2016年05月18日

生きるに意味などない2

意味意識を養うのは、教育の現場である。
その、教育とは、ゆるやかな強制を伴う。

その、ゆるやかな強制というもの。
一つ誤れば、取り返しのつかないことになる。

例えば、日教組という組合の、教育方針などは、反日思想が元にあり、子どもたちに、自然、反日感情と、反日感覚を与える。

まあ、そんなことは、どうでも、いい。
その後、子どもたちは、社会生活、家庭生活で、それを正す機会は、多々ある。

この、エッセイは、生きるに意味などない、というものであるから、その意味意識を作り出す、教育のあり方から、問うことにする。

これから、引用するのは、意味の領域、P.H.フェニックスによるものである。

教育課程の統合的な哲学の重大な理由は数多くあるが、そのうちから次の四点について述べたい。

その第一、
包括的展望は学習計画に何を取り入れ、何を除外すべきかを賢明に判断するのに必要である。
ある科目を他の科目に優先して選ぶときには、ある科目が他の科目とどのように異なっているのか、またある科目が他の科目よりも学習者の経験と性格の全形態を達成する要因として、なぜ好ましいかを知ることが大切である。

ここからして、その意味するところのモノを判断しているということである。
より、意味を考えやすい科目ということである。
それは、人それぞれになる。

だが、人は、その生まれ、環境、習慣により、更に、価値観を身につけている。ただし、それは、明確ではない。ぼんやりとしたものである。

学者は、体系的、そして、分析を好む。
そして、それに、始終して、人生を大半が、終わる。
悲しい、職業でもある。

さて、第二に、
人間は本来、組織的全体であり、個別的部分の単なる集合ではなく、したがって教育過程もそれに対応して組織的な性格をもたねばならない。学習過程で一連の種々な経験をもつのは、同じ一人の人であるから、学習計画が人間存在の全体性を目標とするときに、人間の成長に最もよく役立つのである。

これは、国家の願望である。
組織的な性格・・・
人間存在の全体性を目標とするときに・・・

これは、宗教教育にも、言えることである。
ただし、宗教教育は、甚だしい、強制である。

人間存在の全体性が、人間の成長に最もよく、役立つ・・・
と、いう概念を作り上げる。

第三に、
社会は個人の場合と同様に、共同体の行動方針によって左右されるのであるから、共同体にも個人の生活と同じように幅広い計画が必要である。学習の包括的な設計として作られた教育課程は共同体の基礎作りになるが、個別化した学習計画は社会生活を崩壊させる危険がある。

これは、由々しきことである。
個別化した学習計画は社会生活を崩壊させる危険がある・・・

軍隊であろう、この提案は。
生きる意味意識も、この共同体に則って、行われるとしたら・・・
まさに、宗教教育、宗教の極めて強い、強制性と同じものになる。

人間を、均一化しようと、試みるのが、教育ではない。
すでに、このあたりから、分析が、怪しくなる。

そして、第四に、
学科体系の包括的な概念は教育過程を構成する各部分に、これまでと異なった意味を与える。ある科目の価値は他の科目との関連を理解することで強化されるものであり、また他の科目との類似や対照によって、ある科目のもつ特徴が最もよく理解されるのである。

これは、もっともな事である。

教育の最大のそれは、特徴である。
これを、学問という。
学問の、役割である。

学問とは、生きるに暇を潰す最大の、暇潰しである。

さて、フェニックスの核心の、言い分は、
人間は本来、意味を経験する能力をもった生物である。明らかに他の存在と異なって、人間の存在性は意味形態に存する。さらに一般教育は本質的な意味をもたらす過程である。

非常に、傲慢不遜な、記述である。

他の存在・・・
人間以外の、生き物のことである。
動植物を言う。

人間のそれは、大脳化である。
その大脳化が、生み出した、言葉の世界、それは、人間の精神という。
精神活動は、言葉の世界である。

つまり、だから、人間は、他の存在とは、異なるものであり、意味を経験するというのである。

その意味とは、言葉によってなる。
つまり、言葉の世界を、構築する能力があるということ。

生きるに意味などない、という、私の発言も、意味意識となるのである。
この言葉との、戦い。
人間は、言葉との、戦いによって、生きて、死ぬ。

生きて、死ぬ存在が、人間である。



posted by 天山 at 06:03| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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