2016年07月06日

生きるに意味などない15

さて、フェニックスに戻る。
意味の領域・・・副題は、一般教育の考察、である。
つまり、教育学というもの。

何でも、学をつければ、いいというものではないが・・・
学者は、好きなようで・・・

学問の種類も、多岐に渡る時代である。
心理学などは、何でもかんでも、・・・心理学と名づけている。
呆れる。

教育課程の作成には、学習の範囲と順序に加えて内容の選択と組み立ての原理が必要である。習得するために入手できる莫大な量の知識があるので、教育者はこの文化の全蓄積からわずかな部分を学習計画に取り入れるために選択する仕事に直面している。・・・
知識の過剰は現代社会の欲求不満と無意味性の原因の一つである。素材の団塊を、理解できる大きさに還元できる確かな標準ができるならば、それは意味の探求に大きな貢献しなる。
フェニックス

ここでは、大嘘を書いている。
まず、教育者が、膨大な知識を得ているなどとは、あり得ない。
教科書で、精一杯である。
また、その指導要領など・・・

知識の過剰が、欲求不満と無意味性の原因の一つ・・・
嘘である。

この本を選んだのは、単に、書棚にあったからである。
別に、作為はない。

教育学で、まともに、このような本を読んでお勉強するという、愚かさ。

一人の人間の知識など、たかが知れたものである。
まして・・・教師・・・
教師にしかなれないから、教師になる。
あるいは、教師としてしか、生きられないから、教師になるのである。

人は、成りたいものになるのではない。
成らざるを得ないものに、成る。

無意味性の他の原因は現代生活の急激な変化であり、また学習した多くのことが、すぐに時代おくれになることが想起されるであろう。ここでもまた教育課程の内容が変化することが一般化したさなかにあって、ある程度の恒常性をもてるような選択ができるならば、意味の拡充に著しい貢献ができる。
フェニックス

時代は、いつも、激動している。
この人の、論調では、化石になってしまうだろう。

意味より、何故、無意味性を追求しないのか・・・
不思議だ。

世代間の差は、著しいのである。
一歳と、十歳を比べてみると、いい。

低年齢の場合は、まだ、救いがある。
しかし、次第に、年齢が高くなってくると、その差は、益々、開く。

世代間、そして、個々の人で、全く違う。
日本の教育では、飛び級などないが・・・
飛び級のある、国もある。

当然である。
個人差である。

平等などという、へんてこな言葉に騙されて・・・
皆、一緒くたにしてしまうのである。

平等などという言葉に、意味は無い。
ただ、幻想である。

たとえば、自由と平等・・・
これくらい、おかしな言葉もない。
それが、あると、信じられているから、また、おかしい。

自由で、平等などという世界が、何処にある。
自由なら、個人差を求める。が、平等なら、個人差を認められないのである。

全く対立する概念を、当たり前のように、考えている。または、考えさせられたのである。私は、笑う。

運動会に、皆、一等だという、平等主義が、いかに、おかしいか。
それでは、自由は、何処に消えた。

学者は、分析が得意であるから、この人の、学習内容の分析も、見ることにするが・・・

一体、誰の策略に乗って、このへんてこな、概念を組み合わせたのか。
一度、真剣に考えてみる価値はある。

私に言わせれば、自由も、平等も、何処にも無いのである。
そして、それが、理想的だという神経も、わからない。

そうすると、哲学の世界に飛ぶ。
だが、哲学の世界も、実は、無意味性については、お手上げである。
何故か・・・

哲学の世界こそ、意味付けの世界である。
七転八倒して、意味を見出す行為が、哲学である。

その哲学の、未熟児が、神学という、学問とは、言い難いものである。
それについては、これから、延々と書きつけることにするが・・・

結果、終わらないエッセイになる。
そんなことは、解って、書いている。


posted by 天山 at 05:12| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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