岸田
これが、我が精神の中でも、行われている。
人と人の、関係ではなく、私の中でも、行われているという、意識である。
そうすると、話は、また、どんどんと深くなる。
本来の現実ではない、擬似現実で、七転八倒している、人間である。
最初から、岸田氏は、神経症と名づけているので、よく理解出来る。
それでは、私は、当然そのようであり、人間は、実は、現実というものを、感得しているのかと、思われる。
しかし、世界では、様々な紛争、戦争により、厳しい現実を生きる人たちがいる。
そこから、遠く離れた日本の人たちは、彼らの現実を感得することは、難しい。
ただ、知ることは、テレビ、新聞などで報道される、写真、記事である。
それも、言語であるから、本当に、彼らの現実を知ることは出来ない。
あえて言えば、少しばかりの、想像である。
また、地震災害などの、被災地である。
そこに、ボランティアとして出掛けて、少しは、現実の様子を知る。しかし、被災した人たちの心の内までは、解らない。
岸田氏は、そういうことを言うのではないが・・・
人類の基本的な、疾患として、言語を捉えている。
更には、その現実にいても、現実を理解出来ない場合もある。
あまりにも、悲劇であり、心、精神が受け付けない。
ただ、不安に恐れおののいているだけである。
動物の叫び声の種類とくらべて人間の言語の語彙がべらぼうに多いのは、言語の豊かさの証ではなく、貧困さ、機能不全の証である。
本当に欲しいものなら一つですむが、それが得られないので代用品をたくさんかき集めるかのように・・・
岸田 改行は、私
人間の精神活動である、言葉の世界は、そのようである。
代用品を沢山つくる。
そして、その代用品の言葉が、本当のものだと信じる。
そして、意味付けする。
意味付けする前から、もう、実は、終わっているのだ。
一番、手っ取り早いのは、神、仏などという、極めて抽象化された、モノである。
神の御心、仏の思し召し等々・・・
あっさりと、精神世界を、それらに明け渡す。
それで、勝手気ままに、意味付けを行う。
勿論、皆々、幻想、妄想なのであるが・・・
実に、救われない、人間の有様である。
しかし、贅沢は言っておれない。われわれは言語化された現実しか知り得ない。言語を失えば、われわれにとって現実の世界は崩壊する。われわれの行動は支離滅裂に分解する。というのも、われわれはイメージにしか、そしてイメージを基盤として成り立った言語にしか反応し得ないからである。
岸田
恐るべき、真相である。