2007年02月17日

紀貫之の大和言葉

紀貫之の大和言葉を、もう少し読む。
「古き歌、自らのをも奉らせたまひてなむ。それが中に、梅をかざすより始めて、ほととぎすを聞き、もみぢを折り、雪を見るに至るまで、また、つる・かめにつけて君を思ひ、人をも祝ひ、秋萩・夏草を見て妻を恋ひ、逢坂山に至りてたむけを祈り、あるは、春夏秋冬にも入らぬくさぐさの歌をなむ、選ばせたまひける。すべて千歌二十巻、名づけて古今和歌集といふ。かくこのたび、集め選ばれて、山下水の絶えず、浜の真砂の数多く、つもりぬれば、今は飛鳥川の瀬になるうらみも聞こえず、さざれ石のいはほとなるよろこびのみぞあるべき。」
古き歌とは、万葉集である。万葉の歌に入っていない歌、選者たちの歌も奉らせた。
その歌の中には、梅をかざすというものから、ほととぎすの声を聞いて、紅葉を折り、雪を見るという歌に至るまで、また、鶴や亀に託して君の長寿を思い、人をも祝う、秋萩や夏草を見ては妻を恋しく思い、逢坂山に至っては、手向けの神を祈り、また春夏秋冬のどれにも属さぬ様々な歌を選ばせたのである。千首二十巻、名づけて古今和歌集という。
このたび、歌が集められて、絶えることなく、その数が多く積もり、今は、歌が衰えてゆくこともなく、さざれ石の岩になる如くに、生成する喜びのみあるばかりだ。

不思議なもので、大和言葉を静かに読むと、心が落ち着くのである。
言葉は時代と共に変わるが、その元は、変わらない。日本語の元は、大和言葉である。幾度も読むうちに、自然に、何事かが伝わるというのは、日本人だからである。
古典など読む必要が無いと言う人もいる。それはそれでいい。
いつか、大和言葉に慰められる時がくるかもしれない。
「たとひ、時移り、事去り、楽しび行きかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りうせずして、まさきのかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまを知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしえを仰ぎて、今を恋ひざらめかも。」
たとい時移り、事が去り、楽しみ悲しみが行き来し変転しても、この歌がある。これが絶えず散り失せないで、長く後世に伝わり、久しく留まるならば、歌が何かを知るであろう。それは、大空の月を仰ぎ見るように、古い時代の歌を仰ぎ見る。そして、この歌を恋い慕うであろう。

さて、いよいよ、大和心の万葉集に分け入る。
私は学者ではない、研究家でもない、素人であるから、ばったばったと、心の赴くままに、もののあわれを尋ねてゆく。
人間の持つ、あらゆる心の様を万葉集は、目の前に現す。
現代の人間と、万葉時代の人間に、何事かの差があろうか。大差ないのである。ただ、複雑になっただけである。絡み合う糸を解せば、皆々、万葉の時代の人の心になる。

おほいなる、やわらぎの、こころ、つまり、大和魂が、もののあわれの大本である。
人の心の喜怒哀楽が、すべてこなされてゆく時に、心の姿が、和らいでゆくのである。

建礼門院右京太夫は歌う。
月をそこ 眺めなれしか 星の夜を 深きあわれを 今夜知りぬる
いつもは、月を眺める。しかし、今夜の星空は、何であろう。この星空を眺めていると、心の深いところから、あわれを思う。あわれというものを知るのである。

愛する人を失い、絶望の内に生きた人の、深いため息から生まれでた、あわれの情。あわれが、哀れであり、憐れとなり、そしてあわれは、深い慈しみに至る。
ある思想家が言う。歳月は慈悲を生ずると。
もうすでに、私は、あわれの答えを出している。
人の心のあらゆる相を経て、人の心は、いつくしみに至るのである。
そこに辿り着くまでには、万葉の世界を抜け出て、万葉を抱擁してゆくのだ。
とにかく、大和言葉の真骨頂を感得しなければならない。そのためには、万葉集の言の葉に分け入り、分け入りしてゆかなければならない。
言葉の先祖帰りである。
心のふるさと、万葉集である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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