2007年02月14日

力をも入れずして、あめつちを動かし

「力をも入れずして、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、たけきもののふの心をも慰むるは歌なり。」
力を入れることなく、天地の神々を感動させ、霊魂をもあはれと思わせる。男女の中を親しくさせて、勇敢な武士の心をも慰めるは歌である。
ここでも、あはれという言葉が出る。鬼神をもあはれと思わせるという、あはれとは、人間らしい気持ちにさせるということである。
人間らしい気持ち、その、らしさとは、何か。
あはれとは、人間らしいのである。魔物でも、妖怪でもない人間というもの。ましてや化け物でもない人間というもの。
あはれとは、人間が持つ心情であろう。それは、どこから発するものなのか。心である。
ここで、明確にする。
精神とは、言葉の世界のことである。
心とは、水落、胸の辺りに宿る目に見えない存在である。
魂とは、脳の側面に存在する、光である。
人間は、肉体、幽体、そして霊体、光である魂を有する存在である。
肉体を失えば、幽体になり、霊体と魂を有する。
幽体を失えば、霊体になり、そして最後は光としての魂の存在になる。
幽体のままにいると、幽霊と言われる、気体になる。
歌の道の心とは、私が言う精神と、心の交わりを言うものである。
脳が心をつくるとは、科学である。実際は、心が脳を支配する。科学は、目に見えるものを分析するのみである。
心は、目に見えないゆえに、脳が先にあるとしか研究できない。脳の間脳に隙間があることの意味を知らない。そこが、魂の存在する場所である。そこからの光が、脳の側面に出る。信じる必要は無い。私は、それを信じてもらう努力などしない。
いずれ解ることであるからだ。

さて、人間らしい、あはれという心情を、進んでゆく。
次に古今の序は、歌の起源を言う。
「この歌、あめつちのひらけ始まりけるときより、いできにけり。しかあれども、世に伝はることは、ひさかたのあめにしては、下照姫に始まり、あらがねのつちにしては、須佐之男命よりぞ、起こりける。」
歌は、天地の開ける時から始まった。しかし、実際には、天上にあっては、下照姫(したてるひめ)から始まり、地上にあっては、須佐之男命から起こったのである。
「ちはやぶる神世には、歌の文学も定まらず、すなほにして、事の心わきたかりけらし。人の世となりて、須佐之男命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。」
神の世では、形式も整わずという。ここで言う神の世とは、古代、縄文、弥生期の人々のことである。古い古い昔を、神の世と言う。時を経て、精神の有り様が明確になり、つまり人の世になって、ようやく三十一文字となった。
須佐之男命は、天上界の高天原(たかあまはら)を追放されて、地上に降り、出雲の国で、ヤマタノオロチ(八つの頭のある大蛇)を退治して、その地の奇稲田姫と結婚した。その時の喜びの歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣造る その八重垣を」である。
須佐之男命の孫が、国津神の代表である、大国主命である。
勿論、この歌は、後の者が創作したものである。神話、伝説としてのお話である。
古今時代には、5.7.5.7.7の形式が最も大きな勢力となっていた。他の形式も、すべて、5音と7音とから成るのは、前述した。

「かくてぞ、花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露をかなしぶ心ことば多く、さまざまになりにける。遠き所も、出で立つ足もとより始まりて、年月をわたり、高き山も、ふもとの塵ぢよりなりて、天雲たなびくまで、生(お)ひのぼれるごとくに、この歌も、かくのごとくなるべし。」
ここでも、あはれび、という言葉が出てくる。あはれび、とは、現代では、あわれみ、という意味である。霞をあわれむと言うのである。
人間らしく、霞を見つめる。一体、どういう心境で、霞をあわれむのだろうか。これは、つまり霞をも、歌心に取り入れる人間らしさということになる。
自然現象にも、心を動かされる日本人の、驚嘆すべき、観るという姿勢である。
大伴家持作る歌一首
春の野に 霞たなびき うらかなし この夕かげに ゆぐひいす鳴くも
夕暮れの春の野に、霞がたなびいている。遠くからは、うぐひすの鳴く声が聞こえる。
うらかなしとは、心がかなしいのである。うら、とは、心のことである。表の裏であるから、心である。人間の裏は見えない。その見えない心が、悲しい、哀しいのである。
悲しいとか哀しいというと、悲哀を思うが、違う。この悲しみ、哀しみは、存在の確かさと、不安定さである。つまり、孤独を見つめている。
端的に、孤独であると言わない。これ、風雅である。風情である。
大和言葉の危さ、あやうさ、である。危いとは、危険であるという意味ではない。
ぎりぎりのところで、心の極限の様を見つめて、言の葉という歌にする。
見事である。
いや、実に、見事である。

追伸
神話の高天原と、日本上空に開ける、高天原霊界とは違うことを言う。
ある人は、神界とも言う。
神話の高天原の読みは、タカマガハラと言う。または、タカマノハラと読む人もいる。霊界は、タマアマハラと読む。それは、たアかアあアまアはアらアである。すべて、あ音である。あ音から始まるのが日本の霊界である。
主宰神は、天照大神であり、それは想像神ではない。実在の人物である。
簡単に言う。太陽信仰を説いていた方であり、その方が神上がりして、人は太陽の神、天照とお呼びした。天を照らすのである。太陽である。
神話には、無理がある。イザナギの神が、禊祓えした時に生まれた神であるとするが、イザナギは、男神であり、生むということが、おかしい。勿論、あることの象徴であると考えることが出来るが、高天原の主宰神であるから、何とか、上手い具合にこじつけたかったのだろう。
大和朝廷以前に存在した、富士王朝の長い歴史を、古事記は短縮した。
富士山の上空にも、富士霊界、ある人は、神界という人もいるが、開けてある。
大陸から列島が離れた頃、日本上空に、タカアマハラ霊界が開ける。そこで、主宰者として選ばれたのが、天照と呼ばれ敬意を受けていたお方である。
神の語源については、学者に任せる。
私は、神は上からのものとする。上からのものである。宇宙のどこを探しても、創造神などいないし、欧米人や、アラブ、ユダヤの人が言う、唯一絶対の神などいない。
日本人の太古の人々は、神、カミとは、尊称として用いたのである。最高の尊称として、神という称号を与えた。
天照様が、タカアマハラ霊界に選ばれ、尊称として大神と呼ばれるのである。神という尊称に、大という尊称を得たということは、いかに素晴らしい生き方、教えを説いていたかということである。
日本では、人霊も自然霊も、その他数多くの神と呼ばれる方々がいる。八百万の神どころか、千代万の神々である。それは、すべて上へ上と向かっている。解りやすく言えば、進化しているのである。
最高位に、アメノミナカヌシノカミがいらっしゃると言うが、誰も逢うことは出来ない。それは、宇宙すべてに充満しているから、逢うなどと思う方が間違っている。それを神と呼ぶならば、神でもいい。
宇宙にあって、生き死にを繰り返しているのである。つまり、宇宙からは、逃れられないのである。地球にさえも、やっと生きているのである。太陽系に出掛けて生きることなど出来ない。
霊体になっても、ほぼ太陽系から出られないのである。
余計な話になった。これは、どうでもいい話である。
知ったからといって、役に立つことはない。せいぜい、妄想逞しくする程度である。
日本は、信仰の自由がある。どんな宗教を信じても良い。しかし、教義や教理と言われるものも、一つの仮説として考えていないと、それが足枷になって、見えるべきものも、見えないということになる。
その証拠に、宗教を持つと、実に排他的、非寛容になるのである。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。