2007年02月23日

今もって、私は藤岡の整理をしている

今もって、私は藤岡の整理をしている。
その中から、日本歌曲コンクールの票が出てきた。そして、ある審査員の寸評があった。
驚いた。
そこに書かれていることである。
アカペラで歌う、うぐひす、という曲についてのもので、こうある。
「うぐひす 節回しにもう少し和風の特徴を出した丁寧さを」
これが、あのコンクールの審査員の一人であったかという思い。
節回し、和風、特徴、丁寧さ
この人は、この言葉の意味を知っているのかと思った。
藤岡のアカペラから、一体何を聴いたのであろうかという思いである。
この素人の私でさえ、よく聴いた。よくよく聴いた。
節回しという言葉に関しては、もう論外であるから言わないでおく。
和風という言葉である。藤岡の歌に和風が溢れていた。それを聞き取れないということである。あれ以上に和風とは、どういうことであろうか。
私の前に出て、和風を説明して欲しいものである。和風とは、和ものの風である。そして和ものの風という時は、そのようにある、と言うことである。つまり、和のようにあるということである。
あの藤岡の日本語の語感に和のもののようにあれとは、何事であるのか。
審査員の資格が無い。
そして特徴である。特徴とは、何か。
この人は、和風の特徴をと言う。和風の特徴を知らないものが何を言う。
和風といえば、和のようなものであり、この人は、和風の和風はと言う。または、特徴の特徴と言っているのである。
審査員の資格が無い。
そして、丁寧さである。
あれほど、丁寧に歌っている歌が、あろうか。
こうして審査員は、見事に、化けの皮を剥がしたものである。

もし、万が一書くとしたなら、和風の丁寧さを、である。
しかし、藤岡の歌には、和風の丁寧さも超えていた。
これは自分が日本人だと奢っているのである。聞くところによると、その審査員は、フランス歌曲の大家なるそうな。それも、カタカナフランス語であるというから、驚く。
あれを外国人に聴かせてみるがいい。
純粋、大和言葉の日本語を藤岡は、歌っていた。

まず、日本の歌を歌うということは、日本語に聞こえるということが第一である。
それをクリアした後は、語感である。
日本語の語感は、母音の響きにある。
だから、多くの日本の伝統歌は、皆、母音を伸ばして、母音の余韻、その響きを聴かせる。
民謡を始め、常磐津、清元、長歌、大和楽、地唄、小唄等々。
日本語には聴こえるが、キンキンとして、耳障りの悪いソプラノがいるが、情感、情緒というものが感じられない。ただ、大声が響くので、人は注目する。また、声楽家の日本の歌を評価する、何物も持たない故に、良いものだと思い込む。
中には、柔らかな母音の響きを聴かせるソプラノがいるが、稀である。
その他は、皆、論外、である。
カラオケを歌う素人の方が、上手である。

藤岡の声は、生まれ持った声質であるが、藤岡が、私の納得する母音の響きを持ったのは、大変な努力と、根気があった。その方法については、今は、言わない。
兎に角、審査員になれない者どもが、何人集っても詮無いことである。
あのコンクールで一位になっても、世の中の誰にも知られない。ただ、井の中の蛙のように、狭い世界で、納得しているという、アホ面の者どもばかりである。
これを、哀れという、もののあわれではない。愚かしい者の、哀れである。
そして、それに気づかないという哀れである。
気づかないままに死んでしまうのである。ますます、哀れである。そして、霊界にも行けずに、その辺をうろうろするのも、ますます哀れである。芸大などに行くと、その幽霊もどきが、浮遊しているから、たまらない。
勿論、私は、もう行く気は無いが。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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