2016年04月01日

玉砕115

栗田艦隊と合流するはずだった、西村艦隊は、実際、スリガオ海峡で、死闘を繰り広げていた。

西村艦隊が、24日、午前八時、ミンダナオ海の西口に近づいた頃、米走策敵機に発見され、まもなく、急降下爆撃機、17機に襲われた。

損傷は、軽症だったが、西村中将は、未明に発進した、最上の水偵がもたらした情報により、レイテ湾頭に、自軍の約三倍に当たる、水上部隊が、待ち受けていたことも知っていた。

西村中将は、退かなかった。
栗田艦隊との約束は、取りやめになったわけではなく、今となっては、退くことが出来なかった。

24日夜半、スリガオ海峡南口に差し掛かると、まず、水道の両側の島陰に隠れていた、高速魚雷艇が、群がり、襲ってきた。
西村艦隊の隊形は、先頭が、満潮と、朝雲が、単縦陣で前衛となり、その後方4000
メートルに、山城、扶桑、最上が、各1000メートルの間隔で続行していた。

艦隊は、適切な回避運動と、集中砲火により、これら魚雷艇郡による、第一ラウンドの襲撃を退けることが出来た。

西村艦隊に味方したのは、魚雷艇が掻き回す夜光虫の、おびただしい光である。

途中経過は、省略する。

結果的に、最上は、落伍した扶桑を、追い越すと、山城の後方1000メートルについて続行した。
後落した、扶桑は、全艦火達磨になり、炎々と燃え上がった。

西村艦隊は、回頭しつつ、一斉に砲撃を開始したが、視界が悪いせいもあり、有効弾は、得られなかった。

反転避退する米艦は、煙幕を発しながら、応戦の反撃もせず、ひたすら北方に避退する。

一斉回頭して、しばらく経過すると、魚雷が回避しきれぬと思った瞬間、ほとんど同時に満潮と山雲に、魚雷が突き刺さった。
満潮は、航行不能になり、山雲は、爆発を起こし、大音響と共に、沈没した。

続いて、朝雲が、一番砲塔直下に魚雷を受け、艦首を切断されて、漂流状態となった。
これと、前後して、山城の左にも、魚雷一本が命中した。

西村艦隊は、山城、最上、時雨の三隻となった。
その後、レイテ島寄りに南下してきた、米駆逐艦五隻に、第二次攻撃にさらされた。

これ以下の、状況は、省略する。

志摩艦隊が、西村艦隊の後続部隊として、スリガオ海峡入り口に進出してきたのは、午前三時頃である。

当時、西村艦隊は、米駆逐艦の東側隊から、最初の魚雷攻撃を受けていた。
志摩艦隊は、丁度、このとき、激しいスコールに包まれて、視界が悪く、西村艦隊交戦の、光芒を認めることが、出来なかった。

ようやく、前方に、西村艦隊の戦闘の様子が見えてきた。
その中の一艦に、火災らしい、火の玉を見た。
その火の玉は、見る見る膨れ上がり、ほどなく、爆発したのか、海峡全体が、明るくなった。

だが、志摩艦隊は、結果的に、反転せざるを得なくなる。

米軍の攻撃から、逃れたのである。
一時は、全滅覚悟で、突入を決意したが・・・
幕僚の進言で、思い留まった。

志摩艦隊は、栗田艦隊宛に、
当隊攻撃終了、一応戦場離脱、後図を策す、
続けて、
第二戦隊全滅、最大破炎上
である。

その電報を受けた栗田艦隊は、全体の意味がつかめず、何隻かは、戦場を抜け出して、約束の合同地点に現れるだろうと解釈し、25日午前六時頃、スルアン灯台の北方80浬まで、進出した。

レイテに展開した、栗田艦隊、西村艦隊、志摩艦隊である。

その後、栗田艦隊は、サマル沖で、突然の米軍と、遭遇戦となる。

米護衛空母部隊は、栗田艦隊を視認した当初は、驚愕し、狼狽もした。だが、そのうちに、必死の反撃に出てきた。

艦載機が二機、三機と散発的ではあるが、ばらばらに隊形の乱れて各艦隊の上空に、飛来して、爆弾を投下し、機銃掃射を加えてきた。
更に、煙幕の中から、駆逐艦が突進して、魚雷攻撃を仕掛けてくる。

各艦隊は、米機を迎え撃ち、米艦に対する砲弾を行わなければならず、好調であるべきはずの、追激戦は、頓挫した形となった。

そのうちに、栗田艦隊の戦意を削ぐ出来事が、続いて起きた。

スコールの中に逃げ込んだ、米空母隊に対して、大和は、電探で探りつつ、無観測射撃を試み、前方のスコールは、敵が懸命に張り続ける煙幕と混じりあい、遮蔽幕を形成していた。

その幕の中に、巨弾が吸い込まれていくが、手応えが、得られない。

これ以上は、省略する。

結果、大和は、右に四本、左に二本の魚雷に挟まれた。
そして、米空母郡に接触する、望みがなくなったばかりでなく、戦況を正確に把握することが出来なくなったのである。

フィリピンのビサヤ諸島一帯を戦場とした様である。
私は、何度もビサヤ諸島の、セブ島、ネグロス島、パナイ島、レイテ島、ボホール島に出掛けている。

美しい海での、戦闘、激戦地である。

posted by 天山 at 06:11| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月04日

打倒・韓国70

ただいまの韓国を見ていると、反日もさながら、自国に対する思いも、おかしいのである。

ヘル韓国、地獄韓国という、言葉が言われる。
韓国人も、気づいているのである。
韓国が、おかしな国であることを。

しかし、反日は、益々と、強迫的になっている。

以前に紹介した、シンシアリー氏の言葉が、甦る。
赤ん坊から、野獣に落ちる、韓国人である。

反日が、野獣に落ちるとは・・・
自制が利かない。

そして、ついには、自分の首を自分で、絞めるのである。

これは、寄るべき国家観が無いのである。
民族主義を掲げるが・・・
実は、その民族には、誇るものが何も無い。
あると、教えられているのは、うそばかり。

私も、アジアの国々に出掛けて、韓国人を見るが・・・
国旗を振り振り、太鼓を叩き、何やら、壮大にやっているが。単なるこけおどしである。見ていて、気の毒になる。

その韓国の、最大の問題が、儒教にあると、朴氏が書き付ける。

韓国は、儒教という恐ろしい妖怪によって、呪われてしまった。韓国は今日でもまだ、儒教の醜い爪跡から流れ出ている血が乾いていない。


日本で教えられる、儒教は、全く違ったものだ。
日本の儒教は、日本流に解釈されたものである。
中国にも無い、儒教である。

ただし、私は、儒教を受け入れない。受け付けない。
平面的だからだ。
目に見えないものを、認めることが出来ない、儒教は、偏狭であり、劣っている。

儒教は、李朝五百年を通じて、韓国人の精神と韓国社会の制度を、とことんまで蝕んだ。儒教の大罪をあげれば、ほんとうに限りがない。儒教は、徹底したタテ割り社会のイデオロギーである。垂直な身分制度を全国に強制したために、上の者を尊大にする一方で、下にいる者を見る影もなくすっかり卑屈にして、韓国人の精神を大きく歪めた。


つまり、ただいまの韓国は、下の者の、意識一辺倒になってしまったようである。

それは、
儒教の最大の罪は、形式が過剰であるために、人々が外観を整えることに熱中するようになったことだった。これは今日の韓国人の服装にも現れている。・・・

と、いうことで・・・

見栄えである。
だから、整形も大いにする。

韓国の航空会社の広告を見て驚いた。
そこに写る、搭乗員たちの顔が、皆同じなのである。
つまり、整形・・・

形式だけを重視することが、服装だけではなくて、生活のすべての面に入り込んでいるのだ。


昔、何も知らない頃、私は、在日の人たちから、韓国のことを聞かされて、凄い国なんだと、思っていたが・・・

事実を知ると、愕然とする。

韓国は、死者によって支配された国というべきだ。儒教が過剰な先祖崇拝を強いたことによって、先祖に対する祭祀があまりにも過剰になり、韓国人は、外観だけを整えて、内容をおろそかにするようになってしまった。


形式的・・・
雁字搦めである。

そのうえ、一族の結びつきを強調するあまり、血のつながりを何よりも優先することによって、同族の強力なエゴをつくり出した。一族の外にある人は、同じ人ではない。このために中国と同じように、国家や社会全般に対する忠誠心が育つことができなかった。たとえ、国が滅びても、一族のほうが大切なのである。


これは、つまり、愛国心が育たないということである。
民族意識は、強烈に強いが・・・
あれは、何なのか・・・

外から見る韓国と、内面の韓国は違うのだということ。

韓国人は、勝ち負けを、とても意識するが・・・
それは、国際的な現場にあって、韓国人は、一応、同族意識になり、ルールを無視しても、勝つことを願うのだ。
だが、それが、終わると、今度は、韓国内で、様々な軋轢を生む。

気の毒である。

儒教は、この虚学に生涯、身を捧げた人を理想化した。この虚ろな学問を何にも増して重大事としたうえに、韓国では、朱子学が儒教を支配したために、他の学派を異端として徹底的に排除した。さらに古典を崇めることを強いたので、人々から新しい考え方や、ものの見方について、好奇心や自由な発想を封じ込めることによって、進歩という概念を圧殺してしまった。


以前も、朱子学のことについて触れたが・・・
他を異端として、排除するというのは、今も脈々と、生きている。

だから、日本が手助けしなければ、近代化などは、全く無理だった。
だが、それに一向に、気づかず、反日行動をして、日本を悪としている様である。

それほど、先祖崇敬が強いならば、韓国を近代化に導いた日本に対しても、崇敬してもいいのだが・・・
それと、これとは、別物らしい。

兎に角、救い難いという国柄である。

posted by 天山 at 06:48| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月05日

打倒・韓国71

韓国人の精神を作った、儒教の歪さを見ている。
韓国人の、朴氏が言うのである。

儒教秩序は「裸の大さま」の社会をつくった。聖人君主が愚者を治めるという、約束ごとのうえに成り立つ社会を想定した。儒教をどれだけ身につけているかによって、人の価値を計った。この階層的序列を社会の骨組みとしたために、学問のない者は、そのために蔑まされ、生涯下積みとなって、踏みつけられた。儒教の教養が人の価値を計る尺度となったので、学問のない者は、今日的にいえば、市民権を与えられなかった。


つまり、究極の差別である。
韓国には、人に対する、差別意識が、実に、激しい。
それは、今まで書いてきたように、様々な分野におけるものだ。

人に対する、優しさの無い国なのである。
勝ち負けに拘る意識が、よく理解できる。

唯一、反日の時だけは、一緒になるという・・・

儒教は「聖人も今までの決まりに従え」といって、旧習に身を委ねることを強いた。あるいは「君主危うきに近寄らず」と戒めることによって、人々の進取の気象を奪ってしまった。


停滞国家、停滞社会である。
つまり、先に進むことが出来ないのだ。

日本も、西欧からの、物真似をして、一時期、猿真似の国として評価されていた時期があるが、日本は、更に、その真似を進化させて、新しいモノ造りに励んだ。

韓国の企業は、日本の技術を取り入れて、成功した。
しかし、それ以上の、発見はしない。
発展もない。

そして、朴氏が書くことで、最大の停滞は、
儒教は労働を卑しんだ。中国では、貴族は汗をかくことを恥じた。そこで韓国でも、両班は労働をすることがまったくなかった。これも致命的なことだった。労働を卑しむ社会は、停滞するほかない。


比べて日本は、武士でさえ、労働した。
刀を置いて、農作業をしていたのである。

李朝末期に、韓国に滞在した、スウェーデンのジャーナリスト、アーソン・グレブストは、両班について、
人の目に労働と映ることなら、できるかぎりそれから遠ざかろうとする。自分の手で衣服を着てはいけないし、たばこの火も自分で点けてはならない。そばに手伝ってくれる者がない場合は別にして、馬の鞍に自力でのぼるべきではない
と、書いている。

また、イギリスのビショップ夫人も、その著書で、
両班はキセルですら、自分で持つことをせず、徹底して何もしないのが、ならわしであった。
と、記す。

また、朝鮮事情・朝鮮教会史序論では、両班に対して、
すべての両班に品階と官職を与えることは、現実的に不可能である。しかし、すべての者がそれを望み、幼少のころから官職への道に向かって科挙の準備をしている。ほとんどの者は、他に生活方法を知らない。彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。

彼らはいつも借金で首が回らず、何かちょっとした官職のひとつも回ってこないかと首を長くしており、それを得るためにはあらゆる卑劣な行為をつくし、それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。

まだまだあるが・・・

朴氏が書く。
韓国では、企業経営者が役員が日本のように現場で一般労働者のなかに入って働くようなことがないのは、肉体労働を卑しむならわしからきている。
と、言う。

これぞ、身分差別である。
今に至るまで、韓国は、そのようである。

日本にも、差別は、ある。
日本人も、差別する。
しかし、韓国のような、露骨なものではない。

李朝時代の両班による、精神的構造が、韓国には、今も生きているということだ。

日本における儒教については、省略するが、全く、韓国とは、異なったものである。

儒教は、おびただしい数にのぼる漢字によって成り立っている。その儒教が政治体制をつくっていたから、まさに漢字による圧政でしかなかった。大量の難解な漢字は、支配階級が一般の民衆を卑しむことによって、愚民政治を行うことを可能にした。自分たちの権威を守る防壁として、きわめて都合のよいものだった。民衆にとっては、漢文はそれこそチンプンカンプンであった。


日帝時代に、愚民化政策をとったと、嘘を言うが、自らが、自ら、愚民化を施したのである。

日本の政策は、以前書いたとおり、民衆に、ハングル、日本語の教育をしている。勿論、そのハングルも、日本が、復活させ、与えたものである。

文字も、奪ったと、嘘を言うが・・・
日本は、与えたのである。

今、誇りにしている、ハングルを、日本が、復活させなければ、ハングルは、日の目を見なかったと言っても、いいのである。


posted by 天山 at 06:11| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

打倒・韓国72

現在の韓国人は、ハングルを世界一の言葉だとしているが・・・

何度も言うが、それは、日本が復活させたものである。

ハングルは、日の目を見なかった。
自分たちの文字でありながら、それを蔑視していた。

ビショップ夫人は、韓国人が、ハングルを軽蔑していたことを、
朝鮮人は、自分に固有のハングル文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな民族である。政府の公文書はもちろん、普通の手紙にも、会話のあいだにも努めて中国文を模倣して使用し、国粋というべき語学上もっとも発達したハングルは婦人と子どもと、下級階級が使用するものと決め込んでいる。
と、書くのである。

李朝のもとの韓国では、漢文は「真書」と呼ばれた。本物の文字という意味だ。それに対してハングルは「諺文」と呼ばれた。諺という漢字は、俗に行われているとか、やさしい言葉を意味している。


結局、自分たちで、壊しておきながら、日本の手により、復活させて、現在に至るのである。
それでも、嘘を言う。
日本が、言葉を奪ったと。

そして、韓国社会は、民衆への、思いやりの無い社会と化した。
それが、今も続く。

言葉は、民族の魂といってよい。
言葉によって、精神が成り立つのである。

精神とは、言葉の世界のことである。
それを、朝鮮人は、漢字に明け渡して、堂々としていた。
呆れる。

さて、次に、朴氏は、
韓国は、墓によって支配された国だ。今日でも、韓国は世界のどの国よりも、墓にあてられている面積が大きい。これほど死者を大切にする国はあるまい。それに韓国の墓は、堂々として立派である。
とのこと。

私は、あるとき小型飛行機で低空を飛んだことがあるが、冬で草木が枯れていたので、上から見ると墓がまるで爆弾が落ちた穴のように、点々と国土を傷つけていた。私は墓の数が、あまりにも多いことに驚愕した。墓のために森林が、次々と蝕まれているのだ。


これは、25年ほど前の本である。
現在は、どういうことになっているのか・・・

そこで、それを分析してみせた、黄文雄氏の見解を紹介する。

朝鮮が「死者に支配される国」とまで言われるのは、やはりこの極端な先祖崇拝と風水信仰からきたものだろう。・・・


とにかく、何よりも先祖の墳墓を最優先する国なのだ。日帝時代の民事訴訟にも、墳墓をめぐる訴訟、いわゆる山訟がすこぶる多い。しかも訴訟に勝つまでは、生死をかけようと和解の可能性がなくなろうとかまわずに、一歩も譲らないのである。


勿論、それは、一族繁栄のための、実に、利己主義からくるのである。

死者に対する思いやり・・・だが、生きている者に対する、思いやりに欠けるという、尋常ではない精神構造。
そして、形式的・・・

死人のために、殺し合いも、厭わないという精神である。

これでは、手が付けられない。

だから、
朝鮮総督府が風水の問題で頭を抱えたのは、農地開拓よりも建物や道路、鉄道建設をめぐってのことだった。ことに鉄道建設用地の買収は困難を極めた。それは、朝鮮人の先祖崇拝と風水信仰とのはてしない闘いだったといえる。


近代化を推し進めた日本・・・
そのままでは、朝鮮は、今も、土人のような生活をしていたと、思われる。
つまり、無明の社会である。

私は、風水という考え方を、否定する者ではないが・・・
風水とは、国王などの、支配者が用いるものであり、庶民が、何事かを行っても、詮無いことだと、考えている。

そこから発した、家相なども、そうである。
一旦、それに囚われると、身動きが取れなくなる。
一種の信仰なのであるから、その人の、自己満足の程度になってしまう。

勿論、暗示効果を期待して、扱うのに、異存はないが。

韓国には、今でも、色々な、呪い師が多いという。
本国では駄目で、日本に来て、韓国人を相手に、呪い師をやる者も多いが。

何とも、未開の部族のような行為である。
何かしらの、強迫観念が、朝鮮人にはあるのだ。

一番は、死者に祟られる、である。

親が、子を祟るだろうかと、考えるが・・・
彼らは、祟ると、考えるようである。

posted by 天山 at 06:04| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月07日

打倒・韓国73

朝鮮と中国は先祖崇拝の国として知られている。両国で違うのは、中国人はそれほど宗教心を持っていないものの先祖と天の二大崇拝であるのに対し、朝鮮人は宗教心がより強く、天よりも先祖を絶対視することである。


先祖を絶対視することは、悪いことではない。
しかし、何事にも、限度というものがある。
それで、雁字搦めになってしまうと、先に進めない。

先祖を絶対視するということは、先祖、つまり死者たちによって国家が支配されている部分が多いとも言えるだろう。そのためか、私が朝鮮に最初に抱いたイメージは、白衣と死者が支配している国といったものであった。

これには、台湾の農業発展に大きな功績を残した新渡戸稲造の影響もあるかもしれない。新渡戸は朝鮮のことを「枯死国朝鮮」と言い、それは自然の枯死だけではなく民族まで枯死に瀕していると語っていた。


つまり、死んでいる国、朝鮮という意味である。
死んでいるとは、将来が無い。
未来に続く、何物も持たないということである。

そして、その通りだった。

日本総督府が、鉄道を作る時・・・

ソウル市内の墓地は、南向きの山腹から、山麓にかけて、多く見られる。
山頂にあるのは、高官の墓地ばかりである。
こうして、山に墓地が作られると、鉄道のトンネル敷設に、問題が生じる。

なぜなら、墓地の下を貫通するからで、忌み嫌われた。
後部を通ることは、支社の首を切断すると言われる。

また、前部を通れば、足を切断し、近くを通れば、死者の安眠を妨げるというのだ。

更に、その風水信仰である。
が、それらは、省略する。

つまり、未開の部族のような感覚である。
日本総督府は、大変な思いをしたと、思う。

もし、そのまま、言い分を聞いていたら、韓国には、近代化は、起こらなかったはずだ。

無知蒙昧というが・・・
当時の、朝鮮、韓国が、そのようだったこと。

韓国人の、朴氏も言うが・・・
今も、死者に左右される国なのである。

そして、また、それを尊いことであり、子孫にも、それを望むという。
私は、先祖崇拝を否定するのではない。
それは、実に大切なことである。

しかし、現実の世界を無視するほどの、先祖崇拝は、どこか、おかしいのである。

25年ほど前の、朴氏の書には、
現在、韓国で墓が占めている面積が八万~九万ヘクタールにのぼると推定されるが、これは釜山特別市の二倍の広さにあたる。そして、韓国は日本よりも、はるかに人口密度が高いというのに、毎年、墓のための土地が二百五十万坪あまりの勢いで増えているという。
と、ある。

それでは、今、現在は・・・

これは、端的に言って、韓国は、過去に縛られた国ということも、出来る。
決して、未来志向ではない。

未来に向かって進んでいると考えても、ただ、闇雲に、空回りしているだけである。
そのような、国柄ということだ。

実は、韓国には、未来の国家ビジョンというものが、無いのかもしれない。
ただ、今を、何となく、生きている。
そして、誇ることは、死者、先祖のことだけ・・・

そのせいか、韓国の個人負債は、過去最高を更新している。
民衆、国民は、借金まみれなのである。
更に、国自体も、膨大な借金を負う。

だから、韓国人の、売春婦が後を絶たず、アメリカ、オーストラリア、日本と、押し寄せている。
勿論、自国にも、大勢存在する。

それが、借金のためなのだ。

その借金は、決して、減ることが無い。
つまり、韓国人は、自国民から、金を搾り取っている民族なのだ。

金融は、どこの国にもあるが・・・
韓国は、異常なほどの、庶民向け金融がある。
闇の金融も、多々ある。

韓国民の負債が、国際問題にまで取り上げられることを、韓国人は、意識していない。

世界一の民族・・・
一体、何が、世界一なのか・・・

借金の額か、売春婦の多さか、ということだ。

posted by 天山 at 06:55| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月11日

打倒・韓国74

さて、韓国は、日本統治時代に、すべてを奪われたせいで、韓国の近代化が遅れたなどと、大嘘を言うが・・・

それでは、統治時代を過ぎて、70年経た今、韓国は、自力で、どのようになっているのか。
経済崩壊寸前である。

一時期、世界一の民族・・・などと、言っていたが・・・

日本統治時代の建物は、何もかも、残っているが、韓国になってから、建設された、道路、橋、建物などは、倒壊、あるいは、倒壊寸前である。

更に、国外のインフラ整備も、手抜きで、大半が、使い物にならない。あるいは、日本が手を出して、助けた。
色々なことは、省略するが・・・

これから、追い討ちをかけるように、また、紹介する。

日本による、統治時代以前の、朝鮮半島は、ソウルなどの一部の都市部を除いて、豪雨になると、洪水が平原に氾濫し、一夜にして、湖沼と、化した。
朝鮮半島の河川流水量は、日本の二倍もあるが、渇水期の流水量は、10分の一から、20分の一である。

そして、都市部以外は、工事もされていず、自然の状態のままだった。
水害のたびに、大きな被害を受けていた。

少しばかりの、灌漑目的の堤防、河川をせき止めるための、石や土で作られたもの。
李朝末期には、山河が次第に荒廃してきて、堤防らしいものは、堤防の遺跡と化し、何の役にも立たなくなった。
そのために、灌漑用水をめぐる紛争は、後をたたなかった。

何故、そのようだったのか・・・
李朝政府の財政が破綻していたからだ。

よって、産業は振るわず、文化は興らず、国運は、日ごとに、衰退する。
その上、洪水のたびに、田畑は荒らされ、収穫が出来ない。

農民は、草の根、木の根を掘って、飢えをしのいだ。

半島の山河が、崩壊したのは、地質学的なものより、人為的なもののほうが大きい。
盗伐、乱伐、冬季の薪の需要と、林政の不備、戦災等々。

更に、数百年にわたる、旱魃と洪水という、悪循環である。

それに加えて、火田民と言われる、焼き畑をする農民の存在である。
それは、李朝から増え続け、1928年には、120万人を超えると言われる。

火田民は、定住せず、山林を焼き払い、自給自足に近い生活を送る。彼らが入った山林は、焼き畑の被害を受けて、やがて、禿山と化し、豪雨になると、土石が流出するのだ。

兎に角、半島は、滅茶苦茶であった。

崩壊した山河を甦らせたのは、他でもない、日本の統治時代である。

朝鮮総督府初代総督であった、寺内正毅大将は、まず、治山をしなければ治水をしても、効果がないとし、地山治水に、最も力を入れた。

韓国では、それが、寺内を、植民地化の張本人として、評判が実に悪いのである。

彼がいなければ、どんなことになっていたか・・・
未だに、未開の地だっただろう。

実際に、治水調査が始まったのは、1915年大正4年からである。

具体的には、気象、水位、流量、改修築予定区域の実測調査である。
これは、14年間に渡って、実施されることとなった。

以前、韓国の山は、日本が禿山にしたという、韓国人の嘘をかいたが、更に、嘘を言う。
日本統治時代に、朝鮮の森林を伐採して、日本に持ち帰ったと。
上記を見れば、持ち帰るものなどなかったのである。

半島の林野面積は、約1588町万で、全土地面積の71パーセントを占めている。
そのうち、樹林の疎生地と、散生地を含めた成林地は、わずか、三分の一である。

更に、成林地のうちの67パーセントが、交通不便な場所などに、偏在して、木材が採れても、困難な輸送問題があり、利用価値の低い場所なのだ。

そのため、日本は、半島での木材不足を補うため、輸入せざるを得なかった。

1925年の一年間だけでも、550万円も、輸入していたのである。
こんな芸当は、日本だから、出来たのである。

それでも、建築資材、燃料は、不足していたという。

朝鮮総督府は、当初から、営林署を設立して、半島の荒廃した山野の復旧造林に着手した。
そして、森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病中害駆除、森林組合への補助、林業試験場の整備、地方官庁職員の増員など、実践的な政策を、次々と断行したのである。

1924年、大正13年には、国有林区の調査事業が、完了した。
その結果、李朝時代に軍事上の目的から設けられた、築山地域も含めると、国有林は、全土の60パーセントにものぼっていた。
総督府は、それを、暫時民有林にしていき、1939年には、国有林を全土の33パーセントまで、減少させたのである。

調査当時、国有林の比率が多かったのは、朝鮮では、山林の個人所有を認めていなかったからだ。山林は、「無主公山」として、放置され、そこに民衆が入り、木を切り、根まで掘り起こして、荒廃させていたのである。

そのため、総督府は、山林を縁故者に無償で譲る法令を出し、民有化させ、植林の生態保護に努めた。

これ以前に、日本は台湾で、山林の民有化を行い、生態保護に成功していた。その方法を、朝鮮にも、適用したのである。

そして、深刻な問題だった、禿山対策に、植林と、砂防工事を全国規模で実施した。

どうだろうか・・・
これが、日本がやったことである。

その評価すら、しない、出来ない、韓国人たち・・・
呆れる。

以前にも、書いたが、治水事業により、水田も、増加したのだ。
その事業も、朝鮮人労働者に、日当を支払い行った。
半島有史以来の、事実である。

朝鮮人にとっては、李朝からの、奴隷解放といえる事実。
日本が、行ったのである。

posted by 天山 at 06:33| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月12日

もののあわれについて801

大将殿は、この昼つかた、三条殿におはしける。今宵たち返りまで給はむに、事しもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし。など、ねんじ給ひて、いとなかなか、年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひかさねて嘆き給ふ。北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きい給へるに、知らぬやうにて、君だちもてあそび紛らはしつつ、わが昼の御座に臥し給へり。よひ過ぐる程にぞ、この御返りもて参れるを、かく例にもあらぬ鳥のあとのやうなれば、とみにも見とき給はで、御とぶら近う取り寄せて、見給ふ。




大将殿、夕霧は、この日の昼ごろ、三条殿に、いらっしゃった。
今晩、再び、小野へうかがっては、まるで何かあったようで、今のうちから、外聞が悪いだろうと、心を抑えて、なんと、かえって、これまでの焦りよりも、千倍にも恋しさを募らせて、嘆いていた。
北の方、雲居雁は、こうした出歩きの様子を耳にして、嫌なことと、聞いていらしたが、知らない振りで、若君たちをお世話して、気を紛らわせて、ご自分の昼の御座所で横になっていられる。
宵過ぎる頃、あのご返事を持って参ったが、こんなに、いつもと違い、鳥の足跡のような字なので、すぐには、判別できず、大殿油を近く引き寄せて、御覧になる。




女君、もの隔てたるやうなれど、いととく見つけ給うて、はひ寄りて、御うしろより取り給うつ。夕霧「あさましう、こはいかにし給ふぞ。あなけしからず。六条の東の上の御ふみなり。けさ、かぜおこりて悩ましげにし給へるを、院の御前に侍りて出でつる程、またもまうでずなりぬれば、いとほしさに、今のまいかにと聞えたりつるなり。見給へよ。懸想びたるふみのさまか。さてもなほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづり給ふこそうれたけれ。思はむ所をむげに恥ぢ給はぬよ」と、うちめきて、惜しみ顔にもひこじろひ給はねば、さすがに、ふとも見で、も給へり。




女君は、ものを隔てていたようだが、すばやく見つけて、這いより、後から、手紙を取り上げた。夕霧は、酷いことを。これは、何と言うことをされるのか。全く、けしからん。六条の東の上の、お手紙だ。今朝、風邪が酷くて、苦しそうにされていたが、院の御前に伺いして下がった時、重ねて伺わないままになってしまったので、お気の毒で、ただいまは、いかがですかと、申し上げたのだ。御覧なさい。色恋めいた手紙の様子ですか。それにしても、品の無いやり方です。年月の経つと共に、酷く馬鹿にされるのが、心外だ。私が、どう思うかなど、全然、気にしないのですね。と、嘆息して、惜しそうに、取返そうともしないので、取りになったが、すぐには見ずに、もっていらっしゃる。




雲居雁「とし月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」とばかり、かくうるはしだち給へるに憚りて、若やかにをかしきさまして宣へば、うち笑ひて、夕霧「そはともかくもあらむ。世の常の事なり。またあらじかし。よろしうなりぬる男の、かくまがふかたなく、一つ所を守らへて、ものおぢしたる鳥のせうやうの物のやうなるは。いかに人笑ふらむ。さるかたくなしき者に守られ給ふは、御ためにもたけからずや。あまたが中に、なほ、きはまさりことなるけぢめ見えためこそ、よそのおぼえも心にくく、わがここちもなほふりがたく、をかしき事もあはれなる筋も絶えざらめ。かく翁のにがし守りけむやうに、おれまどひたれば、いとぞ口をしき。いづこのはえかあらむ」と、さすがに、このふみのけしきなくをこづり取らむの心にて、あざむき申し給へば、いとにほひやかにうち笑ひて、雲居雁「物のはえばえしさ作りいで給ふ程、ふりぬる人苦しや。いと今めかしくなりかはれる御けしきのすさまじさも、見ならはずになりける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはし給はで」と、かこち給ふも憎くもあらず。




雲居雁は、年月につれて、馬鹿にするというのは、あなたの癖です。とだけ、こう平然としていられるのに、気後れして、若々しく、可愛い態度でおっしゃるので、笑い出し、夕霧は、それは、そうかもしれない。世間にざらの事だ。しかし、二人といないだろう。そこそこの、地位になった男で、気を散らすこともなく、一所を守り続けて、びくびくしている雄鷹のような者は。どんなに人が、笑っているだろう。こんな堅苦しい者に、付きまとわれているのは、あなたのためにも、ぱっとしない。たくさんの女の中で、矢張り、際立って格別の扱いに見えるのこそ、他人の見た目も、ゆかしく、自分の気持ちも、矢張り新鮮で、興をそそることも、あはれな思いも、絶えないだろう。こう翁が、何かを守っていた話のように、ぼけてしまって、とても、残念だ。なんの見栄えがするものか。と、それでも、この手紙を、さりげなく騙し取ろうと思って、申しなさると、とても華やかに笑い、雲居雁は、見栄えのあることをなさろうとするから、年とった女は、辛いものです。すっかり若返って、いられるご様子が、面白くないのも、これまで、経験したことの無いことなので、とても辛いのです。前から慣れさせる事もされないで。と、不満をおっしゃる様子も、憎くはない。




夕霧「にはかにと思すばかりには、何事か見ゆらむ。いとうたてある御心のくまかな。よからず物聞え知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、かの緑の袖のなごり、あなづらはしきにことつけて、もてなし奉らむと思ふやうあるにや、いろいろ聞きにくき事どもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」など宣へど、つひにあるべき事とおぼせば、ことにあらがはず。




夕霧は、にわかにと、お考えになるほどの、どんな、そぶりが、見えるのか。とても困ったお心の隔てだ。けしからぬ、告げ口する人が、あるらしいな。変に、昔から、私に気を許さなかったからか。矢張り、あの緑の袖の名残で、軽蔑しやすいのを、いいことにして、炊きつけようというつもりがあるのか。何かと、聞きにくい事を、ほのめかしているらしい。言われる訳のない、宮の御ためにも、お気の毒だ。などと、おっしゃるが、結局は、そうなることと、お考えなので、特に、言い争いは、しない。


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2016年04月13日

もののあわれについて802

大輔の乳母、いと苦しと聞きて、物も聞えず。とかく言ひしろひて、この御ふみは引き隠し給ひつれば、せめてもあさり取らで、つれなくおほとのごもりぬれば、駒走りて、「いかで取りてしがな」と、「御息所の御ふみなめり。何事ありつらむ」と目も合はず、思ひ臥し給へり。女君の寝給へるに、よべの御座の下など、さりげなくさぐり給へど、なし。隠し給へらむ程もなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起き給はず。女君は君だちにおどろかされて、いざり出で給ふにぞ、われも今起き給ふやうにて、よろづにうかがひ給へど、え見つけ給はず。女は、かく求めむとも思ひ給へらぬをぞ、「げに懸想なき御ふみなりけり」と心にも入れねば、君だちのあわて遊びあひて、雛つくりひろひすえて遊び給ふ、ふみ読み手習ひなど、さまざまにいとあわただし。小さきちご這ひかかり引きしろへば、取りしふみの事も思ひいで給はず。男はこと事も覚え給はず、かしこにとく聞えむと思すに、よべの御ふみのさまも、え確かに見ずなりにしかば、見ぬさまならむも、散らしてけるとおしはかり給ふべし、など思ひ乱れ給ふ。




大輔の乳母は、辛いことと、聞いていて、何も申し上げることはない。あれこれと言って、このお手紙は、隠して、おしまいになったので、強いて、探し出さず、何食わぬ顔で、お休みになったので、気が気ではなく、何とか、取り返したいと思い、御息所のお手紙らしい。何事かあったのかと、目も合わず、考え考えて、横になっていらっしゃる。
女君が寝られたので、昨夜の御座の下などを、何気ない振りで、お探しになったが、ない。お隠しになるような暇もなく、とても気になって、夜は明けたが、すぐには、起き上がらない。女君は、お子たちに起こされて、にじり出たところに、自分も、今起きたような振りをして、何かと探りになるが、見つけることが出来ない。
女は、このように捜そうと思っていないので、本当に色恋ではない手紙だったのだと、気にもとめないで、お子たちが騒いで、遊びあい、雛を作り手にとって座らせて、遊ばれる。本を読んだり、手習いしたりなど、あれこれと、慌しい。
小さな子が、這い回り、着物を引っ張るので、取った手紙のことも、思い出さない。
男は、夕霧は、他の事は、心に入らず、あちらに早く、手紙を差し上げようと考えるのだが、昨夜のお手紙の内容も、はっきりと、見ることが出来ないままになってしまい、見ていない風の返事をしたりしても、無くしたのだと、思われるだろう、など、思い乱れるのである。




誰も誰も御台まいりなどして、のどかになりぬる昼つかた、思ひわづらひて、夕霧「よべの御ふみは何事かありし。あやしう見せ給はで。けふもとぶらひ聞ゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、ふみをこそは奉らめ。何事かありけむ」と宣ふが、いとさりげなければ、ふみはをこがましう取りてけり、とすさまじうて、その事をばかけ給はず、雲居雁「一夜のみ山風にあやまり給へるなやましさななりと、をかしきやうにかこち聞え給へかし」と聞え給ふ。夕霧「いで、このひが事な常に宣ひそ。なんのをかしきやうかある。世人になづらへ給ふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつは、あやしきまめざまをかく宣ふと、ほほえむらむものを」と、たはぶれごとに言ひなして、夕霧「そのふみよ。いづら」と宣へど、とみにも引き出で給はぬ程に、なほ物語など聞えて、しばし臥し給へる程に、暮れにけり。




どなたも、食事を召し上がったりして、一息ついた、昼頃、困りきって、夕霧は、昨夜のお手紙は、何が書いてあったのだ。けしからんことに、お見せにならない。今日も、お見舞い申さなければならない。気分が悪くて、六条にも参上できないから、手紙だけは、差し上げよう。何事が書いてあったのか。と、おっしゃるが、とても、何気ない様子で、手紙は、愚かなことに、取ってしまったと、味気なくなり、そのことには触れず、雲居雁は、先夜の、深山風に、調子を悪くなさっての、病気なんですと、風流な書きぶりで、言い訳申し上げなさいませ。と、申し上げる。
夕霧は、いや、そんなことはよくない、冗談は、あまりおっしゃるな。なんの風流なところがあるものか。世間の人と一緒になさるのは、かえって、はた迷惑です。この女房たちも、内心では、不思議なほどの、堅物ぶりを、こんなにおっしゃると、笑っているだろう。と、冗談にしてしまい、夕霧は、あの手紙は、どこなのだ、と、おっしゃるが、すぐにも、取り出さないままに、またお話などして、しばらく、臥しているうちに、日が暮れてしまった。




ひぐらしの声におどろきて、「山の陰いかに霧ぬたがりぬらむ。あさましや。けふこの御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、ながめおはする、おましの奥の、少しあがりたる所を、こころみに引き上げ給へれば、「これにさしはさみ給へるなりけり」と、うれしうもをこがましうも覚ゆるに、うちえみて見給ふに、かう心苦しき事なむありける。駒つぶれて、「一夜の事を、心ありて聞き給うける」と思すに、いとほしう心苦し。




ひぐらしの声に、目が覚めて、小野山の麓では、どんなに霧がかかって、駒もいっぱいなことだろう。しまったことをした。今日、あの御返事だけでも、と、気の毒でたまらず、ただ、素知らぬ振りで、硯をすって、手紙をどうした事にして、取り繕うかと、考え、考え、視線を向けていらした、その御座所の奥の、少し高くなっている所を、ためしに、引き上げたところ、ここにさしはさんでいらしたのだと、嬉しくも、馬鹿らしくも思えて、にっこりして、御覧になると、ああいう、気がかりなことが書いてあるのだった。
ぎょっとして、先夜の出来事を、そういう風に、お聞きになったのだと、考えると、いたわしく、お気の毒である。




「よべだに、いかに思ひ明かし給うけむ。けふも今までふみをだに」と、いはむかたなく覚ゆ。いと苦しげに、言ふかひなく書き紛らはし給へるさまにて、おぼろげに思ひ余りてやはかく書き給うつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ、と、いふべきかたのなければ、女君ぞいとつらう心憂き。「すずろにかくあだへ隠して。いでや。わがならはしぞや」とさまざまに、身もつらく、すべて泣きぬべきここちし給ふ。




昨夜でさえ、どれほど心配して、明かされたであろう。今日も、今まで、手紙さえ上げずにと、言いようも無い気がする。とても、苦しそうな、話にもならない、書きぶりをされた様子も、一通りの心配ぐらいで、こんなに、お書きになるものか。返事もなしに、昨夜は、明けたのだと、言いようも無い気がして、女君が、とても辛く、恨めしい。わけもなく、こんなふざけて、隠して。いやいや、自分が、このように躾けたのだ。と、あれこれ、わが身も、情けなく、泣きたい気がするのである。




やがて出で立ち給はむとするを、「心やすく対面もあらざらむものから、人もかく宣ふ。いかならむ。かん日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許し給はばあしからむ。なほよからぬ事をこそ」と、うるはしき心に思して、まづこの御返りを聞え給ふ。夕霧「いとめずらしき御ふみを、かたがた嬉しう見給ふるに、この御とがめをなむ、いかに聞し召したる事にか。

秋の野の 草のしげみは 分けしかど 仮寝の枕 むすびやはせし

あきらめ聞えさするもあやなけれど、よべの罪はひたや籠りにや」とあり。宮にはいと多く聞え給て、御厩に、足とき御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞ奉れ給ふ。夕霧「よべより六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつる、と言へ」とて、言ふべきやうささめき教へ給ふ。




そのまま、出かけようとするが、簡単に、宮様に会うことも出来ないだろう。けれど、御息所も、こうおっしゃる。どうしたものだろうか。かん日でもあり、もし、万一宮様を、御許し下さるなら、日が悪いだろう。矢張り、縁起の良いようにと、真面目な性格だから、まず、この御返事を、差し上げになる。

夕霧は、とても、珍しいお手紙は、何かと嬉しく拝見しましたが、このお叱りは、どのように聞き遊ばすのかと、思います。

秋の野原の、草の茂みを分けて、そちらに伺いましたが、仮初の夜の枕に、草を結んだりいたしましょうか。

弁解申し上げるのも、変ですが、昨夜の罪は、お伺いせずにいたということでしょう。と、ある。
宮へは、こまごまと、申し上げて、お馬屋にある、足の速い馬に、移し鞍を置いて、先夜の、大夫を差し向け、申し上げる。
夕霧は、昨夜から、六条の院に候していて、ただいま、やっと退出しました、と言えと、言って、言うべき事柄を、ひそひそと、教えられる。


posted by 天山 at 06:18| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月14日

もののあわれについて803

かしこには、よべもつれなく見え給ひし御けしきを忍びあへで、のちの聞えをもつつみあへず、恨み聞え給うしを、その御返りだに見えず、けふの暮れはてぬるを、いかばかりの御心にかは、と、もて離れて、あさましう、心もくだけて、よろしかりつる御ここち、またいといたう悩み給ふ。なかなか、正身の御心の内は、このふしを、ことに憂しとも思しおどろくべき事しなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりし有様を見えし事ばかりこそくちをしけれど、いとしも思ししまぬを、かくいみじう思いたるを、あさましう恥づかしう、あきらめ聞え給ふかたなくて、例よりも物恥ぢし給へるけしき見え給ふを、いと心苦しう、「物をのみ思ほし添ふべかりける」と見奉るも、胸つとふたがりて悲しければ、




あちらでは、宮の親子では、昨夜も、薄情なと、見えた大将のご様子に、堪えきれず、のちのちの外聞をも、はばかりきれず、お恨みの手紙を差し上げたのに、そのお返事さえ来ないで、今日も暮れてしまったのを、どの程度の、お気持ちなのかと、呆れ果てて、驚くほかなく、精根も尽きて、少しましだったご気分が、改めて、酷く苦しみになる。
かえって、ご本人の、お心の内は、この事を、特に辛いとも、心騒がせることもなく、ただ、思わぬ人に、くつろいでいたところを見られた、ということが、残念だと、それほどにも、心にかけていらっしゃらない。
御息所が、こんなに酷く、気にされるのを、思いがけず、恥ずかしいと、言い訳を申し上げようとも言葉なく、いつもより、恥らっている様子が、見えるので、御息所は、お気の毒に思い、ご心配ばかりが重なること、とお顔を見ていると、胸がつまり、悲しいので・・・




御息所「今さらにむつかしき事をば聞えじ、と思へど、なほ御すくせとは言ひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひ給ふべき事を、取り返すべき事にはあらねど、今よりはなほ、さる心し給へ。数ならぬ身ながらも、よろづにはぐくみ聞えつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまの有様をも、思したどりぬべき程に見奉りおきつることと、そなたざまは後安くこそ見奉りつれ、なほいとはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れ侍るに、今しばしの命とどめまほしうなむ。




御息所は、今更、新しく、嫌な事は、申し上げまいと、思いますが、矢張り、御運命とは、いいながら、案外に、考えが甘くて、人の非難を受けることになって。今更、元に戻せることは、出来ないが、今から、矢張り、そのような用心をなさいませ。人並みでもない、この身ながらも、できる限り、お育て申してきましたのに。今では、何事もお分かりで、世の中の、あれこれの事情も、見当がつくくらいになって、くださることと、そういうほうは、安心だと、存じておりましたのに、矢張り、本当に幼くて、しっかりしたお心構えのなかったこと、やきもきしまして、後は少し命を延ばしたい気がします。




ただ人だに、少しよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろげにて、人の近づき聞ゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見奉り悩みしかど、さるべき御すくせにこそは、院よりはじめ奉りて思しなびき、この父おとどにも許い給ふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心を立ててもいかがは、と思ひ寄り侍りし事なれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御あやまちならぬに、大空をかこちて見奉り過ぐすを、いとかう人の為わが為の、よろづに聞きにくかりぬべき事の出でき添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづから、ありへむにつけても、慰む事もや、と思ひなし侍るを、こよなう情けなき人の御心にも侍りけるかな」と、つぶつぶと泣き給ふ。




平人でさえ、少しましな身分の女になると、男二人にまで会うことは、感心しない、軽々しい事ですのに、それどころか、こうした御身分では、あのようなことくらいで、誰が、お近づき申すべきではないのに、思いもかけない、面白くも無い、御結婚と、あれ以来、心を痛めておりました。御運命だったのですね。院をはじめとして、皆様、ご賛成になり、あの人の、父大臣にも、縁組を御許しなさろうとの、ご内意があったのに、自分ひとりだけが、我を張るのも、どうかと思い、従いましたことですから、後々までも、恥ずかしい有様を、ご自分の過ちではないので、大空を恨んで、お守りして参りましたが、本当に、こうして、人のためにも、わが為にも、何に付けても、聞き苦しいような事が、この上にも、出てくるのでしょうが、そうなっても、よそでの評判は、知らない振りをして、世間並みのされ方をしていれば、いつしか、日が過ぎてゆくうちに、心の安まることもありましょうという、気持ちになりましたが、この上なく、思いやりのない、あちらのお心でございます。と、ほろほろと、泣くのである。

夕霧に対する誤解から、このような状況に陥る、宮の親子である。
当時の、高い身分の人たちの、様子である。




いとわりなくおしこめて宣ふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣き給へるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、御息所「あはれ、何事かは人に劣り給へる。いかなる御すくせにて、安からず、物を深く思すべきちぎり深かりけむ」など宣ふままに、いみじう苦しうし給ふ。物の怪なども、かかる弱めに所うるものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入り給ふ。律師も騒ぎたち給うて、願など立て、ののしり給ふ。深きちかひにて、今は命を限りける山籠りを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむ事の、面目なく、仏もつらくおぼえ給ふべき事を、心を起こして祈り申し給ふ。宮の泣きまどひ給ふ事、いとことわりなりかし。




とても辛く、何も言えず、おっしゃることに反対して、弁明する言葉もなくて、ただ泣いている様子は、おっとりしていて、気品がある。それを見つめて、御息所は、あはれ、どこが、人に劣っていらっしゃるのか。どういう、御運命で、心も休まらず、物思いされなければならない因縁が、強いのか。などと、おっしゃるうちに、酷く苦しみになる。物の怪なども、こういう、弱り目に威勢を増すものだから、急に気を失って、ただ、もうずんずん、冷たくなる。
律師も、慌てふためき、願などをかけ、大声でお祈りする。深い願で、今では、命の限りと考えていた山籠りを、こうまで、なみなみの思いでなく、出てきて、壇を壊して、甲斐なく、山へ引き返して入ることが、面目なく、仏も残念に思われることだと、心を込めて、お祈り申し上げる。
宮様の、泣き惑いされることは、全く、無理の無いこと。


posted by 天山 at 06:40| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

もののあわれについて804

かく騒ぐ程に、大将殿より御ふみ取り入れたる、ほのかに聞き給ひて、「今宵もおはすまじきなめり」とうち聞き給ふ。「心憂く世のためしにも引かれ給ふべきなめり。何にわれさへさる言の葉を残しけむ」とさまざま思しいづるに、やがて絶え入り給ひぬ。




こうして、騒いでいる時に、大将殿からの、お手紙を受け取ったと、御息所は、かすかにお耳にされて、今晩も、いらっしゃらないらしい、と、お聞きになる。
情けなくも、世間の話の種に、引かれることになろう。なんのつもりで、自分まで、あんな文句を書き残したのか、と、あれこれ思い出されると、そのまま、息が絶えておしまいになった。




あへなく、いみじと言へばおろかなり。昔より、物の怪には時々わづらひ給ふ、限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持まいり騒げど、今はのさましるかりむり。




あっけなく、酷いといっても、言い足りない。昔から、物の怪には、時々煩いになり、最後と見えた時も、何度かあったので、いつものように、物の怪が取り込んだらしいと、加持をして、大声で祈るが、臨終の様子は、明らかだった。




宮は、おくれじと思し入りて、つと添ひ臥し給へり。人々参りて、「今は言ふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、返りおはすべき事にもあらず。したひ聞え給ふとも、いかでか御心にはかなふべき」と、さらなることわりを聞えて、人々「いとゆゆしう。なき御為にも罪深きわざなり。今は去らせ給へ」と、引き動かい奉れど、すくみたるやうにて、ものもおぼえ給はず。修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、かたへこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。




宮様は、生き残るまいと、思いつめて、じっと、すがりついて、いらした。
女房たちが、傍に参り、もう、しかたありません。こんなにまで、お悲しみになっても、死出の旅路は、帰ってくるわけではありません。お慕い申しても、どうして、お気持ち通りになりましょう。と、当然の道理を申し上げる。また、女房は、本当に不吉で。亡くなった御方のためにも、罪業の深いことです。もう、お離れください。と、引き動かすが、こわばったように、何も、お分かりにならない。
修法の壇を壊して、僧たちが、ばらばらと出てゆくうち、しかるべき者ばかり、一部留まっているが、今は、すべて終わった様子で、実に悲しく、心細い。




所々の御とぶらひ、いつのまにかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚き給うて、まづ聞え給へり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞え給ふ。山のみかども聞こし召して、いとあはれに御ふみ書い給へり。宮は、この御せうそこにぞ、御ぐしもたげ給ふ。朱雀院「日ごろ重く悩み給ふと聞きわたりつれど、例もあつしうのみ聞き侍りつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなき事をばさるものにして、思ひ嘆い給ふらむ有様おしはかるなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰め給へ」とあり。目も見え給はねど、御返り聞え給ふ。




方々のお悔やみは、いつの間に知れたのかと、思われる。大将殿も、この上なく、聞き驚きになり、とりあえず、お悔やみ申し上げた。六条の院からも、致仕の大殿からも、皆々、次々に、お悔やみ申し上げる。
山の帝も、お聞きあそばして、心を込めて、お手紙を、お書きになった。宮様も、この便りには、お顔を上げられる。
朱雀院は、長らく重く煩っていられると、聞いていたが、いつも病気がちだとばかり聞いていましたので、うっかりして、言ってもかいのない事は、別にして、悲しみ嘆いていられる様子を想像すると、不憫で、心が痛む。すべての人の定めと思い、気を楽になさい、とある。涙で目も見えないが、お返事を申し上げる。




常に、さこそあらめと宣ひける事とて、今日やがてをさめ奉るるとて、御おひの、大和の守にてありけるぞ、よろづにあつかひ聞えける。からだをだにしばし見奉らむとて、宮は惜しみ聞え給ひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆急ぎたちて、ゆゆしげなる程にぞ大将おはしたる。




常に、そうしてと、おっしゃっていたことなので、今日、すぐに葬り申し上げるというので、御甥の、大和の守である者が、すべて事を、お運びになるのだった。亡骸だけでも、しばらく拝んでいたいと、宮は、惜しまれたが、そうしても、何にもなるわけではないので、一同、準備にかかって、大変なところに、大将が、いらした。




「今日よりのち、日ついで悪しかりけり」など人聞きには宣ひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむ事をおしはかり聞え給うて、「かくしも急ぎ渡り給ふべき事ならず」と人々いさめ聞ゆれど、強ひておはしましぬ。




今日から後は、日が悪いのだ、などと、人前ではおっしゃり、何とも悲しく、哀れに、宮が嘆いているだろうと、ご推察申し上げて、そんなに急いで、いらっしゃるべきことでは、ありませんと、人々が引き止めるが、押し切って、お出であそばした。

これは、夕霧の心境である。


posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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