2016年03月04日

玉砕110

特攻隊員の、遺書、遺文、日記を紹介しているが・・・
実際、時間がかかっている。

それは、読み込むうちに、涙が出るからだ。
何の事はない、文であるが・・・
だからこそ、感慨深い。

死を目の前にして、書く行為は、末期の眼がある。

更に、驚くべきは、その若さ。
若くして、死ぬことを前提に、物を書き付ける行為は、一体、どんな心境なのかと、想像する。

陸軍初の特攻隊である、富嶽隊の一員として、ルソン島東方の海上で、27歳にして、特攻死した、米津芳太郎少尉は、出撃前日、母と兄宛に、「訣別」と題する、遺書を残している。

再び還らざる出撃命令降りました。
今に及び何等心残りは御座いません。吾々人間として最大なる修養、ししとして死に赴く境地もさらに会得し、只軍人勅論、戦陣訓の訓をそのまま実行するのみです。
二十七年間の生涯を、何等子として弟としての道を守りあたはざりしを深く恥ずる次第です。
すべてを兄上に委ね、心置きなく悠久の大義に生きんとしております。
男子の本懐これに過ぎず。
遺品の中にある「マニラ」産の化粧石鹸、参謀長より賜った品です。二個の中、一個を峯子嬢に差し上げて下さい。
では呉れ呉れも母上をお願い致します。
迎寒の折、呉れ呉れもご自愛の程。

原文を読みやすくしている。

三人兄弟の末っ子として生まれた。
父を知らない。

戦友の話では、出撃前に、爆撃機の尾翼の陰で、泣いていたという。

後に、母よね、に、届けられた骨壷には、米津の汗のしみたシャツ一枚が、納められていたという。

二十七
人の世を生き
特攻す
語り継がれる
大和魂   天山

悠久の大義に・・・
それは、日本が存続する限り、続く大義である。

知覧から、出撃して、沖縄海域にて、22歳で、特攻散華した、和田照次は、出撃当日、両親と三人の妹に宛てて、遺書を残している。

昨年の七月以降、遂にお目にかかる機会はありませんでした。しかしあの時、夏の清々しい夕べ、明るい燈の下で皆様と楽しくお話した時の事はいつも忘れません。
私が居なくなってもみんなげんきで、御父さんは外でお働きになる、お母さんは内の仕事をおやりになる、けさ江やふき江、ともえはすこやかに大きくなって幸福な家庭を持つようになる。そして皆が明るく楽しく助けあって美しい生活を営む。私はそれを希ひ、それを祈っております。
出撃前で時間がありません。
私の心は如何にしてもこの大業を完遂する事と、みな様のお元気であることを願う事です。
では、御機嫌よう、さようなら

特別な文ではない。
ただ、思いの通りに、書いている。

だが、それが、遺書なのだ。
肉親に宛てた、遺書を、他人の私が読む。
まさか、その死後、70年を経て、他人が読むとは、考えなかっただろう。

特攻隊員は、実に優しい人間だった。
そこに、軍国主義のかけらもない。
ただ、使命に真っ当すること。

私は、どうしても、彼らのお陰で、生きているような気がする。
彼らの、死によって、生かされて、生きていると、感じる。

陸軍特攻振武隊の、第四剣隊の隊長として、23歳で、沖縄海域にて、特攻死した、中島秀彦は、出撃前日に、妹周子と栄子、出撃当日に、父母に、短い遺書を書いている。

周子宛
出撃前日。
何も言う事はない。
唯銃後女性としてひたすら驕敵撃滅に邁進せよ。戦争は意志の闘争だ。大戦果を挙げてやるから待っておれ。

栄子宛
毎日元気か。
お母さんにあまり考えなさるなと言って呉れ。
今度外出したら何か買ってやる。
体に気をつけよ。

父・六郎宛
拝啓。
只今当地に居ります。後、数時間後出撃、見事撃沈して見せます。私物品は整理して送付致しました。当地からは軍刀だけです。敬具

母・かた子宛
拝啓
色々とお世話になりました。晴の出撃も後数時間後です。お体を大切に。一足先にさよなら。

とても、短い。
その短さの中に籠る、思いは・・・

現実というものは、ただ、このように淡々として、存在する。
数時間後に、別の世界の人になる。
死ぬ。

平和を語るためには、戦争を知るべきであり、防衛と、軍備の有り様を知るべきである。
彼らが守った国を、只今の人も、守らねばならない。



posted by 天山 at 06:30| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。