2016年03月22日

もののあわれについて797

かやうのありき、ならひ給はぬ心地に、をかしうも心づくしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎め給ひぬべければ、六条の院の東のおとどにまうで給ひぬ。まだ朝霧もはれず、ましてかしこにはいかにと思しやる。女房「例ならぬ御ありきありけり」と人々はささめく。しばしうち休み給ひて、御衣脱ぎ替え給ふ。常に、夏冬といと清らにしおき給へれば、香の御唐弼りとうでて奉り給ふ。御粥などまいりて、御前に参り給ふ。




このような、出歩きは、されない方とて、面白いとも、気を使うことだとも感じながら、お屋敷にいらしては、女君が、このような濡れ姿を怪しいと、疑うにきまっていると、六六条の院の、東の御殿に参上された。まだ朝霧も、晴れない。まして、あちらでは、どんなことだろうと、想像された。例にない、忍び歩きだったと、女房たちは、ささやく。しばらくお休みになって、お召し物を脱がれて、替える。いつも、夏物、冬物と、とてもきれいに用意しておられるので、香の御唐櫃から取り出して、差し上げる。お食事など、召し上がって、院の御前にお上がりになる。




かしこに御文奉り給へれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりし有様、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所のもり聞き給はむこともいと恥づかしう、又、かかる事やとかけて知り給はざらむに、ただならぬふしにても見つけ給ひ、人の物言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞き合はせて、へだてけるとおぼさむがいと苦しければ、「人々ありしままに聞えもらさむ。憂しと思す。親子の御中と聞ゆるなかにも、つゆ隔てずぞ思ひかはし給へる。よその人はもり聞けども、親に隠す類こそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。




あちらに、お手紙を差し上げたが、御覧になろうとしない。思いがけず、いやな目にあったもあの出来事を、腹立たしくも、恥ずかしくも思い、不愉快で、御息所がお耳にされても、恥ずかしいし、逆に、こんな出来事があったとは、少しもご存知ないのに、いつもと違うことでも、お見つけなさり、人のうわさの、伝わらないはずはないから、自然に、わかってしまう。隠し立てしたと思われては辛いので、女房たちが、ありのままに、お耳に入れてくれたらよい、困ったことをと思っても、しようがないと、お考えになる。親子の御中と申すことでも、何一つ隠さず、打ち明けあっていらっしゃる。他人は、漏れ聞いても、親には、隠す例ならば、昔の物語にもあるようだが、そんな風には、考えない、身やである。




人々は、「何かは、ほのかに聞き給ひて、事しもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに心苦し」など言ひ合せて。いかならむと思ふどち、この御息所のゆかしきを、引きもあけさせ給はねば、心もとなくて、女房「なほ、むげに聞えさせ給はざらむもおぼつかなく、若々しきやうにぞ侍らむ」など聞えて、広げたれば、「あやしう、何心もなきさまにて、何心もなきさまにて、人にかばかりなかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過に思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとをいへ」と、ことのほかにて寄りふさせ給ひぬ。




女房たちは、なんの、お耳になさって、仔細ありげに、何かとご心配されるだろうか。取り越し苦労は、いらぬこと。などと、言い合わせて、黙っている。何が書いてあるのかと思う者たちは、このお手紙が見たいけれど、開ける様子もなく、じれったくて、矢張り、まったくご返事なさらないのも変なことで、子供っぽいことになりましょう。などと、申し上げて、手紙を広げたので、宮は、思いもかけず、うっかりしていて、男の人に、あの程度であっても、見られた至らなさは、わが身の過ちと思いますが、無遠慮なひどい仕打ちは、諦められなくて。拝見できませんと、おっしゃい、と、そっけない態度で、横になり遊ばした。




さるは、にくげもなく、いと心深う書い給うて、
夕霧
魂を つれなき袖に とどめおきて わが心から まどはるるかな

ほかなるものはとか、昔も類ありけりと思う給へなすにも、さらに行くかた知らずのみなむ」など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなるけさの御文にもあらざらめれど、なほえ思ひはるけず。人々は、御けしきもいとほしきを嘆かしう見奉りつつ、「いかなる御事にかはあらむ。何事につけてもありがたう、あはれなる御心ざまは、程へぬれど、かかるかたに頼み聞えては、見劣りやし給はむと思ふも、あやふく」など、むつまじう候ふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知り給はず。




実のところ、大将、夕霧は、憎まれぬよう、とても心をこめて、お書きになり、

魂を、つれないあなたの袖の中に、残したままで、わが心からとはいえ、どうしたらいいのか、わかりません。

思うに任せないものは。とか、昔にも同じような人がいたと思っても、一向に、どうしたものか、わからない有様で、などと、長々と書いてあるが、女房は、全部を見ることはできない。
普通の、後朝らしい、今朝のお手紙ではないらしいが、矢張り、すっきりせず、女房たちは、宮の様子もお気の毒で、心を痛めて、拝しながら、どういう事なのだろう。何事につけて、珍しいほど、思いやりのあるお気持ちは、長年続いているけれど、ご結婚相手として、お頼り申すとは、期待ほどでないかもしれない。と思うのも、不安で、などと、親しくお仕えしている者は、皆、それぞれ心配している。御息所は、少しもご存じないのである。



posted by 天山 at 06:46| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

もののあわれについて798

物の怪に煩ひ給ふ人は、重しと見れど、さはやぎ給ふひまもありてなむ、物おぼえ給ふ。日中の御加持はてて、阿ジャリひとりとどまりて、なほ陀羅尼読み給ふ。よろしうおはしますことと喜びて、律師「大日如来そらごとし給はずは、などてか、かくなにがしが心をいたして仕うまつる御修法に、しるしなきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」と、声はかれていかり給ふ。いと聖だち、すくずくしき律師にて、ゆくりもなく、「そよや、この大将は、いつよりここには参り通ひ給ふぞ」と問ひ申し給ふ。御息所、「さる事も侍らず。故大納言のいとよき中にて、語らひつけ給へる心たがへじと、この年ごろ、さるべき事につけて、いとあやしくなむ語らひものし給ふも。かくふりはへ、わづらふをとぶらひにとて、立ち寄り給へりければ、かたじけなく聞き侍りし」と聞え給ふ。




物の怪に煩っていらっしゃる方は、重症と見えても、気分のすっきりする合間もあり、正気にお戻りになる。日中の御祈祷が終わり、阿ジャリ一人が残り、なお、陀羅尼を読まれる。少しはよくなり遊ばしたと喜んで、律師が、大日如来がうそをおっしゃらなければ、どうして、こんな私が、心を込めて、奉仕する御修法に、験のないわけがあろう。悪霊は、執念深いようだが、業障につきまとわれた、弱いものです。と、声がかれて、荒々しくおっしゃる。




律師「いであなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。けさ、後夜にまうのぼりつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出で給へるを、霧深くて、なにがしはえ見わい奉らざりつるを、この法師ばらなむ。「大将殿の出で給ふなりけり」と、「よべも御車も返して泊り給ひにける」と、口々に申しつける。げにいとかうばしき香の満ちて、頭痛きまでありつれば、げにさなりけり、と思ひ合はせ侍りぬる。常にいとかうばしうものし給ふ君なり。この事、いとせちにもあらぬ事なり。人はいと有職にものし給ふ。なにがしらも、童にものし給うし時より、かの君の御ための事は、修法をなむ故大宮の宣ひつけたりしかば、いかうに然るべきこと、今に承る所なれど、いとやすくなし。本妻強くものし給ふ。さる時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君達は七八人になり給ひぬ。え皇女の君おし給はじ。又、女人のあしき身を受け、長夜の闇に惑ふは、ただかうようの罪によりなむ、さるいみじき報をも受くるものなる。人の御いかり出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはらうけひかず」と頭ふりて、ただ言ひに言ひ放てば、御息所「いとあやしき事なり。さらにさるけしきにも見え給はぬ人なり。よろづ心地のまどひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ちとまり給へる。と、ここなる御たち言ひしを、さやうにて泊り給へるにやあらむ。おほかた、いとまめやかに、すくよかにものし給ふ人を」と、おぼめい給ひながら、心の内に、「さる事もやありけむ。ただならぬ御けしきは折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人のそしりあらむ事ははぶき捨て、うるはしだち給へるに、たはやすく心許されぬ事はあらじと、うちとけたるぞかし。人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやし給へりけむ」と思す。




律師は、いや、おかしい。私に、お隠しになることはない。今朝、後夜の勤めに上がったとき、あの西の妻戸から、とても立派な男が出ていらっしゃるのを、霧が深くて、私は見分けることが出来ませんでしたが、この法師どもが、大将殿が、お出になるのだ。昨夜も、お車も返して、お泊りになった。と、口々に申しました。なるほど、とても香ばしい香りがいっぱいで、頭の痛くなるほどでしたから、本当に、そうなのだと、合点しました。いつも、とても香ばしく焚き染めていらっしゃる方です。このご縁談は、甚だびったりとも、言えない話です。人物は、とても優れていらっしゃる。私どもも、幼い頃から、あの御方のための事は、修法を亡き大宮が、お命じになり、もっぱら役に立つことは、今でも、承っておりますが、はなはだ困ったことです。
本妻は、威勢が強くていらっしやる。ああいう時勢に乗った一族で、実に、たいしたものです。お子たちは、七、八人におなりになった。皇女の君は、太刀打ちできまい。それに、女人という、罪深い身を受けて、長夜の闇に惑うのは、ただこういう罪のせいで、ご承知の報いを受けるものです。あちらのお怒りが生じたら、末永く罪障となるに違いあるまい。まったく、賛成できません。と、頭を振って、ひたすら、言い募る。
御息所は、なんとも変な話です。全く、そんな様子も、見られない方です。ひどく気分が悪かったので、大将は、一休みして、対面しようといい、しばらく留まっていらっしゃる、と、ここの女房たちが言っていました。そういう訳で、お泊りになったのではないでしょうか。いったい、とてもお固くて、真面目一方の方でいらっしゃる。と、分からない振りをしながら、心の中では、そんなことがあったのかもしれない。普通ではないご様子は、時々見えはしたが、お人柄が、とてもしっかりしている。努めて人の非難を受けるようなことは、避けて、きちんとしていらっしゃる。そうたやすく、気の許せないことなど、されないだろう。と、安心していたのだ。人が少ない様子を見て、忍び込みでも、されたのかと、お考えになる。




律師立ちぬるのちに、小少将の君を召して、御息所「かかる事なむ聞きつる。いかなりし事ぞ。などかおのれにはさなむかくなむとは聞かせ給はざりける。さしもあらじと思ひながら」と宣へば、いとほしけれど、初めよりありしやうをくはしく聞ゆ。けさの御ふみのけしき、宮もほのかに宣はせつるやうなど聞え、小少将「年ごろ忍びわたり給ひける心の内を、聞え知らせむとばかりにや侍りけむ。ありがたう用意ありてなむ、明かしもはてで出で給ひぬるを、人はいかに聞え侍るにか」。律師とは思ひも寄らで、しのびて人の聞えけると思ふ。物も宣はで、いと憂くくちをしと思すに、涙ほろほろとこぼれ給ひぬ。見奉るもいとほしう、「何にありのままに聞えつらむ。苦しき御ここちを、いとど思し乱るらむ」とくやしう思ひいたり。




律師の立ち去った後で、小少将をお召しになって、こんなことを聞きました。どうだったのですか。何故、私に、ああだ、こうだと、宮様は、お聞かせくださらないのでしょう。そんなことは、あるまいと、思いますが。と、おっしゃるので、お気の毒だが、最初からの、いきさつを詳しく申し上げる。今朝のお手紙の様子や、宮も少しは、おおせられたことなど、申し上げた。そして小少将は、長年秘めておいでになった、お胸の内を、お耳に入れようという程の事だったのでございましょう。例のないほど、気を使われて、夜明けも待たずに、お出になりました。人には、どんな風に、申し上げましたのか。律師だとは、思いも寄らず、こっそり、女房が申し上げたと思っている。
御息所は、何も、おっしゃらず、嘆かわしくも、残念にも思いになる。と、涙が、ほろほろとこぼれるのである。拝見している小少将も、お気の毒で、何故、ありのままに、申し上げたのかと思う。苦しいご気分なのに、いっそう、お心を痛めたであろう、と、悔やみつつ、控えている。


posted by 天山 at 03:56| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月24日

もののあわれについて799

小少将「障子はさしてなむ」と、よろづによろしきやうに聞えなせど、御息所「とてもかくても、さばかりに何の用意もなく、かるらかに人に見え給ひけむこそ、いといみじけれ。うちうちのみ心清うおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童などは、まさに言ひ残してむや。人にはいかに言ひあらがひ、さもあらぬ事と言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしもここに候ひて」ともえ宣ひやらず。いと苦しげなる御ここちに、物を思しおどろきたれば、いといとほしげなり。け高うもてなし聞えむと思ひたるに、世づかはしう、かるがるしき名の立ち給ふべきを、おろかならず思し嘆かる。御息所「かう少し物覚ゆるひまに、渡らせ給ふべう聞え。そなたへ参りくべけれど、動きすべうもあらでなむ。見奉らで久しうなりぬるここちすや」と、涙を浮けて宣ふ。




小少将は、襖は、留め金をして、と、すべて悪くないように、言いつくろうが、御息所は、いずれにせよ、それほどに、何の用心もせず、うかうかと、男にお会いになったということが、とんでもないことです。内々は、潔白であっても、こうまで言った、法師どもや、卑しい童などは、言いたい放題に言いましょう。他人には、どう言い開きをし、そうではないと、いえましょう。皆、考えの足りない者ばかり、ここにお供していて、と、言い訳することも出来ない。とても苦しいご気分の時に、心を痛めて、驚いたので、なんともお気の毒なご様子である。
気品高くお扱い申そうと考えていたのに、並々の女のように、浮いた名が、立つに違いないのを、酷く、お悲しみになる。御息所は、こう、少しはっきりしている時に、おいでなさるように、申し上げてください。そちらへ伺うはずですが、身動き出来そうになくて。お顔を拝見せず、長い間が過ぎたような気がします。と、涙を浮かべておっしゃる。




参りて、小少将「しかなむ聞えさせ給ふ」とばかり聞ゆ。わたり給はむとて、御ひたひ髪の濡れまろがれたる引きつくろひ、ひとへの御ぞほころびたる、着かへなどし給ても、とみにもえ動い給はず。この人々もいかに思ふらむ。またえ知り給はで、のちにいささかも聞き給ふことあらむに、つれなくてありしようと思しあはせむも、いみじう恥かしければ、また臥し給ひぬ。女二「ここちのいみじう悩ましきかな。やがてなほらぬさまにもなりなむ、いとめやすかりぬべくこそ。脚のけののぼりたるここちす」とおしくださせ給ふ。ものをいと苦しうさまざまに思すには、けぞあがりける。




小少将は、宮の御前に出て、おいでになるよう、申し上げよと、仰せられます。とだけ、申し上げる。お越しなさろうとして、御額髪の、涙に濡れて固まるのを直し、単衣のお召し物の、ほころびを、着替えなどされて、すぐに動かれない。この人たちも、どう思っているだろう。それに、御息所は、ご存知なくて、後で少しでも、お聞きになったら、そ知らぬ振りをしていたと、思われるだろう。それも、酷く恥ずかしいので、また、臥せてしまった。宮は、気分が酷く悪い。このまま、直ることがなかったら、いい都合なのに。脚の気が、上がってきた気がすると、さすり下ろさせになる。何かを気にして、色々、お考えになる時には、気が上がるのである。




少将「上にこの御事ほのめかし聞えける人こそ侍るべけれ。いかなしり事ぞと、問はせ給ひつれば、ありのままに聞えさせて、御障子のかためばかりをなむ、少しこと添へて、けざやかに聞えさせつる。もしさやうにかすめ聞えさせ給はば、同じさまに聞えさせ給へ」と申す。嘆い給へるけしきは聞えいでず。「さればよ」と、いとわびしくて、物も宣はぬ恩枕より、しづくぞ落つる。この事にのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせ奉ることと、生けるかひなく思ひ続け給ひて、この人は、かうもてやまで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう聞き苦しきるべう、よろづに思す。まいて、言ふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし、など、少し思し慰むるかたはあれど、かばかりになりぬる高き人の、かくまでもすずろに、人に見ゆるやうはあらじかし、と、すくせ憂く思し屈して、夕つかたぞ、御息所「なほ渡らせ給へ」とあれば、中の塗籠の戸あけあはせて渡り給へる。




少将は、上に、あの出来事を申し上げた人がおりましたようです。どうだったのかと、お尋遊ばしたので、ありのまま、申し上げて、お襖の閉めてあったことだけを、少し言葉を加えて、はっきり申し上げました。もしも、そのように、この事を申し上げ遊ばすのでしたら、私と同じように、申し上げてください。と、申し上げる。悲しんでいられる様子は、申し上げない。
宮は、矢張り、そうだったのだと、とても辛く、物もおっしゃらずにいる、枕から、涙の玉がこぼれる。この事だけでもなく、自分が、思いがけない結婚をした時から、酷く心配ばかりをかけてきたことだと、生きている張り合いもなく、思い続けられて、あの人は、このままでは、諦めず、あれこれと言い寄ってくるだろう。それも、うるさく、聞き苦しいだろうと、色々と、お考えになる。まして、不甲斐なく、あの人の言葉に従ったら、どれほど、評判を落とすところだったろう。などと、少し気持ちの慰めるところはあるが、これほどまでに、高い身分の人が、こんなにも、うかつに、男に会うことは、まずなかったろうに、と、わが身の不運が悲しくて、思い沈み、夕方、やっと、御息所から、矢張り、おいでくださいと、仰せがあったので、中の塗籠の戸を、両方が開けて、お越しになった。




苦しき御ここちにも、なのめならずかしこまりかしづき聞え給ふ。常の御作法あやまたず、起き上がり給うて、御息所「いとみだりがはしげに侍れば、渡らせ給ふも心苦しうてなむ。この二日三日ばかり見奉らざりける程の、とし月のここちするも、かつはいとはかなくなむ。のち、必ずしも対面の侍るべきにも侍らざめり。また、めぐり参るともかひや侍るべき。思へば、ただ時のまに隔たりぬべき世の中を、あながちにならひ侍りにけるも、くやしきまでなむ」など泣き給ふ。




御息所は、苦しいご気分ながら、特別にかしこまり、応対申し上げる。いつもの礼儀を省かず、起き上がって、とても、見苦しい有様でございます。こちらへお出で願っても、機が引けます。この二日三日ばかり、お顔を拝見せずにいたぐらいで、年月のたった気がしますのも、心細いことです。後の世で、必ずしも、対面のあるわけでもありません。また、再びこの世に生まれて来ても、その甲斐がありましょうか。考えますと、ほんの一瞬のうちに、別れ別れになる定めの、人の世を、すっかりと、いい気になっておりましたのも、悔しいことと、思います。などと、お泣きになる。


posted by 天山 at 07:02| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

もののあわれについて800

宮も、物のみ悲しうとり集め思さるれば、聞え給ふこともなくて見奉り給ふ。物づつみをいたうし給ふ本性に、きはぎはしう宣ひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども問ひ聞え給はず。おほとなぶらなど急ぎ参らせて、とかう手づからまかなひなほしなどし給へど、ふれ給ふべくもあらず、ただ、御ここちのよろしう見え給ふぞ、胸少しあけ給ふ。




宮も、もの悲しいことばかり、あれこれ胸に湧いてきて、申し上げる事もなく、御息所のお顔を見ていらっしゃる。口数が、大変少なくていらっしゃるご性格で、はきはき、言い開きできることではないから、恥ずかしいとばかり、思いなので、とても、気の毒で、どうだったとは、お尋ね申し上げない。灯火など、急いでつけさせて、お食事なども、こちらで差し上げる。何も召し上がらないとお聞きになって、あれこれ、手ずから、お料理を並べ直したりなどされるが、お箸をつけそうにもない。ただ、御息所のご気分が、少しよく見えるので、気持ちをいささか、楽にされる。




かしこよりまた御ふみあり。心知らぬ人しも取り入れて、「大将殿より、少将の君にとて御使あり」と言ふぞまたわびしきや。少将恩ふみは取りつ。御息所、「いかなる御ふみにか」と、さすがに問ひ給ふ。人知れず思し弱る心も添ひて、したに持ち聞え給ひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騒ぎして、御息所「いで、その御ふみなほ聞え給へ。あいなし。人の御名をよさまに言ひなほす人はかたきものなり。そこに心清う思すとも、しか用いる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞えかよひ給ひて、なほありしままならむこそよからめ。あいなきあまえたるさまなるべし」とて、召し寄す。苦しけれど奉りつ。
夕霧「あさましき御心の程を、見奉りあらはいてこそ、なかなか心安く、ひたぶるこ頃もつき侍りぬべけれ。

せくからに 浅さぞ見えむ 山川の 流れての名を つつみはてずは

と、ことばも多かれど、見もはて給はず。この御ふみも、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげにここちよがほに、こよひつれなきを、いといみじと思す。御息所「故かむの君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、まだ並ぶ人なかりしかば、こなたに力あるここちして慰めしだに、よには心もゆかざりしを、あないみじや。大殿のわたりに思ひ宣はむこと」と思ひしみ給ふ。




あちらから、また、お手紙が来た。丁度、事情を知らぬ者が、受け取って、大将殿から、少将の君にといい、お使いが来ました。と、言うのも、辛いことだ。少将が、お手紙を受け取った。
御息所は、どういうお手紙ですか。と、それでも、お尋ねになる。人知れず、弱気な考えも起こって、大将のお越しを、内心お待ち申していらしたのに、手紙が来たのでは、お越しにならないだろうと考えるのも、胸騒ぎがして、御息所は、さあ、そのお手紙に、ご返事なさい。失礼ですよ。どなたのことであっても、良く弁護する人は、いないものです。あなたは潔白だとお考えでも、そう受け取る人は、少ないでしょう。素直に、手紙のやり取りをなさって、矢張り、今まで通りなのがよいでしょう。返事をしないのは、失礼で、いい気なやり方でしょう。と言い、手紙を見せよと、おっしゃる。少将は、辛いが、差し上げた。

夕霧は、驚くほかにない、お心の内を、はっきり拝見しては、かえってあっさりと、一途な恋心をきざすに、違いありません。

私を、せいて、それであなたの心の浅さは、分かってしまう。山川の流れのように、浮名は、包みきれません。

と、他にも言葉が多いが、終わりまで、御覧にならない。このお手紙も、はっきりとした態度ではなく、癪に障るほど、いい気になって、今宵は、来ないのを、とても情けないと、思うのである。亡き督の君の、お気持ちが思いがけない様子であった時、とても辛いことだと、思ったが、世間向けの扱いは、他に肩を並べる人もなかったので、こちらに、権威がある気がして、心を慰めていたのでさえ、決して、満足はしなかった。ああ、困ったことです。太政大臣のあたりで、どう思い、どうおっしゃることか。と、ご心痛である。

当時の、男女の関係は、複雑で、難しい様子である。
というより、貴族社会のことである。




なほ、いかが宣ふと、けしきをだに見むと、ここちのかき乱りくるるやうにし給ふ目おししぼりて、あやしき鳥のあとのやうに書き給ふ。御息所「頼もしげなくなりにて侍るとぶらひに、渡り給へる折りにて、そそのかし聞ゆれど、いとはればれしからぬさまにものし給ふめれば、見給へわづらひてなむ、

をみなへし しをるる野べを いづことて 一夜ばかりの 宿を借りけむ

と、ただ書きさして、おしひねりて出だし給ひて、臥し給ひぬるままに、いといたく苦しがり給ふ。御物の怪のたゆめけるにやと、人々言ひ騒ぐ。例の験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、「なほ渡らせ給ひね」と人々聞ゆれど、御身の憂きままに、おくれ聞えじと思せば、つと添ひ給へり。




矢張り、どうおっしゃるのかと、せめて、様子を探ってみようと、心は乱れ、涙で真っ暗におなりの目を、押し開けて、変な鳥の足跡のような字で、お書きになる。
御息所は、もちそうもない私を、見舞いに、宮様が起こしになっていた折で、お返事をお勧め申したのですが、とても、気分の優れない様子でいらっしゃるので、見かねまして、

女郎花の、思い萎れている、この野辺を、どういうところと、思い、ただ一夜の宿を、お借りになったのでしょう。

と、ほんの書きさしたまま、捻り文にして、お出しになって、横になられ、とても酷く、苦しがる。物の怪が油断させていたのかと、女房たちが、騒ぐ。例によって、効験のある僧たちが、とてもやかましく、大声で祈る。
宮様には、矢張り、あちらにお移りあそばせ、と女房たちが、申し上げるが、ご自身が辛く思われるままに、母君に、遅れ申すまいと考えているので、じっと、付きっ切りでいらっしゃる。


posted by 天山 at 05:33| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

玉砕111

陸軍特攻隊扶揺隊の一員、小川真一は、23歳で、沖縄・渡嘉敷島海域で、昭和20年3月29日に、特攻死する。
その一月ほど前、岡山の自宅に、日の丸の鉢巻姿の写真と、遺髪を送っている。
そして、3月13日、特別休暇を与えられて、帰省し、一泊して帰隊したが、自宅を出る時、姉、千恵子に、
「あまりにもオンボロの飛行機で、途中不時着するかもしれない。たとえ成果が上がらなくても、国のためにこの命を捧げる気持ちは、同じだから、嘆くことのないように」
と、告げている。

この小川を含めた、振武隊が、知覧基地から出撃する、初めての、陸軍特攻隊であった。

小川は、父宛に遺書を残している。

絶筆
本日攻撃命令下る
動中静あり 笑って滅敵に
基地を蹴ります
何も 申し残す事なし 三月二十八日・二十九日
之れ命日となりましょう
御両親姉上の御多幸を祈ります

気持益々冷静 平常心でやれそうです
家門の名誉この上なし
最後に扶揺隊の歌をやりながら
全機 元気出発します
                 さようなら

この、気持ち、益々、冷静・・・
見事な、心持である。

目の前の死に対して、平常心を持つという。
自らの死が、名誉であると、得心する心に、深く哀悼の意を。

これを受け取った、父親の心境は、思うことも出来ない。
小川の父は、何も語らなかったという。
語る言葉がないのである。

本人も、その家族も、その時代の不可抗力に生きた。

人生は、何とでも出来るとは、現代に言える。
いや、私は、人生は、いつの時代も、不可抗力を生きると言う。

思うに任せない事ばかりである。
勿論、中には、思うように、生きる人もいるだろう。
だが、それは、限られている。

戦争時の不可抗力は、悲惨である。
悲劇である。

だが、それを大義として、生きた人たち、若者たちがいる。
それが、救いである。

同じく、22歳で、沖縄・慶良間列島沖にて、特攻死した、倉沢和孝の父、安市は、心境を述べている。

倉沢は、昭和20年1月19日、形見のつもりで、髪を切り、安市に送った。
台湾の特攻基地に進出が決まると、父宛に、
向こうへ行ったら、便りも思うように出来なくなると思いますが、便りがなければ、元気でやっていると思ってください。
と、手紙に書く。

3月29日のことである。
そして、その一週間後、倉沢に出撃命令が出た。
その出撃直前に遺書を書いた。

我 今 壮途につかんとす
生還を期せず
今までの不孝お許し下され度
尽忠の大義に生く
では御両親様始め
弟達の壮健を祈ります
            出発前一筆 和孝
                   
家族が、この遺書を受け取ったのは、三ヶ月あまり後の、7月13日であった。

父、安市の衝撃は大きかった。
今までの不孝御許し下され度
という箇所に目を止め
「何たる事だ、何が今まで不孝なことがあったか?何もないではないか」
と言い、号涙したという。

特攻隊員にまつわる話は、多々ある。
私は、それらを省略しつつ、紹介している。

勝ち負けに関わりなく、戦争は、悲劇である。
しかし、その戦争の中に身を投じて、生きた若者たちが存在していたということが、大切な事実である。

祖国のために、命を燃やした若者たちが存在した。

それを、忘れては、日本人が、廃る。
それ以後、日本は、70年間、平和であり、戦争をしていない。
それは、彼らの犠牲の上にあると、私は、思う。

時代の不可抗力は、いつ訪れるのか、分からない。
もう、未来永劫、戦争はないとは、言えないのである。

防衛のために、戦いが必要なこともあるだろう。
その時、どう、その不可抗力を生きるのか・・・

特攻隊の精神を、見習いたい。


posted by 天山 at 06:44| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月29日

玉砕112

特攻隊の遺書、遺文、日記などを、読んでいる。
ここで、一度、戦争の経緯に戻ることにする。
後に、再度、特攻隊員の、遺書、遺文を見る。

その前に、戦前の日本が、軍国主義であるという、言い方について、言う。

私が、認識するのは、戦前の日本は、軍国主義とは、言えないということである。

簡単に言う。
軍国主義とは、アメリカなどに言える言葉である。
あの、時代を俯瞰すれば、世界の大半が、欧米列強の植民地であった。

その中で、唯一といっていいのが、日本である。
裏では、イギリスの植民地化にされそうだったが・・・

タイ、エジプトも、辛うじて、植民地ではなかったが。
日露戦争後に、日本は、その列強と同じ位置になった。

そういう意味では、アジアで唯一、独立国だった。

そんな中で、列強国は、日本に脅威を与えていた。
中でも、アメリカは、友好国と信じていたが・・・
明らかに、日本に対して、戦闘意識があった。

そして、ロシアの脅威である。
そのために、朝鮮半島は、守るべき場所だった。

日本の防衛のためにも、である。

当然、必然的に、軍国化してゆくのである。
必要に迫られたものだ。
それを、軍国主義とは、言わないだろう。

防衛準備主義と、私は言う。

何もかにも、抑えられた故に、日本は、南に活路を見出さなければならなかった。
それを、侵略と言う人たちが、いるが、違う。
自衛のために、行くしかないのである。

そして、結果的に、日本が敗戦したが、すべての植民地が、結果、独立したのである。
これは、画期的なことだ。
歴史はじまって以来の出来事である。

白人支配からの、開放を成したのである。

そして、何より、日本の戦争により、人種差別撤廃がなされた意義は、大きい。評価しても、し切れない程の事である。

さて、昭和19年七月に戻る。

第一遊撃部隊と名を変えた、第二艦隊は、また栗田艦隊とも言うが、スマトラ島の東南部の、リンガ泊地で、次期作戦に備えて、猛訓練に、明け暮れていた。

これは、戦艦武蔵が、フィリピンのシブヤン海に、消える話である。
昨年、その武蔵の海底の様子を、米国人が撮影した写真が、話題になった。

確かに、それは、戦艦武蔵だった、ということだ。

栗田艦隊が、リンガに到着した、翌々日の、7月21日、大本営から、「捷」号作戦の、指示が送られてきた。

それから、20日たった、8月10日、マニラにおいて、「捷」号作戦に関する、作戦打ち合わせが行われた。
実際、作戦の内容は、実に具体性に欠けていたのである。

そこで示された、連合艦隊の戦術は、小柳参謀長にとって、極めて意外なものだった。
栗田艦隊の行動に関して、神参謀は、以下のように説明した。

敵来攻の公算は、フィリピン方面がもっとも強いということは、衆目の見るところである。その上陸地点については、北部ではラモン湾付近、中部ではレイテ湾、南部ではダバオ付近と予想される。以上いずれの場合でも、敵侵攻のキザシを認めたら、基地航空部隊の襲撃によって敵の空母を漸減しつつ、敵輸送船が上陸地点に接近したところで、全力をあげ一挙的輸送船団を殲滅したい。したがって、栗田艦隊は状況を見て、あらかじめボルネオ・ブルネイ湾に進出待機していて、命令あり次第発進して敵輸送船団を洋上に捕捉、これを撃滅する。もし手遅れとなって、敵がすでに上陸を開始していたような場合には、その港湾に強行突入してこれを殲滅し、敵の進攻意図を撃破する。

以上である。

だが、小柳参謀長が、拘ったのは、大艦隊を挙げて、輸送船を攻撃せよという作戦目的であった。ゆえに、小柳は、
この作戦計画だと、敵主力の撃滅を放棄してしまって、敵輸送船を攻撃の主目標とするものである。作戦自体の目的がどのようなものであるにせよ、われわれ第二艦隊としては、あくまでも敵主力との決戦をもってその第一義の任務となすべきであると心得ている。一体、連合艦隊司令部は、この作戦で水上部隊をことごとく潰してしまっても、かまわないという考えなのか・・・

それに対し、神参謀は、
フィリピンを奪われてしまえば、本土と南方資源地帯とのルートは遮断され、日本は立ち枯れとなってついには戦争遂行能力も涸渇するであろう。そうなっては、艦隊を保持していても宝の持ち腐れである。この際、どうあってもフィリピンを手放すわけにはいかない。したがって、この一戦に艦隊をスリ潰してしまってもあえて悔いはない・・・

まさに、戦争全体の、帰趨は、すでに決しているわけである。
連合艦隊長官は、あえて、この一戦に全艦艇を葬り去ろうと意図しているのである。

これは、もう、連合艦隊と、栗田艦隊とは、微妙な意思の疎通を欠いたままで、作戦実行に移すということである。

矢張り、翌日、この作戦を、各戦隊司令官、幕僚、艦長、司令などの主要幹部は、容易に納得しなかった。

彼らには、開戦以来、敗れたのは、空母部隊であり、水上部隊は、本格的な艦隊決戦をやったことがないという、意識がある。いつか、決着をつけるために、日夜、訓練に励んできたのだ。

だが、大艦隊を挙げて、港湾に突入し、輸送船団を叩くという戦例は過去になく、参考にすべき何物もなく、作戦に立案にすべき資料もない。
非常な苦心を要した。が、各戦隊共に、一致協力して、事に当たった。

ここから、悲劇の、レイテ戦が始まる。

posted by 天山 at 05:59| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月30日

玉砕113

フィリピン全域にわたり、猛威をふるった台風が、やや下火になった、10月17日、レイテ湾口スルアン島にある、海軍見張り所は、雨に煙る海上に、敵艦隊を発見した。
各方面に、緊急急電を発した。

レイテに反攻を指向した、マッカーサー攻略部隊だが、この報告に、神奈川県日吉台にあった、連合艦隊司令部は、即座に反応し、全軍に対し、捷一号作戦警戒を発令した。

18日、リンガ泊地の栗田艦隊は、即座に行動を起こす。
第十戦隊の旗艦が先頭を切り、その後を続々と、戦隊が続いた。

栗田艦隊が、ブルネイに到着したのは、20日の正午近くである。
丁度その頃、レイテ湾に、マッカーサーの上陸部隊の、大軍が殺到していた。

レイテ湾に面した、タクロバンと、その南のパロ方面、および、サンホセと、その南のドラッグ方面に対し、軍団16万5千名のうち、兵員約6万、車両、弾薬、軍需品など、10万7千トンが、揚陸された。

私が、レイテのタクロバンに慰霊に出掛けた際に、当時、少女だった、お婆さんに出会った。彼女曰く、たくさんの日本人が死にました、と。
それはそれは、沢山であろう。

レイテ島は、全島に戦禍が広がったのである。
タクロバンの逆の、セブ島側の、オルモックという場所。
私は、まだ出掛けていない。

特攻隊の、最初は、レイテ島のタクロバンである。
そして、オルモックにも、散華した若者が多い。

ブルネイ泊地に入港した、艦隊、駆逐艦など、39隻からなる、大艦隊は、到着早々、栗田艦隊は、燃料補給に忙殺された。
時間の余裕がなかったのである。

21日17時から、旗艦愛宕の艦隊司令部に、各指揮官、関係科長以上が呼集されて、作戦計画の打ち合わせが行われた。
この席で、初めて、レイテ湾タクロバン方面に突入すると、具体的な目標が、指示された。司令部から発表された作戦計画は、リンガ泊地を出発して、ブルネイに回航するまでの間に、作戦参謀大谷藤之助を中心に、練られたものである。

この計画における苦心は、艦隊行動をより効果的にするため、南北両方面から、レイテ湾に進撃するというものであった。
大谷参謀は、速力の遅い、旧式戦艦山城と、扶桑の第二戦隊を、別動隊として、スリガオ沖から、北上突入させる案を立てた。

22日、栗田艦隊は、第一、第二部隊の順に、ブルネイを出撃、レイテ湾を目指した。

その後を、続々と、各戦隊が続く。

ブルネイ湾を出ると、艦隊は、大和を中心にする第一部隊と、金剛を中心とする、第二部隊の二群に分かれ、隊の間隔を6000メートルにとり、対潜警戒就航序列で北上した。

対潜警戒を怠っていたわけではないが、日没後は、16ノットに減速して、ジグザグ運動を止めて、パラワン島沖合い10浬を北上した。

栗田艦隊にとって、レイテへの道は、遠く、かつ困難極まるものだった。

その行程は、警戒航行や、途中の会敵を考慮すれば、1500浬を覚悟しなければならないほどだ。
当然、米艦載機の襲撃や、水上部隊との遭遇などが、予想された。
さし当たっての難関は、敵潜水艦に狙われることだった。

第一の米潜の出没地帯と予想されたブルネイ湾口は、無事に通過し、23日、第二の難所である、パラワン水道の南口に達した。

艦隊がこの水道を抜けるには、約300浬の行程を経なければならなかった。
誰の目にも、この狭い水路は、米潜が待ち受ける危険地帯である。

米軍側から見ると、23日午前1時頃、パラワン水道南口で、哨戒中の二隻の米潜水艦のうち、ダーターが、レーダーで栗田艦隊を発見し、栗太艦隊を追い越して、艦隊に向かった。

米艦隊は、こちらに向けて進む、日本艦隊のほぼ真正面に位置していた。
次の瞬間、艦隊は、ジグザグ運動を開始し、ダーターの視野から見て、右に艦首を振り、重巡四隻は、一斉に横腹を見せた。距離は約9000メートル。

この機を逃さず、ダーターは先頭の一番艦隊に狙いをつけ、艦首発射管から、魚雷六本を発射した。

そのうちの、四本が命中した。
ついで、艦を急旋回すると、二番艦に向け。艦尾発射管から、魚雷四本を発射した。うち、二本が艦隊の中の、高雄に命中した。

その他の詳しい様子は、省略する。

高雄は、応急処置を行い、26日、ブルネイに帰還し、シンガポールに回航している。

その後、この海域で同じく第四戦隊の重巡摩耶が雷撃を受け、ほとんど瞬時に、沈没している。

私から言えば、遠回りにレイテに向かっていたのである。

栗田長官の乗る、愛宕が攻撃され、艦体が30度ほどに傾いたとき、栗太長官は、幕僚たちと共に、海面に浮かんだバジルから身を躍らせ、海中に飛び込み、駆逐艦目指して、泳いだ。
後に、司令部付近の職員たち、約30名が、続いた。

駆逐艦に乗り移ると、愛宕は、すでに沈んでいた。

駆逐艦岸波に移乗した栗田長官は、大和に信号を送り、
大和に旗艦変更の予定、本職移乗まで第一戦隊司令官指揮を執れ
と、命じる。

長官以下、愛宕生存者の大和への移乗は、夕方に終わった。
全軍の指揮は、再び、栗田長官が執ることになる。

大和の艦橋は、満員である。
艦隊司令部の移乗が終わると、艦隊は、ただちに行動を起こして、北上した。

そして、シブヤン海に進入する。
ミンドロ島沿いに南下した。

地図で見ると、レイテまで、大回りをしていることが、分かる。

フィリピン群島を二分する形の、シブヤン海は、栗田艦隊にとって、第二の難所であった。

米潜水艦、米空母部隊の行動範囲内に入ったことを、覚悟しなければならない。

ミンドロ島南方を迂回して、北東に針路を変え、タブラス海峡を抜けた艦隊は、24日、未明、ジグザグ運動をしつつ、シブヤン海に入っていった。


posted by 天山 at 03:56| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月31日

玉砕114

敵機跳梁の兆しは、未明からあった。
大和の電探は、しきりに、米機の反応をキャッチしていた。

姿は、見えずとも、遠方から、触接されていると、判断した栗田長官は、対空戦闘に備えて、輪形陣を敷くよう命じた。

艦隊は、一時複雑な行動を展開したあと、15分間ほどで、第一部隊は、大和を中心に、第二部隊は、金剛を中心に、それぞれ輪形陣を敷いた。
航空機の援護がない以上、対空砲火により、自分で自分を守るしかない。

やがて、米機が視認できるようになり、その数は、時間の経過と共に、増えていった。
敵の襲撃は、必至と見た艦隊は、速力を24ノットに上げて、対空戦闘態勢に入った。

シブヤン海の死闘である。

当然ながら、米軍の目的は、大物の大和と、武蔵である。

大和の右翼、輪形陣の外側に位置していた武蔵に、敵機が群がってきた。

その状況については、省略する。

ミンドロ島、タブラス島、シブヤン島の海域である。
後に、ミンドロ島の戦いについても、触れる。

結果的に、武蔵は、米機に集中して襲い、回避する力もなく、発射された魚雷は、ことごとく横腹に吸い込まれるように、命中した。

投下される爆弾もまた、命中であり、至近弾を問わず、武蔵を破壊した。

そして、この日の戦闘が終了した。

武蔵が沈んだ時刻、夕刻近くから艦隊行動につき逡巡を繰り返して、複雑な航路をとった栗田艦隊は、遥か離れた洋上にいた。

シブヤン海に沈んだ武蔵は、敗戦後から、70年目にして、ようやく、アメリカ人により、海底にあるのが確認され、写真が公開された。
昨年のことである。

その後、栗田艦隊は、いったん反転、西方に避退した。
米機のあまりの猛攻撃に、ひるんだのである。

このまま猪突すれば、目的のレイテ湾に到着する前に、全滅すると、思われた。

中止ということではなく、一時的な避退のつもりだった。
再出撃したほうが良いとの判断である。

この反転につき、栗田司令官は、連合艦隊長官に宛てて、電文を送った。
内容は、無理に突入しても、敵の餌食になるという意味のものである。そして、一時避退して、
友隊ノ性かニ策応シ進撃スルヲ可ト認メアリ
と、最後の電文である。

しかし、ここで栗田艦隊が前進を中止すれば、「捷」号作戦のすべてが、崩壊し、再興は不可能である。ここは、予定通り、突入してもらわなければならないという意見が、大勢を占め、有名な、
天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ
という、督戦命令が打たれることになった。

栗田艦隊は、漂泊する武蔵を置き去りにして、西に進んでいたが、その後、米機は一機も現れない。
あれほど、凄まじかった空襲が、嘘のようにやんでいた。

反転後、すでに一時間近くも経過しているのに、一機の敵機も現れないのである。

栗田長官が突然、引き返すことにした。
つまり、再反転である。

大和以下艦隊は、再度、武蔵を見る。まだ浮いていた。
しかし、そこから東に進むと、武蔵は、点として、やがて消えた。

栗田艦隊は、シブヤン海の横断を終えて、24日20時頃、ブリアス島とマスバテ島にはさまれた狭い、海峡に差し掛かっていた。
ここから、島と島の間を、蛇行しつつ、サンベルナジノ海峡へと進む。

艦隊は、予定より、すでに六時間も遅れており、このままでは、レイテ湾に到着するのは、25日正午頃となる。

艦隊は、能代を先導艦として、一列縦隊となり、サンベルナルジノ海峡を突破していった。

約一時間で海峡を通過した艦隊は、25日午前零時30分、無事にフィリピン海に出た。

しかし、海峡を出たときが、艦隊にとって、最も危険な時間である。
弱体な態勢にあり、海峡の出口には、米潜水艦が潜んでいる確立が、高いのである。

更に、水上部隊が、邀撃態勢を整えて、待ち構えていることもある。
単縦陣のままで、一時間、危険海峡を突っ走ったが、何事もなく、東方に変針した。

午前4時、艦隊は、南東に変針して、一路、レイテ湾を目指した。
約五時間後の、九時には、予定していた、西村艦隊との会合点、スルアン灯台の東10浬の地点に到着するはずだった。

このとき、艦隊司令部に、西村艦隊にあらずして、志摩艦隊から、「戦場到着」との連絡が入る。

その後、一時間経た、5時10分、当隊攻撃終了、一応戦場離脱、後図を策す」との連絡が入り、続いて、「第二戦隊全滅、最上大破炎上」との報告である。
しかし、その後、連絡がない。

司令部では、これだけの電文では、状況が分からない。

西村艦隊は、打撃を受けているようだが、何隻かは、約束のレイテ湾口に、現れるのだろう。
栗田艦隊としては、そのように、受け止めるしかない。


posted by 天山 at 06:16| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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