2016年02月15日

打倒・韓国60

突然だが、アンケート調査が出たので、紹介する。
慰安婦問題の、日韓合意に関する、調査である。
以下

産経新聞社とFNNの合同世論調査では、日韓両政府が慰安婦問題で「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した昨年12月の合意について「評価する」との回答が59.7%に上った。一方で、慰安婦問題が「再び日韓両国間の懸案になると思う」との回答は81.2%に達した。世代別では20〜40代で男性は8割以上、女性は9割以上が問題再燃への懸念を示し、若い世代ほど慰安婦問題をめぐる合意に不信感を抱いている現状が浮かび上がった。
 支持政党別では、日韓合意を「評価する」と回答したのは自民党支持層で67.9%。民主党支持層で53.6%で、公明党支持層では56.9%だった。生活の党と山本太郎となかまたちを除く主要政党の支持層で5割を超えた。安倍晋三首相の歴史観に批判的な共産党の支持層でも50.9%、社民党の支持層では70.0%に達した。世代別では、20代の女性を除く男女の全世代で5割以上が評価。60代以上の男性が72.9%と最も高かった。
 元慰安婦の支援事業のため韓国政府が設立する財団に日本政府が10億円を一括拠出することに関しては、男女の全世代の5割以上が「在ソウル日本大使館前の慰安婦像が撤去されてから拠出すべきだ」と回答。最も高かった40代男性は71.1%に上り、男性はその他の世代でも6割を超えた。女性も57.5%だった50代を除いては、どの世代も60%台だった。
 一方、慰安婦問題が今後も両国間の懸案として再燃することに懸念を示したのは、男女ともに全ての世代で7割以上に上った。最も高かったのは女性20代の95.0%で、女性の30代と40代はともに90.8%だった。男性で最も高かったのは20代の84.1%で、女性の方が問題の再浮上に対する懸念が強い傾向だった。

これを見れば、日本人が、いかに、韓国を信用していないのかということが、分かるというものだ。

これでは、この先も、同じである。
信用出来ない人と、付き合うことは、出来ない。
つまり、付き合うことが出来ない、韓国なのである。

私は、別に悪意を持って、韓国に対処するものではない。
出来れば、両国民が、信頼関係を持ち、友好的に付き合うことが出来れば、いいと、思っている。

しかし、相手が、こうなら、諦めるしかない。
そして、益々、それが、顕著に激しくなってくる様子である。

すでに、ハングル世代が、社会に登場して、つまり、反日教育を受けた、世代であるが、この人達が、社会出て、更に、反日に対する行為行動が、激しくなるだろう。

希望は、見いだせない。

嘘の歴史を教えられてきたこと、さえも、知らない世代である。
教えられたことが、本当のことだと、信じている。
あるいは、洗脳されている。

この洗脳を、日本が、解く必要はない。
自業自得を、待つしか無い。

繰り返される、韓国からの、タカリである。
謝罪をすると、補償が、ついてくる。

承知なし、なので、もう、御免被りたいというのが、日本人の本音だろう。

ただ、ここで、気の毒なのは、在日の人達である。
韓国を信用しない、多くの日本人の社会にあって、彼らは、生活する。
居心地が悪いだろうと、思える。

更に、在日特権を許さないという人達、グループもいる。
確かに、在日特権は、存在する。
日本国民より、厚くされているのである。

その一つ一つを、書き上げている暇はない。

中味を見れば、驚くことも多い。
その歴史的背景などもあるが、やり過ぎという感じもある。
だがそれは、政治家たちに、任せられてある。

国民が、選んだ政治家に、一任したのであるから、彼らが、それを法律にしたならば、それに従う。

在日も二代、三代、四代と重なると、日本人として、生きて欲しいものである。が、
中には、帰化もせず、自国、韓国へも、帰らない。そして、在日特権を受けて、日本で暮らすという人達もいる。

それについては、語らないでおく。



posted by 天山 at 07:09| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月16日

打倒・韓国61

朴テショク氏の案内で、進む。

25年ほど前に、出版された、醜い韓国人、という本である。
韓国人が書いているということを、前提にして、書く。

朴氏が、紹介している、文書がある。
それは、日本が敗戦後、アメリカ占領下にあったとき、連合軍最高司令部の、労働問題顧問として、日本に滞在した、ヘレン・ミアズ女史が、1948年に、「日本・アメリカ人にとっての鏡」と題する、著書である。

この本は、占領下にあった日本では、発売禁止の指定を受けて、訳出することが、許されなかったものである。

何故か・・・
アメリカには、都合が悪いもの。

それでは、その中味を見る。

今日、われわれは日本の近代史が初めから終わりまで「凶暴で貪欲」だったといって非難をあびせている。そして日本人が19世紀以後に築き上げた帝国を破壊することによって、日本を罰している。この措置は合法的な驚くべき新しい発想を必要とする。―――すなわち、ただ日本の犯罪時に、日本の行為が犯罪と見なされなかったばかりではなく、今、断罪役にある裁判官のなかには、当時の行為を扶助した者もいるのに、日本がその行為のために、今、有罪の宣告を受けることは、被告日本にとって当然なむくいである、という考え方がそれだ。

実際、アメリカ、及び、白人は、日本を徹底的に、貶め、断罪するという、意欲に燃えていたのである。
二度と、立ち上がれないように、である。

白人に、逆らうことは、許されないという精神である。
それは、精神であり、根性である。

敗戦後の日本は、その罠にかかったまま、今日まで至るといっても、いい。

さて、
1943年カイロにおいて、大英帝国を代表するチャーチル首相と、アメリカを代表するルーズベルト大統領が、日本が朝鮮国民を「奴隷化」したと宣言した。だが民主国家であるアメリカとイギリスの両政府が、朝鮮の「奴隷化」を発見したのは、日本の真珠湾攻撃とシンガポール攻略の後になってからのことだった。今日、日本を断罪する裁判官となっている三大強国のなかで、ロシアだけが、19世紀の朝鮮における日本の進出に反対したのであった。しかし、ロシアの反対も、日本の行動に対する嫌悪に立脚したものではなく、たんに自分が日本の代わりをしたいという欲望に基づいたものだった。その当時、英米政府は、ロシアの代わりに日本をその場に置くことに、大賛成だったのである。

その通りである。
ロシアが出るより、日本が出ることが、理想だと、考えた。
そして、それで、良かったのである。

更に、
1894年7月29日に、韓国におけるわが代表であったシル氏は、次のように書いている。「日本は韓国に対して非常に親切に行動したいと思っているように見える。日本は断乎、中国の統治権の軛を解き放って、弱小な隣国を援け、その独立国としての立場を強化することのみを希望しているように見える。即ち日本は、韓国国民に平和と繁栄と開化をもたらすような諸革命の実行を支援しようとしている。この動機は知識層の韓国官吏の多くを喜ばせているし、また、アメリカでも不賛成なことはなかろうと私は思う・・・」

韓国国民に平和と繁栄と開化をもたらすような諸革命の実行を支援しようとしている
ということで・・・
その通りである。

日本が、裁きを受ける何物もないのである。

続けて、
今日、日本による朝鮮「隷属化」を非難するにあたって、われわれは朝鮮において日本政府は、例外的なぐらいひどい植民地統治をやったという。しかし、病院、学校、朝鮮人の政治への参与(地方行政の場合)、通信、産業の発達、資源の開発など、通常「進歩的」発達の標準として容認されている基準から判断すれば、日本の記録は、通常の植民地母国の標準、いや、はるかにそれに、立ち勝っていた。今日、日本の朝鮮統治を非難する者はその根拠を、日本の主要な目的が朝鮮大衆の福祉よりも、日本自身の国家の安全の確保と経済的財政的福祉にあった、ということに置くのだ。しかし、そのような状態は、すべての西ヨーロッパ植民地母国によって、当然なことと容認されているのである。

西ヨーロッパの植民地政策は、略奪、掠奪、収奪だったのだが・・・
まあ、女史も、白人であるから、弁護したのだろう。

そして、
朝鮮において悪かったことは、日本の統治ではない。植民地制度そのものであった。1894年当時、アメリカ人のシル氏が日本の改革計画に賛同して、「国民に平和と繁栄と啓発をもたらすもの」と評価したとき、おそらく氏はこの人道主義的な言葉をまじめに書いたことだろう。日本人は、朝鮮国民の「指導」の責任が日本にあるとする理由を説明するにあたって、朝鮮のように長年の虐政でひどく痛めつけられた国民には、「独立」などは不可能であるといった。おそらく日本人はそのとき、今日、われわれが同様なことを口にしていると同程度に、真剣なことだったろう。

上記で、驚くべき言葉は、
植民地制度そのものであった、と言う。

女史も、植民地という意識である。
日本は、植民地にしたのではない。
併合であり、合邦国家だった。

しかし、アメリカ人が、このように、日本の統治を評価したことは、事実である。
当然、発売禁止、翻訳禁止になるだろう。

現在の日本の中でも、朝鮮半島を、植民地にしたという人は、いる。
反日左翼、在日関係、その他、諸々・・・

朴氏が、書く、
韓国統治の収支決算では、韓国のなかでも多くの有識者が、「日本は敗戦によって投資した額の三分の一も回収できなかっただろう」とか、「いや、三分の一以上は回収したはすだ」とか「全部回収したはずだ」などと話し合うことが、しばしばある。それなのに公式の席上や、あるいはマスコミのうえではいっさい触れないのが実情である。

日本は、投資、更にたま、投資したのであり、回収などしていない。
出しっ放しである。

それでも、未だに、韓国、韓国人は、日本からの、金が欲しいようで、日韓の政府が約束したことをも、無かったことにしているという、実に、馬鹿げた、有様である。

完全かつ最終的に解決している。

本当のところ、敗戦後に、韓国には、一銭足りとも、支払う必要はなかった。
充分過ぎるほど、日本は、朝鮮で、支出したのである。

posted by 天山 at 06:57| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月17日

打倒・韓国62

韓国は独立回復後に、同じ民族間の不和と、南北間の韓国動乱によって失われた人命のほうが、日本によって奪われた人命よりもはるかに多いのだ。もう半世紀もたった過去の悪かった面だけに執着せずに、過去の歴史を公正に評価して、正しい歴史観をもって明日への新しい道を開くことこそ、わが民族のためになるものと信じる。
朴テヒョク

と、いうこで・・・
半世紀以上経っても、まだまだ、韓国は、目覚めないし、目覚める動機もない。
更に、蒙昧になっている。

日本によって奪われた、人命とは、大東亜戦争、第二次世界大戦に出た、韓国人兵士なども、含まれるのだろう。
当時の韓国は、日本であるから・・・

ところが、韓国は、戦勝国だと、思いたがっている。
明らかに、狂っているのである。

シンシアリー氏も驚いていたが、韓国人は、進んで日本軍の兵士となること、更には、特攻攻撃にまで、参加しているのである。

日本と共に、戦ったのである。
ところが、日本が敗戦すると、我等は、戦勝国だと、言う。

これも、歴史の改竄である。
こうして、何から何まで、歴史を改竄している。

朴テショク氏が、言う、正しい歴史観などというものを、いつまでも、持つことが出来ない。それが、韓国人であり、そういう定めなのだろう。

日本は、今日の韓国の発展の基礎を築いた。独立を回復した後についても、同じことがいえる。朴セイキ大統領が政権を掌握したときに、韓国は外貨がそこをついていた。朴政権はこれで工業立国の道を開くことができないということから、1965年日韓国交正常化を断行した。そのとき締結された「財政及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」によって、日本は韓国へ無償で三億ドルと長期低利の借款として二億ドルを、十年間にわたって供与することが定められた。この資金が韓国のその後の工業発展を可能にする、起用力なバネとなった。
朴テショク

韓国人が、自ら、そのように言うのである。
果たして、日本は、そのようにする、理由があったのか・・・

欧米列強は、植民地支配にした国々に、そのようなことを、したか・・・

日本は、併合国家韓国に対して、敗戦後も、真っ当に、支援を続けたのである。
真っ当にとは、好意である。

現在の韓国であれば、決して、支援などしなかったはず。
日本国民が、許さない。

日本による韓国統治は、総体的にいって韓国に大きな恩恵をもたらした。日本は今日でも韓国にとって、よいモデルを提供してくれている。それに今後の韓国の発展のために、韓国は日本の善意と友情をどうしても必要としている。日本の協力なしに、韓国は立ちゆくことができない。これは事実だ。もし韓国人が「不幸な過去」にこだわり続けるとすれば、その「不幸な時代」が日本統治時代すべてが悪かったというように、歪んだレンズを通して誇張されているだけに、日本国民の信頼と好意を確保することはできまい。


もう、すでに、日本国民の信頼と好意を確保することが、出来なくなっている。
そして、後戻りが出来ないのである。
つまり、韓国の自滅である。

ASEANの外相会議で、韓国が、日本非難を繰り広げると、また、始まったと、インドネシアの代表が、それを遮り、言った。
我が国も、日本という隣国があれば、もっと、発展していたはずである、と。

韓国人は自分の過ちを他人のせいにする。という悪い癖がある。これは李朝の酷政のもとに生きることを強いられたために、自分の責任を認めることがあれば、大きな災難に出会ったからである。そこで、自分をつねに正当化して、他を責めることが習性となってしまった。


その通りだろう。
それ以外の、方法を見いだせないのである。

しかし、悲しいことは、その習性を治すことが出来ないという、病理である。
治療不可能なのである。

そのうえ韓国人は思いあがりやすい。韓国の青年たちと話していると、韓国がやがてアジアの中心になると考えている者が多い。韓国人はいたずらに自尊心が強いのだ。だから、人のできることは、自分もできると安易に思いやすい。


この本が、出版されたのは、25年程前である。
当時の青年は、今頃は、50歳前後である。
韓国は、アジアの中心になるどころか、アジアの荷物になっている。

現在の韓国人の、八割が、他国に移住したいと、考えている程、韓国は、最低の国になっている。
更には、アジアから、最も嫌われている、中国と同じ程度、それ以上に、嫌われている。
そのことを、決して認めないだろうが、事実である。

まして、世界的には・・・
韓国のことなど、意に介さない国々、多数。

そして、いずれ、嘘がバレると、つまり、従軍慰安婦問題などでの、大嘘である。

アメリカの公式文書などでは、強制性など、認められていないし、嘘だと、知る人が多々いる。
更に、アメリカが、それを持ち出せば、アメリカも、とんでもない行状が、暴露されるから、静かにしているが・・・
いずれ、アメリカの政治家の中に、明確に、韓国の嘘を言う人達が、現れる。
それが、世界的に広がれば、韓国は、大恥をかき、更には、世界から信用されない国になる。

各地に建てている、慰安婦像なるもの・・・
一体、その後の処置を、どうするのだろうか。

本当に、目覚めないと、韓国は、自滅し、消滅するはずである。
歴史が、それを、教える。

posted by 天山 at 07:54| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

打倒・韓国63

韓国は、謙虚に日本から学ぶべきである。日本を教科書にして、どこが悪いのだろうか?
日本も戦争に敗れると、謙虚にアメリカに弟子入りして、1970年代ごろまではそのような状況が続いていた。もっとも、韓国の民衆はけっして反日ではない。日本を尊敬している。韓国を旅行する日本人はみな、敬意をもって扱われる。もし、韓国政治家や、マスコミがいうように韓国民が日本に対して怒っているのであれば、なぜ日本の流行歌があれだけはやるのだろうか? なぜ、日本製品を信用するのだろうか?・・・


当時は、まだ良かったのであろうと、思う。
しかし、朴氏の、予知は、無残にも、破れた。

韓国の民衆は、反日である。
親日だとしたら、韓国社会では、生きられない。
抹殺される。

マスコミは、日本も韓国も、同じようである。
決して、マスコミは、信用出来ない。
作り上げた情報を、発信する。

政治家は日本へ怒りを向けることによって、自分の欠陥を隠すことができるし、マスコミにとっても日本を攻撃することが好都合だから、正しい視点を欠いたのだ。


それは、日本も同じである。
ただし、政治家の場合は、与野党に関わらず、親韓議員がいる。
売国的とも言っていい、政治家も多数いる。

日韓議員連盟などの、議員たちである。
親韓議員を非難はしない。
真っ当ならば、それでいいが、日本の国益を損ねても、親韓であるという、議員も多々いる。

日韓友好は、成り立たない、韓国の状態である。

更に、朴氏は、
韓国人の多くも日本を攻撃することによって、自分の欠陥から目をそらすことができる。
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿岸州に三十万人以上の韓国人が住んでいた。ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で十二万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。
と、書く。

何故、日本にだけは、違うのか・・・
この底には、侮蔑があるとの、指摘は、呉善花氏の指摘であるが。

侮蔑する人と、真っ当な、付き合いが出来るものか。
私を、侮蔑する人とは、会うことは、ない。
そして、会う必要もない。

朴氏の、著書の最後に、
韓国もようやく、よい方向へ向かう兆しが見えはじめている。
と、結んでいるが・・・

全く、良い方向どころか、日本には、日韓断交を掲げる団体が出来た程、関係は、悪化している。

その、日韓断交に賛成する人は、年毎に、増えているのだ。

私は、韓国の反日教育が、終わらない限り、無理だと、思っている。
そして、それは、終わらない。
だから、日韓断交は、可能性がある。

その、反日教育の、凄まじさといったら、ない。
中国の、反日教育も同じだが・・・

大嘘の歴史を、事実として、教えている。
何処に、友好の隙があろうか。

全く、絶望的な、日韓関係である。
これが、極端に進むと、本当に、断交してしまうだろう。

逆に、日本は、自虐史観というものを、今も、抱き続けている。

単純に、日本は悪いことをしたという、感情論である。
徐々に、それも、薄れつつあるが・・・

反日左翼、反日在日、その他・・・
どうしても、日本を、悪者にしたい、人達が、日本にはいる。

そして、韓国の反日運動を、煽るのである。

国益を無視して、親韓である、政治家も多くいる。
いずれ、日本国内では、その対立が、先鋭化するだろう。

更に、よく知ること無く、発言する者共、である。
一番悪いのは、無関心な人達・・・

最も、憂いべくは、事実を証言すると、右翼、愛国者などと、言われる。
日本では、愛国者と言われることは、変態なのである。

不思議な国で、日の丸を掲げると、変態だと、思われるという、日本国民の、変態ぶりである。

何せ、公立学校の教師たちが、国旗掲揚、国歌斉唱に対して、思想、信条の自由があり、と、拒絶するという、愚昧である。

呆れる。
世界的常識、世界的礼儀作法を、拒否するという、甚だしさである。
そして、それらが、親韓なのであるから、驚く。

更に、韓国、韓国人に対する、非難の言葉を、ヘイトスピーチというが、韓国の中で繰り広げられる、日本に対する言葉、行為などは、無視される。

韓国では、日の丸を、破り、焼くのである。
あの行為は、国際的にも、非難されるべき行為である。
そのような、国民と、日本が、まともに付き合うことが、出来るのか・・・
出来る訳がない。

posted by 天山 at 07:16| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

打倒・韓国64

日韓併合条約に署名した、総理大臣、李完用は、現在の韓国では、売国奴の代表にされている。

1905年、李は、第二次日韓協約が結ばれたときに、学部大臣として、外部大臣、内部大臣、農商大臣、軍部大臣の四人と共に、韓国では、「五賊」の一人と言われている。

朴氏が、書く。
李完用はソウルの両班の出身である。私が調査したところでは、高潔な人格者だった。韓国の王羲之(中国の名筆家)といわれるほど書がすばらしかった。独立回復後の韓国ではあれほどまでに悪くいわれてきたのに、不正蓄財を行なったとか、妾の持っていたとか、農民や、民衆を苛めたといった非難が行われたことはない。

李完用は韓国が独立を回復した後に、最大級の売国奴とされてきたために、今日まで伝記が一冊も書かれたことがない。もし伝記を欠いたとしたら、傑出した人物だったことがわかってしまうからである。

と、いうように・・・
韓国では、都合の悪いものは、蓋をする、あるいは、埋めてしまうのである。

真っ当な、歴史的事実も、同様である。

李完用は李朝末期に苦悩したうえで、日本と結び、最終的には日本と合併するほかには国を救う道がないと誠実に感じて、あのような行動をとったにちがいあるまい。李完用も歴史の囚人であったのであり、愛国者だった。


その通りだろう。
日韓併合は、大成功したのである。

ところが・・・

韓国人は、韓国が第二次世界大戦後に独立を回復してから、日本に対して、日本が韓国を略奪したということを許すことができない、という怒りを向けてきた。このような心情は充分に理解できることである。しかし、日本へ向けての非難を裏返ししてみれば、あの時期に日本が韓国を統治しないでいられたはずだ、という前提がなければならない。


韓国は、独自で、独立を勝ち取ることも、更に、近代国家に向かうことも出来なかったはずである。
それは、李朝末期を何度も見てきたが、絶望的である。

朴氏が、書く。
韓国は、日本が統治するまでは、中国の属国であって、独立国ではなかった。
と、明確に、韓国人が、言うのである。

今では、それさえも、屁理屈をつけて、否定する。
要するに、自己を真っ当に、見つめる目を持たないのである。

朴氏は、その前に、こうも書く。
しかし、当時の韓国のほんとうの悲劇は、今日からあの時代まで遡って、歴史に「イフ」を設定することができないことである。あのときの韓国はまったく無力だった。東アジアにおいて真空状態をつくりだしていたのだ。李朝末期は、まるで朽ちた枯れ木だった。南に日本があり、北にはロシアと清という二つの強大な帝国が控えていた。もし、日本が韓国を統治することがなかったとしても、韓国は独立を保ちえなかったことだろう。

それを、現在の韓国人は、考えられない程、頭がやられているのだ。

妄想、想像の歴史観である。
これは、何度も書いている。

当時の、世界は、欧米列強の、時代である。
弱い者は、倒される時代。

だから、日本が、統治しなければ、あっさりと、シロア、中国に、編入されていた。

朝鮮を最初に、独立国として、扱ったのは、日本である。
1875年、朝鮮と称していた韓国に、修好条規を締結した際に、第一条を、朝鮮を「自主の邦」と規定して、独立国として、扱い、それは韓国を、それまでの、中国を中心とした秩序を破るものだった。

この時点で、日本は、朝鮮統治を考えてはいない。

その後、ロシア、ヨーロッパ諸国、アメリカも、1882年以降、次々と、朝鮮と修好通商条約を締結して、進出をはかるようになる。

日本にとっては、欧米諸国が、朝鮮半島に入ることは、日本の安全を脅かすものだった。
そこで、日本は、朝鮮が、他国の支配下に入ることがないように、韓国の近代化を促し、その近代化を助けて、韓国を、しっかりとした独立国として、育てようとしたのである。

日本にとっても、韓国が安定していることが、国益に叶ったのである。

だが、韓国から見れば、日本以外の、欧米列強、シロア、清などの支配下に入るより、日本が関わったことが、最大の、幸運だった。

もし、何処かの国の、植民地になれば、現在の韓国の存在は、なかった。
日本の統治のように、他の国がしただろうか・・・

日本以外の国であれば、植民地とは、略奪、掠奪、収奪の対象とされる。

特に、李朝末期であれば、韓国人は、野蛮そのものであった。
以前にも書いたが、とても、人間の暮らしというものではなかった。

日本統治以前の、ソウルの写真を見ても、それは、一目瞭然である。

暮らしといっても、土人の暮らしである。
糞尿に溢れた、街々・・・
救いようがない程の、庶民の暮らしだった。

何度も書いたので、省略する。

さて、やはり、清国も、日本や欧米諸国が、朝鮮に積極的に進出を図っていることに対し、警戒心を強め、韓国に対する、干渉をはじめたのである。

そこからは、以前に書いた通り、日清戦争へと続く道である。

もし、日本が、救いの手を差し伸べなかったら・・・
朝鮮、韓国は、他国の手に落ちていた。
それ以外の、道は無かったのである。
posted by 天山 at 06:51| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

もののあわれについて791

げにさも思しぬべき事と、あはれに見奉り給うて、源氏「その焔なむ、誰も逃がるまじき事と知りながら、あしたの露のかかれる程は、思ひ捨て侍らぬになむ、目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせ給はざらむものから、玉のかんざし捨てさせ給はむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。やうやうさる御心ざしをしめ給ひて、ものさわがしきやうに、静かなる本意もなきやうなる有様に、明け暮らし侍りつつ、みづからのつとめに添へて、いま静かにと思ひ給ふるも、げにこそ心幼き事なれ」など、世の中なべてはかなく、いとひ捨てまほしきことを、聞えかはし給へど、なほやつしなく御身の有様どもなり。




そのように、考えるのは、当然だと、中宮の心を、気の毒に思い、源氏は、その焔は、それは、誰もが逃れることができないと、分かっていながら、露のような命の消えない間は、この世を、捨てられません。目蓮は、仏に近い、聖でいて、すぐに母親を助けたいという故事に続く、第二の例は、付け加えることは、お出来にならないでしょう。ご出家遊ばしても、この世には、恨みが残ることです。だんだんと、そういうお気持ちを強くなさり、あの苦しみの煙が、綺麗になるような事をして下さい。私も、出家しようと考えることも、ございますが、何か、ざわざわとして、静かにしていたいという、願いも叶えられない有様で、毎日を過ごしています。自分のために、勤行と一緒に、お母さまの供養も、そのうちに、静かにと存じますが、いかにも、至らない考えでした。など、この世は、何もかも無常であり、出家したいことを、お互いに、お話し合いされるのだが、それでも、出家は、難しい、お二人の有様なのである。




よべはうち忍びてかやすかりし御ありき、今朝はあらはれ給ひて、上達部なども、参り給へるかぎりは皆御送り仕うまつり給ふ。東宮の女御の御有様のならびらく、いつきたて給へるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほこの冷泉院を思ひ聞え給ふ。御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞ覚え給ふ。院も常にいぶかしう思ひ聞え給ひしに、御対面の稀にいぶせうのみ思されけるに、いそがされ給ひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。




昨夜は、こっそりと、お手軽なお出ましだったが、今朝は、知れてしまい、上達部に至るまで、上皇御所にお出でになった方、皆が、揃って六条の院に、お供をお勤めになる。東宮の女御は、並ぶ者のないご様子で、大事に育てただけのことはあり、大将、夕霧は、他の連中と、かけ離れて、優れていて、どちらも安心だと、源氏は、思うのである。
それでも、この冷泉院を心配される気持ちは、二人の子供以上であり、心から気にしている。冷泉院の方でも、いつも気にされていらっしゃるが、ご在位中は、お会いすることが、ほとんどなかったので、気がかり思っていらしたため、気がせいて、このように、気楽な状態になりたいと、ご譲位されたのである。

冷泉院とは、源氏の隠し子である。
本当の親子になる。




中宮ぞ、なかなかまかで給ふ事もいと難うなりて、ただ人の中のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもし給ふ。何事も御心やれる有様ながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行の御心すすみにたるを、人の許し聞え給ふまじきことなれば、功徳のことを、たてておぼし営み、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさり給ふ。




中宮、秋好む中宮は、今は、かえって、お里下がりが大変出来にくくなり、臣下のご夫婦のように、いつもご一緒に、いらっしゃる。現代風なご生活は、かえって、昔より、派手で、音楽会などもされる。
何事も、ご満足のゆくご様子なのだが、ただ、あのお母さまのことを考えて、仏道修行のご希望が、強くなったが、お許しが出そうもないことなので、お母さまの、追善供養を主にして、なさり、益々と、信仰心が深くなり、この世を、無常と悟ったご様子が、強くおなりである。

敬語続きで、現代文にするのは、大変である。
すべて、敬語で、敬語の敬語である。

とりあえず、鈴虫を、終わる。
次は、夕霧、である。

posted by 天山 at 06:56| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

もののあわれについて792

夕霧

まめ人の名をとりて、さかしがり給ふ大将、この一条の宮の御有様を、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねんごろにとぶらひ聞え給ふ。下の心には、かくてはやむまじくなむ、月日にそへて思ひ増さり給ひける。御息所も、あはれにありがたき御心ばへにもあるかな、と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えずおとづれ給ふに、慰め給ふ事ども多かり。




堅物との、仇名をとって、いい気でいられる大将は、この一条の宮のご様子を、やはり、いいなと、忘れられず、世間の人目には、昔のよしみを忘れない、心遣いと見せながら、心を込めて、お見舞い申し上げる。その心の中では、このままでは、済まされないと思いつつ、月日が経つに連れて、思いが、募ってゆくのである。
御息所も、実に、珍しい親切なお方だことと、今では、いよいよ心細いお暮らしを、大将不断のご訪問で、紛らわせなさることが、多い。




初めより懸想びても聞え給はざりしに、ひきかへし懸想ばみまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見え奉りて、うちとけ給ふ折もあらじやは、と思ひつつ、さるべき事につけても、宮の御けはひ有様を見給ふ。みづからなど聞え給ふ事はさらになし。いかならむついでに、思ふ事をまほに聞え知らせて、人の御けはひを見む、と思しわたるに、御息所、もののけにいたうわづらひ給ひて、小野といふわたりに山里持給へるに、渡り給へり。早うより御祈りの師にて、もののけなど払ひ捨てける律師、山籠りして、里に出でじと誓ひたるを、ふもと近くて、請じおろし給ふ故なりけり。御車より始めて、御前など、大将殿よりぞ奉れ給へるを、なかなかまことの昔の近きゆかりの君達は、事わざしげきおのがじしの世の営みに紛れつつ、えしも思ひいで聞え給はず。弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことのほかなる御もてなしなりけるには、しひて、えまでとぶらひ給はずなりにたり。




最初から、色恋の素振りは、お見せにならないのに、打って変わって、恋心を見せ、態度を崩しても、気恥ずかしい。ただ、真心をお見せして、心を許して下さる時もなくはないだろうと、思いつつ、何か事のある時などに、宮の感じや、様子を注意して、ご覧になる。宮ご自身でなど、お声をお聞かせ下さることは、全く無い。どんなきっかけで、胸の内を、まっすぐに、打ち明けて、あちらの態度を見ようと、考え続けているうちに、御息所が、物の怪に酷く悩み、小野というところに山荘を持っていらしたのに、お移りになられた。昔から、祈祷師として、物の怪などを、追い出していた律師が、山籠りして、俗界に出まいと誓っていたのを、麓近くに行き、下山をお頼みするためだった。
お車のことを始めとして、御前駆などは、大将殿から、差し向けられたのに、反対に本当の昔の、近親の若様方は、することの多い、それぞれの生活に気を取られて、宮のお世話を、考えないのである。弁の君は、また、宮に気のないこともなくて、その、素振りを見せたのだが、厳しいご挨拶だったので、おして、参上しての、お世話は、為さりにくくなっていた。




この君は、いとかしこう、さりげなくて、聞えなれ給ひにためり。修法などせさせ給ふと聞きて、僧の布施浄衣などやうの、こまかなるものをさへ奉れ給ふ。なやみ給ふ人はえ聞え給はず。女房「なべての宣旨書は、ものしと思しぬべく、ことごとしき御さまなり」と人々聞ゆれば、宮ぞ御返り聞え給ふ。いとをかしげにて、ただ一くだりなど、おほどかなる書きざま、ことばもなつかしき所かきそへ給へるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞えかよひ給ふ。「なほつひにあるやうあるべき御なからひなめり」と、北の方けしきとり給へれば、わづらはしくて、まうでまほしう思せど、とみにえ出で立ち給はず。




この方は、とても、上手に、そんな、素振りは見せずに、親しくしていらしたらしい。修法など、させ給うと聞いて、僧の布施や浄衣などのような、こまごまとしたものまで届けて、差し上げる。病人は、お礼を申し上げることも出来ない。ありふれた代筆は、けしからぬと思いましょう。重々しいお方です。と、女房たちが、申し上げるので、宮が、お返事をお書きになる。とても綺麗な字で、ほんの一行ほど、おっとりとした、筆つかいで、優しい言葉も、お書きになるので、一層見たく、手紙から目が離せなず、しきりに、御文をやり取りされる。
やはり、結局は、ただでは済みそうにないお二人だ、と、北の方が様子を察して、面倒になって、訪問したいが、急には、お出かけになれない。




八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしき頃なるに、山里の有様いとゆかしければ、夕霧「なにがし律師のめづらしうおりたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所のわづらひ給ふなるとぶらひがてら、まうでむ」と、おほかたにぞ聞えごちて、いで給ふ。御前ことごとしからねど、したしきかぎり五六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さるいはほならねど、秋のけしきつきて、都に二となくと尽くしたる家居には、なほあはれも興もまさりてぞ見ゆるや。




八月二十日の頃なので、野原の景色も、美しい時節で、山里の様子が、とても、気になるので、夕霧は、何々の律師が、久しぶりに山から下りたそうだが、是非にも、相談しなければならないことがある。御息所の患うのも、お見舞いがてらに、参ろうと思う。と、よそ事のような、申訳をして、お出かけになる。お供の人数も、大げさにせず、身近に使っている者、五、六人ほどが、狩衣姿で、お供する。
特に、山奥に行くのではないが、松ヶ崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい色になっていて、都では、またとないほど、数寄を凝らした住居より、美しさも、風情も、まさって見えるのだ。

なほあはれも興もまさりて・・・
色々な形容になるが、美しさも、風情も、あはれと言うのである。

あはれ、という、言葉の、風景が広がる。
何度も言うが、心象風景の広がりである。

極端に言えば、美しさも、醜さも、あはれ、という言葉で、表現できるのだ。
その意味は、前後、あるいは、その時の、場の雰囲気によって、決まる。

便利な言葉であるが・・・
それを、日本人は、所作にまで、高さめたのである。
あはれなる所作である。
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2016年02月24日

もののあわれについて793

はかなき小柴垣も、ゆえあるさまにしなして、かりそめなれど、あてはかに住まひなし給へり。寝殿とおぼしき東の放出に、修法の壇ぬりて、北の廂におはすれば、西おもてに宮はおはします。御もののけむつかしとて、とどめ奉り給ひけれど、いかでか離れ奉らむと渡り給へるを、人に移り散るをおぢて、すこし隔ばかりに、あなたには渡し奉り給はず。




簡単な、小柴垣も、趣のあるように作り、一時のことではあるが、品の良い住み方をしていられる。寝殿らしい、建物の東側の放出に、修法の壇を塗りあげて、北の廂に、御息所がいらっしゃる。西座敷には、宮がおいで遊ばす。物の怪が強いからと、お止め申したが、どうして、お傍を離れましょうと、後を追って、お移りされたが、物の怪が人に移るのを恐れて、少しの隔てだけでもと、そちらには、お入れ申し上げない。




まらうどの居給ふべき所のなければ、宮の御方のみすの前に入れ奉りて、上臈だつ人々、御消息聞え伝ふ。御息所「いとかたじけなく、かうまで宣はせ、渡らせ給へるをなむ。もしかひなくなりはて侍りなば、このかしこまりをだに聞えさせでや、と思ひ給ふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つき侍りぬる」と聞えいだし給へり。夕霧「渡らせ給ひし御送りにも、と思う給へしを、六条の院に承りさしたる事侍りし程にてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るる事侍りて、思ひ給ふる心の程よりは、こよなくおろかに御覧ぜらるる事の、苦しう侍る」など聞え給ふ。




お客の、座るような場所がないので、宮のお部屋の御簾の前に、お入れして、上臈にあたる人々が、ご挨拶をお伝え申し上げる。御息所は、とても、もったいないことに、このようにまで、仰せになり、おいで遊ばしになられたのに。もし、余命が尽きましたら、この御礼さえ、申し上げないままになるのではと、存じますと、もう少し、生き延びたいという気持ちが、出てまいりました。と、御簾の中から、申し上げる。
夕霧は、お移り遊ばした時の、お供をいたそうと思っておりましたが、六条の院の方に、承ったままの用事がありました時でして。このところ、何やかにやと、手のかかることがございまして、思っていた心に比べますと、誠意がないと、思いいただくのが、心苦しく思われます。などと、申し上げる。




宮は、奥の方にいとしのびておはしませど、ことごとしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかに、うちみじろきなどし給ふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞き居給へり。心も空におぼえて、あなたの御消息かよふほど、すこし違う隔たるひまに、例の少将の君など、さぶらふ人々に物語などし給ひて、夕霧「かう参り来なれ、承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせ給へる恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、ひとづての御消息などの、ほのかに聞え伝ふることよ。まだそこならはね。いかに古めかしきさまに、人々ほほえみ給ふらむと、はしたなくなむ。齢つもらず軽らかなりしほどに、ほの好きたるかたに面なれましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくずくしう、おれて年ふる人は、たぐひあらじかし」と宣ふ。




宮は、奥の方に、ひっそりと、おいで遊ばすが、充分ではない、旅のお部屋の仕切りに、奥深くない、御座の位置なので、内のほうのご様子が、ひとりでにはっきりと伝わる。とても、静かに、身動ぎなどされる、お召の音を、あのあたりと思い、聞いて、出でになる。心も、上の空になり、あちらへご挨拶を伝えている間、少し永く手間取っているうちに、例により、少将の君など、控えている人々に、話などされて、夕霧は、こうして、よくこちらに伺い、御用をたまわること、何年というほどにもなったのに、あまりにも、よそよそしいお扱いを、遊ばすのが、恨めしくて。こんな御簾の前で、人伝のご挨拶などを、ほのかに、お伝え申し上げるとは。まだ経験したことがない。何とも古風な人だと、皆さん、笑っていらっしゃるだろう、決まりが悪くて。齢もゆかず、位も低かった頃に、色めいた振る舞いをしつけていたら、こう、初な恥ずかしさも、味合わなかったろうに、全く、このように生真面目で、愚かに生きてきた者は、二人とあるまい。と、おっしゃる。




げに、いとあなづりにくげなるさまし給へれば、女房「さればよ」と、「なかなかなる御いらへ聞え出でむは、恥ずかしう」などつきじろひて、「かかる御うれへ、聞こし召し知らぬやうなり」と宮に聞ゆれば、女二「みづから聞え給はざめるかたはらいたさに、かはり侍るべきを、いと恐ろしきまでものし給ふめりしを、見あつかひ侍りし程に、いとどあるかなきかのここちになりてむ、え聞えぬ」とあれば、夕霧「こは宮の御消息か」といなほりて、夕霧「心苦しき御なやみを、身にかふばかり嘆き聞えさせ侍るも、何の故にか。かたじけなけれど、物を思し知る御有様など、はればれしきかたにも見奉りなほし給ふまでは、たひらかに過ぐし給はむこそ、たが御ためにもたのもしきことには侍らめ、とおしはかり聞えさするによりなむ。ただあなたざまに思しゆづりて、つもり侍りぬる心ざしをも、知ろしめされぬは、ほいなきここちなむ」と聞え給ふ。「げに」と人々も聞ゆ。




確かに、とても軽くなどは、扱えないご様子でいらっしゃるので、矢張りと、女房は、変なご返事を申し上げるのは、気が引けます。など、つつき合って、これほどのお願いを、お分かりないみたいです、と宮に、申し上げると、女二宮は、ご自身で、申し上げなさらないご無礼に、私が、代わるところですが、とても、怖いほどのご様態でいるようでしたのを、看護しておりましたうちに、私も益々、生きているやら、どうしていいやら、分からない気分になりまして、ご返事、申し上げられません。ということなので、夕霧は、これは、宮のお言葉かと、居住まいを正して、おいたわしいご病気のご判断が、すっきりとなるまでは、母君がお元気でいらっしゃることが、どちらさまのためにも、こころ強いことでございましょうと、ご推察申し上げるからなので。ただ、母君の事ばかりとお考えになり、長年に渡ります、心の程を、お汲み取りくださらないのは、無駄をした気がします。と、申し上げる。本当に、と女房たちも、申し上げる。




日入り方になりゆくに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭はをぐらきここちするに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふるなでしこの、うちなびける色もをかしう見ゆ。前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松のひびき木深く聞えわたされなどして、不断の経よむ時かはりて、鐘うち鳴らすに、立つ声も居かはるも一つにあひて、いと尊く聞ゆ。所がら、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれに物思ひつづけらる。いで給はむここちもなし。律師も加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。




日は、傾きかけて、空の様子も、しんみりと、あはれに霧が立ち込めて、山の蔭は、薄暗い気がして、ひぐらしは、しきりに鳴き、垣根に生えている、なでしこの風になびいている色も、美しく見える。前の、前栽の色々な花は、思いのまま咲き乱れ、鑓水の音は、とても、涼しそうで、山おろしが、凄いように吹き付け、松風の響きは、奥にこもって、いっぱいに聞こえる。不断の経を読む交替の時間になり、鐘を打ち鳴らすと、立つ僧の声も、入れ替わり僧の声も、一つになって、尊く響く。場所が場所だけに、あらゆることが、心細く見えてくる。あはれに、物思いに耽ってしまう。お出になる気持ちもない。律師も、加持する物音がして、陀羅尼を尊く読むのが聞こえる。

この場合の、あはれ、は、状況説明の、あはれ、である。
また、心の動き。
その有様を、あはれ、という。

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2016年02月25日

もののあわれについて794

いと苦しげにし給ふなりとて、人々もそなたにつどひて、おほかたも、かかる旅どころにあまた参らざりけるに、いとど人ずくなにて、宮はながめ給へり。しめやかにて、思ふこともうちいでつべき折かなと、思ひ給へるに、霧のただこの軒のもとまで立ち渡れば、夕霧「まかでむ方も見えずなりゆくは、いかがすべき」とて、

夕霧
山里の あはれをそふる 夕霧に 立ちいでむ空も なき心地して

と、聞え給へば、
女二の宮
山がつの まがきをこめて 立つ霧も 心そらなる 人はとどめず

ほのかに聞ゆる御けはひに、なぐさめつつ、まことにかへるさ忘れはてぬ。




とても、苦しそうにしていられるようだとあり、女房たちも、御息所に集まって、普通は、こんな仮住居に、沢山はお供しなかったのに、いっそう、人少なく、宮は、物思いに沈んでいられる。夕霧は、心の内を打ち明けるのによい折と思っていると、霧が、この軒の所まで立ち込めたので、夕霧は、出てくる方角も、わからなくなったようで、どうしたものでしょう。と、言い、

夕霧
山里の、物寂しさを募らせる、この夕霧の中を、帰ってゆく気持ちには、なれません。

と、申し上げると、


卑しい、山里の垣根を包み込める霧も、ここに、気持ちのない人は、引き止めないのです。

微かに聞こえてくるご様子に、心を慰めながら、本当に、帰るのを、忘れてしまった。




夕霧「中空なるわざかな。家路は見えず、霧のまがきは、立ち止まるべうもあらずやらはせ給ふ。つきなき人はかかる事こそ」などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞え給ふるに、年頃もむげに見知り給はぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなし給へるを、かく言にいでて恨み聞え給ふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、またかかる折りありなむや、と思ひめぐらし給ふ。「なさけなう、あはつけき者には思はれ奉るとも、いかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせ奉らむ」と思ひて、人を召せば、御司のぞうよりかうぶり得たる、むつまじき人ぞ参れる。しのびやかに召し寄せて、夕霧「この律師に、必ずいふべき事のあるを、護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりにとまりて、初夜の時はてむ程に、かの居たるかたにものせむ。これかれ候はせよ。随身などの男どもは、栗裾野の荘近からむ。まぐさなど取りかはせて、ここに人あまた声なせそ。かうやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」宣ふ。あるやうあるべし、と心得て、承りて立ちぬ。




夕霧は、気持ちが落ち着かない。帰り道は見えないし、霧のこめたこのまがきは、立ちどまることも出来ないまでに、追い払われ遊ばす。物慣れない者は、こんな目に遭う。などと、ぐずぐずして、抑えきれない思いを、少し打ち明けられるが、これも、まるで、気づかないわけではないが、知らない顔で、通してきたのに、こうして、言葉に出して、お恨み申し上げると、うるさくなり、いよいよ、お返事もないので、ひどくがっかりしつつ、内心では、二度と、こんな機会があろうか、と思案を巡らす。
酷い人、考えのない人と、思われても、今更、どうしよう。長年思い続けてきた事だけでも、知っていただこう。と思い、供人をお呼びになり、右近衛府の将監から叙爵した、側近の者が参上した。そっと、お傍に呼び寄せて、夕霧は、ここの律師に、どうしても、言っておかねばならない事があるが、護身などで暇もなさそうだ。今頃は、休んでいるだろう。今晩は、この辺りに泊まって、初夜の終わる頃に、律師のいる場所に行こう。誰と誰をおいてゆけ。随身の者共は、栗栖野の荘だ近くだ。馬に、まぐさなどを食わせて、ここは、大勢の声を立てずに。このような所で泊まるのは、ふさわしからぬと誰もが、考えるだろう。とおっしゃる。何か訳があるのだろうと知り、承知して、去った。




さて、夕霧「道いとたどたどしければ、このわたりに宿かり侍る。同じうは、このみすのもとに許されあらなむ。阿闍梨のあるる程まで」など、つれなく宣ふ。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきもも見え給はぬを、うたてもあるかな、と宮おぼせど、ことさらめきて、かるらかにあなたにはひ渡り給はむも、あさましきここちして、ただ音せでおはしますに、とかく聞え寄りて、御消息きこえ伝へにいざり入る人の影につきて、入り給ひぬ。




そうして、夕霧は、帰り道がはっきりしないので、この辺に、宿をお借りします。同じことなら、この御簾の傍をお許し下さい。阿闍梨が控え所に下がる時分までです。などと、何食わない顔で、おっしゃる。いつもは、このように長居して、ふざけたような態度は、見せないのに、困ったことだと、宮は考えるが、わざとらしく、さっさと、あちらへ座をお移しになるのも、具合の悪い気がして、ただ、音を立てずに、お出で遊ばすと、あれこれと言い寄って、お言葉を申し伝えに、奥にいざり入る女房の影に隠れて、御簾の内にお入りになった。




まだ夕暮れの、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたる程なり。あさましうて見返りたるに、宮は、いとむくつけうなり給うて、北の御障子のとにいざりいでさせ給ふを、いとようたどりて、引きとどめ奉りつ。御身は入りはて給へれど、御ぞのすその残りて、障子はあなたよりさすべきかたなかりければ、引きたてさして、見ずのやうにわななきおはす。人々もあきれて、いとわりなくて、あらあらしくはえ引きかなぐるべくはた物し給はねば、女房「いとあさましう。思う給へよらざりける御心の程になむ」と、泣きぬばかりに聞ゆれど、夕霧「かばかりにて候はむが、人よりけに、うとましうめざましう思さるべきにやは、数ならずとも、御耳なれぬる年月も重なりぬらむ」とて、いとのどやかにさまよくもて静めて、思ふ事を聞え知らせ給ふ。




まだ夕暮れなのに、霧に閉じ込められて、家の内は、暗くなっているころ。女房は、びっくりして、振り返ると、宮は、薄気味悪くなり、北側の、襖の外に、いざってお出ましになった。とてもうまく探り当て、お引き止めした。お体は、出てしまわれたが、お召し物の裾が残り、襖は、あちらから止め金のかけようもないので、閉めたまま、水のように、震えている。
女房たちも、呆れて、どうしたらよいのか、考えもつかない。こちらから止め金もあるが、困り切って、手荒く引き離す事のできるご身分のお方でも、ないゆえ、女房は、何とひどいことを。思いもかけないお心です。と、泣くように申し上げるが、夕霧は、この程度、お傍にいるのが、誰にもまして、いやらしい、けしからぬと、お考えになるようなことでしょうか。つまらない私ですが、お耳に慣れての、年月も、随分になりましょう。と、悠々と、焦らず、体裁よく、落ち着いて、心の中をも申し上げる。


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2016年02月26日

もののあわれについて795

聞き入れ給ふべくもあらず、くやしう、かくまで、と思す事のみやるかたなければ、宮はむこと、はたましておぼえ給はず。夕霧「いと心うく若々しき御さまかな。人知れぬ心に余りぬるすきずきしき罪ばかりこそ侍らめ、これよりなれ過ぎたる事は、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、ちぢにくだけ侍る思ひにたへぬぞや。さりとも、おのづから御覧じ知るふしも侍らむものを。しひておぼめかしう、けうとうもてなさせ給ふめれば、聞えさせむかたなさに、いかがはせむ。ここちなく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべきうれへを、さだかに聞え知らせ侍らむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきのつらきものから、いとかたじけなければ」とて、あながちに情け深う用意し給へり。




宮は、聞き入れるはずもなく、嫌だ、こんな事までも、との、お考えがお心を去らず、お口にされる言葉など、まして思い浮かばないのである。
夕霧は、何と情けない小娘みたいな、なさりよう。人には、秘めた胸の内を抑えかねた、好色の罪がありましょうが、これ以上、馴れ馴れしい事は、決して、お許しがなければ、いたしません。どれほど、ちぢに乱れる思いに、耐え兼ねたことか。いくらなんでも、自然とお気づきになさる事も、ございましょう。わざと、知らないふりをして、よそよそしく、お扱い遊ばすようなので、ここまま朽ちて、果てなければならない悲しさを、はっきりと申し上げておこうと、思ったのです。言いようのない態度が、辛いものの、恐れ多いと思うことゆえに。と、努めて思いやり深くと、お気をつけられる。





障子をおさへ給へるは、いと物はかなきかためなれど、引きあけず、夕霧「かばかりのけぢめをと、強ひて思さるらむこそあはれなれ」と、うちわらひて、うたて心のままなるさまにもあらず、人の御ありさまの、なつかしうあてになまめい給へる事、さはいへど、ことに見ゆ。世とともに物を思ひ給ふけにや、やせやせにあえかなる心地して、うちとけ給へるままの御袖のあたりもなよびかに、け近うしみたる匂ひなど、とり集めてらうたげに、やはらかなるここちし給へり。




襖を、抑えられていられるのは、頼りにならない守りだが、引き開けもせず、夕霧は、これだけの隔てはと、強いてお考えなのが、お気の毒と、にっこりして、いやらしい、無理強いしようとの様子でもない。宮のお姿の、上品で、もの柔らかい雰囲気は、なんといっても、格別に思える。ずっと、物思いに沈んでいるせいか、痩せて、か弱い感じで、普段着のままでいられる、お袖のあたりも、しなやかで、親しみやすく、焚きしめた香なども、何もかも、可愛く、なよなよした、感じでいられる。




風いと心細う、ふけゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴くねも、滝の音も、ひとつに乱れて艶なる程なれば、ただありのあはつけ人だに、寝覚しぬべき空のけしきを、格子もさながら、入りがたの月の山のは近き程、とどめがたうものあはれなり。夕霧「なほ、かう思し知らぬ御有様こそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまで、しれじれしきうしろ安さなども、たぐひあらじとおぼえ侍るを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば、しれ者などうち笑ひて、つれなき心も使ふなれ。あまりこよなく思し落としたるに、えなむ静めはつまじき心地し侍る。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」と、よろづに聞え責められ給ひて、いかが言ふべき、と、わびしう思しめぐらす。




風が、物寂しく、ふける夜の様子は、虫の音、鹿の鳴き声、滝の音も、一つに入り乱れて、気もそぞろになる時節なので、薄っぺらい者でさえ、寝覚めするに違いない空の様子で、格子もそのままに、入り方の月の山の端近い頃は、涙を抑えかねる、もののあはれである。夕霧は、やはり、このように、お分かりくださらないご様子こそ、かえって、浅い心と思われます。こう、世間知らずで、馬鹿正直で、心配のいらないところなど、二人といないと、存じますが、何事も、気楽に出来る身分の者は、こんな私を、馬鹿者と、笑い、つれない仕打ちもするのです。あまりに酷く、蔑みになさるので、思いを抑えきれない気がします。男を全くご存知ないでもありますまい。と、言葉を尽して、攻められるが、どう言ったものか、と、宮は、やりきれない思いで、思案される。




世を知りたるかたの心安きやうに、をりをりほのめかすねめざましう、げにたぐひなき身の憂さなりや、と思し続け給ふに、死ぬべくおぼえ給うて、女二「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」と、いとほのかに、あはれげに泣い給うて、

女二
われのみや 憂き世を知れる ためしにて 濡れそふ袖の 名をくたすべき

と、宣ふともなきを、わが心につづけて、忍びやかにうちずし給へるもかたはらいたく、いかに言ひつる事ぞ、と思さるるに、夕霧「げにあしう聞えつかし」などほほえみ給へるけしきにて、

夕霧
おほかたは われ濡れぎぬを きせずとも くちにし袖の 名やはかくるる

ひたぶるに思しなりねかし」とて、月明きかたにいざなひ聞ゆるも、あさましと思す。心強うもてなし給へど、はかなう引き寄せ奉りて、夕霧「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心安うもてなし給へ。御許しあらではさらにさらに」といとけざやかに聞え給ふ程、明け方近うなりにけり。




夫を持ったことが、近づきやすい理由のように、時々、口にするのも気になり、本当に、二人とない、我が身の不運と、考えこんでいらっしゃると、死んでしまいそうになり、宮は、情けない我が身の過ちを知ったとしても、こんなひどい有様を、どう考えたら、いいのでしょう。と、かすかに、悲しそうに、泣くのである。

女二
私だけが、不運な結婚をした女として、涙の袖を更に濡らし、悪い評判を受けなければならないのでしょう。

と、おっしゃるともなく、口にされるので、大将、夕霧は、心の中で、三十一文字にして、低く口ずさんでいるのも、きまりが悪く、どうして、言ってしまったのか、と思うが、夕霧は、本当に、悪いことを、申しました、などと、微笑んでいらっしゃる様子で、

夕霧
私は、あなたに濡れ衣を着せなくても、立ってしまった、浮名は、消えるものですか。

いっそ、思い切りなさい。と、月の光の明るいほうへお連れしようとするが、もってのほかと思いで、気強いお扱いをされるが、わけなく引き寄せて、夕霧は、これほどの、またとない愛情を、認めてくださって、気を楽になさって下さい。お許しなしでは、決して、決して、これ以上は、と、はっきりとした言い方で、そのうちに、夜明け近くになってしまった。


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