2016年02月23日

もののあわれについて792

夕霧

まめ人の名をとりて、さかしがり給ふ大将、この一条の宮の御有様を、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねんごろにとぶらひ聞え給ふ。下の心には、かくてはやむまじくなむ、月日にそへて思ひ増さり給ひける。御息所も、あはれにありがたき御心ばへにもあるかな、と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えずおとづれ給ふに、慰め給ふ事ども多かり。




堅物との、仇名をとって、いい気でいられる大将は、この一条の宮のご様子を、やはり、いいなと、忘れられず、世間の人目には、昔のよしみを忘れない、心遣いと見せながら、心を込めて、お見舞い申し上げる。その心の中では、このままでは、済まされないと思いつつ、月日が経つに連れて、思いが、募ってゆくのである。
御息所も、実に、珍しい親切なお方だことと、今では、いよいよ心細いお暮らしを、大将不断のご訪問で、紛らわせなさることが、多い。




初めより懸想びても聞え給はざりしに、ひきかへし懸想ばみまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見え奉りて、うちとけ給ふ折もあらじやは、と思ひつつ、さるべき事につけても、宮の御けはひ有様を見給ふ。みづからなど聞え給ふ事はさらになし。いかならむついでに、思ふ事をまほに聞え知らせて、人の御けはひを見む、と思しわたるに、御息所、もののけにいたうわづらひ給ひて、小野といふわたりに山里持給へるに、渡り給へり。早うより御祈りの師にて、もののけなど払ひ捨てける律師、山籠りして、里に出でじと誓ひたるを、ふもと近くて、請じおろし給ふ故なりけり。御車より始めて、御前など、大将殿よりぞ奉れ給へるを、なかなかまことの昔の近きゆかりの君達は、事わざしげきおのがじしの世の営みに紛れつつ、えしも思ひいで聞え給はず。弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことのほかなる御もてなしなりけるには、しひて、えまでとぶらひ給はずなりにたり。




最初から、色恋の素振りは、お見せにならないのに、打って変わって、恋心を見せ、態度を崩しても、気恥ずかしい。ただ、真心をお見せして、心を許して下さる時もなくはないだろうと、思いつつ、何か事のある時などに、宮の感じや、様子を注意して、ご覧になる。宮ご自身でなど、お声をお聞かせ下さることは、全く無い。どんなきっかけで、胸の内を、まっすぐに、打ち明けて、あちらの態度を見ようと、考え続けているうちに、御息所が、物の怪に酷く悩み、小野というところに山荘を持っていらしたのに、お移りになられた。昔から、祈祷師として、物の怪などを、追い出していた律師が、山籠りして、俗界に出まいと誓っていたのを、麓近くに行き、下山をお頼みするためだった。
お車のことを始めとして、御前駆などは、大将殿から、差し向けられたのに、反対に本当の昔の、近親の若様方は、することの多い、それぞれの生活に気を取られて、宮のお世話を、考えないのである。弁の君は、また、宮に気のないこともなくて、その、素振りを見せたのだが、厳しいご挨拶だったので、おして、参上しての、お世話は、為さりにくくなっていた。




この君は、いとかしこう、さりげなくて、聞えなれ給ひにためり。修法などせさせ給ふと聞きて、僧の布施浄衣などやうの、こまかなるものをさへ奉れ給ふ。なやみ給ふ人はえ聞え給はず。女房「なべての宣旨書は、ものしと思しぬべく、ことごとしき御さまなり」と人々聞ゆれば、宮ぞ御返り聞え給ふ。いとをかしげにて、ただ一くだりなど、おほどかなる書きざま、ことばもなつかしき所かきそへ給へるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞えかよひ給ふ。「なほつひにあるやうあるべき御なからひなめり」と、北の方けしきとり給へれば、わづらはしくて、まうでまほしう思せど、とみにえ出で立ち給はず。




この方は、とても、上手に、そんな、素振りは見せずに、親しくしていらしたらしい。修法など、させ給うと聞いて、僧の布施や浄衣などのような、こまごまとしたものまで届けて、差し上げる。病人は、お礼を申し上げることも出来ない。ありふれた代筆は、けしからぬと思いましょう。重々しいお方です。と、女房たちが、申し上げるので、宮が、お返事をお書きになる。とても綺麗な字で、ほんの一行ほど、おっとりとした、筆つかいで、優しい言葉も、お書きになるので、一層見たく、手紙から目が離せなず、しきりに、御文をやり取りされる。
やはり、結局は、ただでは済みそうにないお二人だ、と、北の方が様子を察して、面倒になって、訪問したいが、急には、お出かけになれない。




八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしき頃なるに、山里の有様いとゆかしければ、夕霧「なにがし律師のめづらしうおりたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所のわづらひ給ふなるとぶらひがてら、まうでむ」と、おほかたにぞ聞えごちて、いで給ふ。御前ことごとしからねど、したしきかぎり五六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さるいはほならねど、秋のけしきつきて、都に二となくと尽くしたる家居には、なほあはれも興もまさりてぞ見ゆるや。




八月二十日の頃なので、野原の景色も、美しい時節で、山里の様子が、とても、気になるので、夕霧は、何々の律師が、久しぶりに山から下りたそうだが、是非にも、相談しなければならないことがある。御息所の患うのも、お見舞いがてらに、参ろうと思う。と、よそ事のような、申訳をして、お出かけになる。お供の人数も、大げさにせず、身近に使っている者、五、六人ほどが、狩衣姿で、お供する。
特に、山奥に行くのではないが、松ヶ崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい色になっていて、都では、またとないほど、数寄を凝らした住居より、美しさも、風情も、まさって見えるのだ。

なほあはれも興もまさりて・・・
色々な形容になるが、美しさも、風情も、あはれと言うのである。

あはれ、という、言葉の、風景が広がる。
何度も言うが、心象風景の広がりである。

極端に言えば、美しさも、醜さも、あはれ、という言葉で、表現できるのだ。
その意味は、前後、あるいは、その時の、場の雰囲気によって、決まる。

便利な言葉であるが・・・
それを、日本人は、所作にまで、高さめたのである。
あはれなる所作である。


posted by 天山 at 07:10| もののあわれ第14弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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