教は、死者の法要を行わない。葬式をするものではなく、いかに生きるかを説く教えが、本来の仏教である。
神道の日本では、神社でも葬式はしない。それぞれの村、集合体によって、それぞれの風習に従って行った。野辺の送りとは、そういうものだった。
仏教の僧たちが、葬式をして金にするようになり、今現代の葬式仏教に至る。

主イエスも、死者は死者に任せよと、葬式の形を定めなかった。
葬式より何より大切なこと、それは、救霊である。
霊を救うとは、霊界入りすることが大切なことであり、それは、もはや死者本人の自覚と、因果応報、自業自得のものである。手出しは、出来ない。
主イエスは、洗礼を言うが、あれは、洗霊であり、霊を洗う、清めるという意味である。つまり、神道の清め祓いである。
それでは、清め祓いは、何によって成るのか。
言霊の清め祓いである。禊とは、海川に入り、沐浴するということだけではない。身を清める身を祓うということであり、魂、霊を清め払いするのは、言霊の祈りである。

宣ることによる、祈りの言葉である。
言葉は、実現化するのであるから、言葉を発して祈る。
何も、成功哲学という妄想の言う、言葉は実現化するではない。古神道は、すでに言葉は実現化すると見抜いていた。おおよそ、2500年ほど前からである。
思考が実現するのではない。それは妄想である。言葉が実現化するのである。

大和言葉で、安かれと言えば、そのようになる。

さて、藤岡の喪に服す私は、三年をそれに当てて、いよいよ藤岡の歌声を世に広めるために、行動する。藤岡の歌の伝道である。
これからの声楽家の手本になる歌であること、明々白日である。
素人の私に解って、プロの皆々に解られないとは、不思議である。余程、目が暗んでいるのだろう。
上手に歌うことではない。歌とは、魂からの、霊からのものである。
上手な人は、多くいる。それが、魂に響く、霊に響く、それが歌である。
耳に、響くのではない。
耳で聴いているうちは、詮無いことである。

もののあわれを歌った、藤岡を世に紹介することが、私の喪に服す意味である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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