2016年05月19日

生きるに意味などない3

不幸にも意味達成の道は決して平坦ではない。人類は常に意味を破壊する種々な力によって脅かされているというのが人間の状況である。価値、目的や理解はもろい成果であって、きわめてたやすく無価値、欲求不満や懐疑の態度に負けてしまう。そして意味は無意味の奈落に姿を消すのである。
フェニックス

と、いうことで・・・
つまり、意味は、いつも流れているものなのである。
永遠なる意味とは、存在しないのである。

つまり、意味など無いのである。

だが、フェニックスは、そのきわめてたやすく無価値・・・
奈落に姿を消す意味の、分析をする。

意味への不断の脅威は、現代の産業文明のもとで激化している。それをもたらした要因として、次の四つはとくに強力である。

学者の面目である、分析である。

第一は、
批判と懐疑の精神である。この精神は科学の伝統ではあるが、すべての意味の真実性を疑問視するようになった。
第二は、
複雑な相互依存社会で起こる極端な専門化のために、一般的になった生活の非人間化と断片化である。
第三は、
膨大な量の文化の産物、とくに知識の量である。それは現代人が習得すべく要請されている。
第四は、
生活条件の急激な変化であり、そのために一般化した非永続感、不安感である。
以上

疑問視も、断片化も、膨大な知識の量も、生活条件の急激な変化も、当たり前である。
時代は、いつも、激動している。

江戸時代の、ものの考え方で、現代を生きられるのか・・・
平安時代の、ものの考え方で、生きられるだろうか。

意味というものも、転変流動していくものである。
日本には、不易流行、という言葉がある。
それは、永遠性である。
変わらぬものがあると、考える、考え方である。

仏教の言う、無常も、常無いという意味である。
常がないことが、物事の真相なのであるという、詭弁。

意味をつけることが、上得意な宗教であるから、何とでも言う。

教育が意味の探求において基礎づけられるとみなされるならば、教育課程の哲学の金本的目標は、意味の本質を解明することである。
フェニックス

意味の本質・・・
実に、傲慢な考え方である。

簡単に言えば、無意味に耐えられないのが、人間なのである。
それは、相当に、病んでいる状態である。

他の動植物は、無意味に耐えられるのである。
それは、知能がないからか・・・
いや、彼らにも、知能がある。

ただ、意味は、生きるに必要ないのである。
人間だけが、意味を必要とする。

ただし、私は、意味意識について、問う。

意味の経験には多くの種類があって、これが意味の唯一の本質であると指摘できるような単一な性質はない。そこで、意味一般ではなく、複数の意味、つまり意味の諸領域について述べねばならない。したがって、教育過程の哲学は意味領域の見取り図を作り、そこに重要な経験の種々な可能性を図示し、各種の意味の領域を明確に区別し相互関係をつける必要がある。
フェニックス

経験の種々な可能性・・・
経験からの、意味の汲み取り、であろう。
経験によって、人間は、意味を見出す。しかし、それらは、意味の領域を明確に区別し、相互関係をつける、というが・・・

教育というものについても、考えるヒントがある。
人間は、経験という、教育により、意味を見出す。

そして、それを、言葉にする。
更に、その言葉から、妄想を逞しくし、体験を経験に高めるのか、深めるのか。

何とでも、言える。

私は、何度も言う。
生きるに意味などない。



posted by 天山 at 05:52| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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