2016年03月28日

玉砕111

陸軍特攻隊扶揺隊の一員、小川真一は、23歳で、沖縄・渡嘉敷島海域で、昭和20年3月29日に、特攻死する。
その一月ほど前、岡山の自宅に、日の丸の鉢巻姿の写真と、遺髪を送っている。
そして、3月13日、特別休暇を与えられて、帰省し、一泊して帰隊したが、自宅を出る時、姉、千恵子に、
「あまりにもオンボロの飛行機で、途中不時着するかもしれない。たとえ成果が上がらなくても、国のためにこの命を捧げる気持ちは、同じだから、嘆くことのないように」
と、告げている。

この小川を含めた、振武隊が、知覧基地から出撃する、初めての、陸軍特攻隊であった。

小川は、父宛に遺書を残している。

絶筆
本日攻撃命令下る
動中静あり 笑って滅敵に
基地を蹴ります
何も 申し残す事なし 三月二十八日・二十九日
之れ命日となりましょう
御両親姉上の御多幸を祈ります

気持益々冷静 平常心でやれそうです
家門の名誉この上なし
最後に扶揺隊の歌をやりながら
全機 元気出発します
                 さようなら

この、気持ち、益々、冷静・・・
見事な、心持である。

目の前の死に対して、平常心を持つという。
自らの死が、名誉であると、得心する心に、深く哀悼の意を。

これを受け取った、父親の心境は、思うことも出来ない。
小川の父は、何も語らなかったという。
語る言葉がないのである。

本人も、その家族も、その時代の不可抗力に生きた。

人生は、何とでも出来るとは、現代に言える。
いや、私は、人生は、いつの時代も、不可抗力を生きると言う。

思うに任せない事ばかりである。
勿論、中には、思うように、生きる人もいるだろう。
だが、それは、限られている。

戦争時の不可抗力は、悲惨である。
悲劇である。

だが、それを大義として、生きた人たち、若者たちがいる。
それが、救いである。

同じく、22歳で、沖縄・慶良間列島沖にて、特攻死した、倉沢和孝の父、安市は、心境を述べている。

倉沢は、昭和20年1月19日、形見のつもりで、髪を切り、安市に送った。
台湾の特攻基地に進出が決まると、父宛に、
向こうへ行ったら、便りも思うように出来なくなると思いますが、便りがなければ、元気でやっていると思ってください。
と、手紙に書く。

3月29日のことである。
そして、その一週間後、倉沢に出撃命令が出た。
その出撃直前に遺書を書いた。

我 今 壮途につかんとす
生還を期せず
今までの不孝お許し下され度
尽忠の大義に生く
では御両親様始め
弟達の壮健を祈ります
            出発前一筆 和孝
                   
家族が、この遺書を受け取ったのは、三ヶ月あまり後の、7月13日であった。

父、安市の衝撃は大きかった。
今までの不孝御許し下され度
という箇所に目を止め
「何たる事だ、何が今まで不孝なことがあったか?何もないではないか」
と言い、号涙したという。

特攻隊員にまつわる話は、多々ある。
私は、それらを省略しつつ、紹介している。

勝ち負けに関わりなく、戦争は、悲劇である。
しかし、その戦争の中に身を投じて、生きた若者たちが存在していたということが、大切な事実である。

祖国のために、命を燃やした若者たちが存在した。

それを、忘れては、日本人が、廃る。
それ以後、日本は、70年間、平和であり、戦争をしていない。
それは、彼らの犠牲の上にあると、私は、思う。

時代の不可抗力は、いつ訪れるのか、分からない。
もう、未来永劫、戦争はないとは、言えないのである。

防衛のために、戦いが必要なこともあるだろう。
その時、どう、その不可抗力を生きるのか・・・

特攻隊の精神を、見習いたい。




posted by 天山 at 06:44| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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