ここで、一度、戦争の経緯に戻ることにする。
後に、再度、特攻隊員の、遺書、遺文を見る。
その前に、戦前の日本が、軍国主義であるという、言い方について、言う。
私が、認識するのは、戦前の日本は、軍国主義とは、言えないということである。
簡単に言う。
軍国主義とは、アメリカなどに言える言葉である。
あの、時代を俯瞰すれば、世界の大半が、欧米列強の植民地であった。
その中で、唯一といっていいのが、日本である。
裏では、イギリスの植民地化にされそうだったが・・・
タイ、エジプトも、辛うじて、植民地ではなかったが。
日露戦争後に、日本は、その列強と同じ位置になった。
そういう意味では、アジアで唯一、独立国だった。
そんな中で、列強国は、日本に脅威を与えていた。
中でも、アメリカは、友好国と信じていたが・・・
明らかに、日本に対して、戦闘意識があった。
そして、ロシアの脅威である。
そのために、朝鮮半島は、守るべき場所だった。
日本の防衛のためにも、である。
当然、必然的に、軍国化してゆくのである。
必要に迫られたものだ。
それを、軍国主義とは、言わないだろう。
防衛準備主義と、私は言う。
何もかにも、抑えられた故に、日本は、南に活路を見出さなければならなかった。
それを、侵略と言う人たちが、いるが、違う。
自衛のために、行くしかないのである。
そして、結果的に、日本が敗戦したが、すべての植民地が、結果、独立したのである。
これは、画期的なことだ。
歴史はじまって以来の出来事である。
白人支配からの、開放を成したのである。
そして、何より、日本の戦争により、人種差別撤廃がなされた意義は、大きい。評価しても、し切れない程の事である。
さて、昭和19年七月に戻る。
第一遊撃部隊と名を変えた、第二艦隊は、また栗田艦隊とも言うが、スマトラ島の東南部の、リンガ泊地で、次期作戦に備えて、猛訓練に、明け暮れていた。
これは、戦艦武蔵が、フィリピンのシブヤン海に、消える話である。
昨年、その武蔵の海底の様子を、米国人が撮影した写真が、話題になった。
確かに、それは、戦艦武蔵だった、ということだ。
栗田艦隊が、リンガに到着した、翌々日の、7月21日、大本営から、「捷」号作戦の、指示が送られてきた。
それから、20日たった、8月10日、マニラにおいて、「捷」号作戦に関する、作戦打ち合わせが行われた。
実際、作戦の内容は、実に具体性に欠けていたのである。
そこで示された、連合艦隊の戦術は、小柳参謀長にとって、極めて意外なものだった。
栗田艦隊の行動に関して、神参謀は、以下のように説明した。
敵来攻の公算は、フィリピン方面がもっとも強いということは、衆目の見るところである。その上陸地点については、北部ではラモン湾付近、中部ではレイテ湾、南部ではダバオ付近と予想される。以上いずれの場合でも、敵侵攻のキザシを認めたら、基地航空部隊の襲撃によって敵の空母を漸減しつつ、敵輸送船が上陸地点に接近したところで、全力をあげ一挙的輸送船団を殲滅したい。したがって、栗田艦隊は状況を見て、あらかじめボルネオ・ブルネイ湾に進出待機していて、命令あり次第発進して敵輸送船団を洋上に捕捉、これを撃滅する。もし手遅れとなって、敵がすでに上陸を開始していたような場合には、その港湾に強行突入してこれを殲滅し、敵の進攻意図を撃破する。
以上である。
だが、小柳参謀長が、拘ったのは、大艦隊を挙げて、輸送船を攻撃せよという作戦目的であった。ゆえに、小柳は、
この作戦計画だと、敵主力の撃滅を放棄してしまって、敵輸送船を攻撃の主目標とするものである。作戦自体の目的がどのようなものであるにせよ、われわれ第二艦隊としては、あくまでも敵主力との決戦をもってその第一義の任務となすべきであると心得ている。一体、連合艦隊司令部は、この作戦で水上部隊をことごとく潰してしまっても、かまわないという考えなのか・・・
それに対し、神参謀は、
フィリピンを奪われてしまえば、本土と南方資源地帯とのルートは遮断され、日本は立ち枯れとなってついには戦争遂行能力も涸渇するであろう。そうなっては、艦隊を保持していても宝の持ち腐れである。この際、どうあってもフィリピンを手放すわけにはいかない。したがって、この一戦に艦隊をスリ潰してしまってもあえて悔いはない・・・
まさに、戦争全体の、帰趨は、すでに決しているわけである。
連合艦隊長官は、あえて、この一戦に全艦艇を葬り去ろうと意図しているのである。
これは、もう、連合艦隊と、栗田艦隊とは、微妙な意思の疎通を欠いたままで、作戦実行に移すということである。
矢張り、翌日、この作戦を、各戦隊司令官、幕僚、艦長、司令などの主要幹部は、容易に納得しなかった。
彼らには、開戦以来、敗れたのは、空母部隊であり、水上部隊は、本格的な艦隊決戦をやったことがないという、意識がある。いつか、決着をつけるために、日夜、訓練に励んできたのだ。
だが、大艦隊を挙げて、港湾に突入し、輸送船団を叩くという戦例は過去になく、参考にすべき何物もなく、作戦に立案にすべき資料もない。
非常な苦心を要した。が、各戦隊共に、一致協力して、事に当たった。
ここから、悲劇の、レイテ戦が始まる。