2016年02月01日

もののあわれについて786

北の御障子も取り放ちて御簾かけたり。そなたに人々は入れ給ふ、しづめて、宮にも物の心知り給ふべきしたかたを聞え知らせ給ふ。いとあはれに見ゆ。
おましを譲り給へる仏の御しつらひ見やり給ふも、さまざまに、源氏「かかる方の御いとなみをも、もろともに、いそがむものとは思ひ寄らざりし事なり。よし後の世にだに、かの花の中のやどりに、へだてなくとを思はせ」とて、うち泣き給ひぬ。

源氏
蓮葉を 同じ台と 契りおき 露のわかるる けふぞ悲しき
はちすばを おなじうてなと ちぎりおき つゆのわかるる けふぞかなしき

と御硯にさしぬらして、香染なる御扇に書きつけ給へり。宮、

女三の宮
へだてなく 蓮の宿を 契りても 君が心 やすまじとすらむ

と書き給へれば、源氏「いふかひなくも思ほしくたすかな」と、うち笑ひながら、なほあはれと思ほしたる御気色なり。




北廂との間の、御障子も外して、御簾がかけてある。そちらの方に、女房たちをお入れになり、静かにさせてから、宮にも、法会の内容がお分かりになるように、予備知識を教えて差し上げる。いかにも、ご親切なお扱いである。
宮が、御座所を明け渡しされ、その仏様の飾り付けに、目を向けると、あれにつけ、これにつけ、感慨無量で、源氏は、こういうことのお仕事も、ご一緒することになろうとは、思いもかけなかったこと。せめて、来世で、あの蓮の中の宿を、いっしょに仲良くしようと、思って下さい、とおっしゃり、お泣きになる。

源氏
来世は、蓮の葉を、二人一緒の台にしようと約束して、でも、蓮の葉に置く露のように、別々でいる、今が悲しい。

と、宮の御硯に筆をつけて、宮の香染の扇に、お書付になった。宮は、

女三の宮
仲良く、蓮の花で一緒に約束してくださっても、あなたのお気持ちは、澄み渡りせず、住みも、しないのではないのでしょう。

と、お書きになったので、源氏は、申し出を認めず、悪口をおっしゃる、と、ほほ笑みながらも、やはり、胸がいっぱいになる、ご様子である。




例の、御仔達なども、いとあまた参り給へり。われもわれもと営み出で給へる。棒物のありさま心ことに、所せまきまで見ゆ。七僧の法服など、すべて大方の事どもは、みな紫の上せさせ給へり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずと、めでけりとや。むつかしうこまやかなる事どもかな。




いつも通り、親王方なども、とても大勢参上された。六条の院の、婦人方が、競争でお作りになった、お供え物の、出来具合は、実に見事で、あたりを圧倒するほど。七僧の法服その他、一通りのことは、すべて紫の上が、やらせになった。その法服など、綾織で、袈裟の縫目まで、わかる人は、世間にないものだと、誉めたという話である。
うるさく、細かいことです。

最後は、作者の言葉。




講師のいと尊く、事の心を申して、この世にすぐれ給へる盛りを厭ひ離れ給ひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法花経に結び給ふ。尊く深きさまをあらはして、ただ今の世に才もすぐれ、ゆたけききらを、いとど心して言ひつづけたる。いと尊ければ、皆人しほたれ給ふ。




講師が、大変尊く、この法要の事情を申して、この世で盛でいらっしゃるのに、仏道にお入りになり、長い来世まで続く、夫婦の契りを、法花経により、お結びになる。宮の尊く深い御心を、申す。現在、才学弁舌ともに他を圧倒している者が、いっそう、気をつけて言い続けるのが、まことに尊いので、一同皆、涙を流される。

ゆたけき さきら
弁舌に巧みであること。




これはただ忍びて、御念誦堂のはじめと思したることなれど、内にも、山の帝も聞こし召して、みな御使どもあり。御誦経の布施など、いと所せまきまで、にはかになむ事広ごりたる。院に設けさせ給へりける事どもも、そぐと思ししかど世の常ならざりけるを、まいて今めかしき事どもの加はりたれば、ゆふべの寺におき所なげなるまで、所せきいきほひになりてなむ、僧どもは帰りける。




今日の法要は、内々で、ただ御念誦堂の、聞き始めと思いになったことだったが、主上におかせられてもまた、法王陛下もお耳に遊ばして、いずれからも、お使いが来る。お経の、御札の布施なども、置ききれないほどで、急に、大げさなことになった。六条の院で、ご準備あそばされたことも、簡単と思ったが、並々のものではなかったのに、それ以上に、華やかな事の、数々が増えたゆえに、寺には、置き場所もないと思われるほど、豪勢なことになり、僧たちは、帰った。

ここでの、布施とは、女三の宮のために、経を読んだ僧たちへの、お礼のことである。

御誦経と、御という、敬語をつけるのは、女三の宮の身分が高いから。
兎に角、原文は、敬語のオンパレードである。

登場人物たちが、皆、皇室に関係するものだからである。


posted by 天山 at 07:13| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月02日

もののあわれについて787

今しも心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづき聞え給ふ。
院の帝は、この御処分の宮に住み離れ給ひなむも、つひのことにて目やすかりぬべく聞え給へど、源氏「よそよそにてはおぼつかなかるべし。明け暮れ見奉り聞え承らむ事おこたらむに、本意たがひぬべし。げにありはてぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひはてじ」と聞え給ひつつ、かの宮をもいとこまかに清らにつくらせ給ひ、御封のものども、国々の御庄、御牧などより奉るものども、はかばかしき様のは、皆かの三条の宮の御蔵に納めさせ給ふ。またも建て添へさせ給ひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はり給へるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせ給ふ。明け暮れの御かしづき、そこらの女房の事ども、上下のはぐくみは、おしなべてわが御あつかひにてなむ、急ぎ仕うまつらせ給ひける。




入道された今になり、かえって、宮を気の毒に思う気持ちも、出てきて、限りなく大切にして差し上げる。
上皇陛下は、お譲りの三条の宮に、別居されることになるので、今からのほうが、外聞がよかろうと、申し上げなさったが、源氏が、別々にいては、気になってたまらない。朝晩と世話をしたり、お話を申し上げたり、伺ったり、することがなくなっては、私の気持ちとは、違うことになってしまう。余命は、いくらもありませんが、それでも、生きている間は、お世話したい気持ちだけは、無くしたくない、と、申し上げて、三条の宮をも、念入りに、綺麗に改築させて、御料地の収入や、諸国の荘園、牧場などから、差し上げるもので、目立つものは、皆、あちらの、三条の宮の御蔵にお入れした。
更に、御蔵も、建て増しして、色々な宝物の数々、上皇様の、御遺産処分のとき、数えられないほど頂戴された物など、上皇と宮の品物は、全部、三条の宮の蔵に運んで、念を入れて、厳重に保管させられた。朝晩のお召し上がり物、大勢の女房のこと、下々までの、生活一切、全部ご自分のご負担であり、三条の宮を、急いで、増築される。




秋ころ、西の渡殿のまへ、中の塀の東のきはを、おしなべて野につくらせ給へり。うかの棚などして、その方にしなせ給へる御しつらひなど、いとなまめきたり。御弟子にしたひ聞えたる尼ども、御乳母、古人どもはさるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは、選りてなむなさせ給ひける。さるきにほひには、われもわれもときしろひけれど、おとどの君聞こし召して、源氏「あるまじき事なり。心ならぬ人すこしも交りぬれば、かたへの人苦しうあはあはしき聞え出で来るわざなり」と、いさめ給ひて、十よ人ばかりの程、かたちことにては候ふ。




秋になり、宮のお住まいの、寝殿の西の渡殿の前に、中の塀の東側を、一帯に野原の感じにつくらせられた。あかの棚などを造り、仏道修行向きに、お作りになったお飾りなど、女らしい美しさである。是非、弟子にと、お後を慕った尼は、乳母や老女はよいとして、若い盛りの女房であっても、決心が固く、尼生活で、一生過ごせる者だけを、お選びになった。
そういう、思いの時は、我も我もと、競争で申し出たが、殿様がお耳にして、源氏、よろしくないことだ。本当の決心がない者が、一人でも入ると、周りの者が困る。また考えが足りないとの、評判が出ることにもなる。と、お叱りになり、十何人だけくらいにが、尼姿で、お付きしている。




この野に虫ども放たせ給ひて、風すこし涼しくなり行く夕暮に、渡り給ひつつ、虫の音を聞き給ふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞え悩まし給へば、女三「例の御心はあるまじきことにこそあなれ」と、ひとへにむつかしきことに思ひ聞え給へり。




この野に、沢山の虫を、お放しして、風が少し涼しく吹くように、日増しになる、夕方、源氏は、よくこちらにお出でになっては、虫の音をお聞きになるようで、今になっても、諦めきったのではない、心の中を、宮に申し上げて、困らせる。女三の宮は、お決まりのこと、このお癖は、けしからぬことと聞く、と、いちずに、宮は、あしらいかねている。




人目にこそ変はることなくもてなし給ひしか、内には憂きを知り給ふ気色しるく、こよなう変はりにし御心を、いかで見え奉らじの御心にて、多うは思ひなり給ひにし御世のそむきなれば、今はもて離れて心安きに、なほかやうになど聞え給ふぞ苦しうて、人離れたらむ御住まひにもがな、と思しなれど、およずけてえさもしひ申し給はず。




人目には、昔と変わらぬ扱いではあったが、お心の中では、嫌な事をご存知という、素振りがはっきりしていて、すっかりと、変わってしまったお心ゆえ、何とかして、お目にかからずにいたいというお気持ちで、それが原因で、出家を決心されたのだから、もう関係ないと、安心していたのに、今も変わらず、このようにお耳に入れられるのが、辛くて、離れきった、山寺に行きたいという気になられるが、背伸びして、そう口にすることは、お出来にならない。




posted by 天山 at 07:54| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

もののあわれについて788


十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近うながめ給ひつつ念誦し給ふ。若き尼君たち二三人花奉るとて、鳴らすあか杯の音、水のけはひなど聞ゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡り給ひて、源氏「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」とて、われも忍びてうち誦じ給ふ。阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞ゆ。げに声々聞えたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。源氏「秋の虫の声いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の遥けき野辺を分けて、いとわざと尋ねとりつつ、放たせ給へる、しるく鳴き伝ふることこそ少なかれ。名にはたがひて、命の程はかなき虫にぞあるべき。心にまかせて、人聞かぬ奥山、遥けき野の松風に、声惜しまぬも、いとへだて心ある虫になむありける。鈴虫は心やすく、今めいたるこそらうたけれ」など宣へば、
宮、

女三の宮
大かたの 秋をば憂しと 知りにしを ふり捨て難き 鈴虫の声

と忍びやかに宣ふ。いとなまめいて、あてにおほどかなりる。源氏「いかにとかや、いで思ひのほかなる御言にこそ」とて、

源氏
心もて 草のやどりを いとへども なほ鈴虫の 声ぞふりせぬ

など聞え給ひて、琴の御琴召して、めづらしく弾き給ふ。宮の御数珠ひきおこたり給ひて、御琴になほ心いれ給へり。月さし出でて、いとはなやかなる程もあはれなるに、空をうちながめて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はる有様、思し続けられて、例よりもあはれなる音に、掻き鳴らし給ふ。




八月十五夜の夕方、仏前に、女三の宮が、お座りになり、簀子近く、物思いのうちに、念誦される。若い尼君、二、三人が仏前に、花を差し上げると申して、鳴らすあか杯の音、見ずの音が聞こえるのは、普通と違う仕事であるが、忙しくしているのは、とても、あはれを感じる。そこへ、いつものように、源氏がお出でになり、虫の音が、ひどく鳴き乱れる今宵だ。と、ご自分も、念誦を低く唱える。阿弥陀の大呪が、尊く、かすかに聞こえる。実際、多くの虫の音が聞こえる中で、鈴虫が声を張り上げたのは、派手で、綺麗である。源氏は、秋の虫の音は、皆いいが、松虫が特にいいとおっしゃり、中宮が、遠い野原に人をやり、わざわざ、良い声のものを捜して、捕らえてきて、お放しになったが、はっきりと、野原での声を聞かせるのは、少ないようだ。名と違い、あまり長生きしない虫のようだ。思う存分、誰も聞かない、奥山や、遠い野原の松原で、声を惜しまず鳴き、こちらでは、鳴かないものも、隔て心のある虫なのだ。鈴虫は、気安く、賑やかに鳴くのが、可愛い。などと、おっしゃるので、宮は、

女三の宮
何事がなくても、秋は、辛いものと分かっていますが、やはり、あの鈴虫の声は、飽きずに、聴き続けたい気がします。

と、低くおっしゃる。その声は、まことに美しく上品で、おっとりしている。源氏は、なんとおっしゃる。いや、思いもかけないお言葉だ、と、

源氏
ご自分から、進んで、この家をお捨てになったのに、やはり、お声は、鈴虫と同じ、変わらず、美しい。

などと、申し上げて、琴のお琴を取り寄せて、珍しく、お弾きになる。宮は、お数珠を繰るのも忘れて、弾き方に、注意を凝らしている。
月の光で照らし、明るくなったのも、心打つことだが、空を振り仰いで、物思いにふける。人が、それぞれの理由で、出家したことが、胸に浮かび、いつもより、あはれな音色に、お弾きになられるのである。

いとあはれ・・・
例よりも、あはれ・・・
色々と、意味付け出来る、あはれ、である。




今宵は、例の、御遊びにやあらむと、おしはかりて、兵部卿の宮渡り給へり。大将の君、殿上人のさるべきなど具して参り給へれば、こなたにおはしますと、御琴の音をたづねてやがて参り給ふ。源氏「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたる、めづらしき物の音など聞かまほしかりつるひとりごとを、いとようにたづね給ひける」とて、宮も、こなたにおましよそひ入れ奉り給ふ。内の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人々参り給ふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参り給へり。虫の音の定めをし給ふ。




今宵は、いつもの通り、音楽会だろうと思い、兵部卿の宮が、お出でになった。
大将の君、夕霧も、殿上人の適当な者などを連れて、参上されたが、こちらにお出でだと、お琴の音をたよりに、まっすぐにいらした。源氏は、することもないまま、特に音楽会というわけではないが、長い間、聞かずにいて、珍しくなった楽の音などを、聞きたいと、ひとり弾いていたが、よく、聞きつけて、来てくださった。と、おっしゃり、兵部卿の宮にも、お席を作り、お入れ申し上げる。主上の御前で、今夜は、月の宴があるはずだったが、中止になってしまい、つまらない気がしていたが、六条の院に、大勢の方がおいでになると、次々に耳にして、誰彼や上達部なども、参上なさった。御一同でご一同で、虫の音の評価をなさった。




御琴どもの声々掻き合わせて、面白きほどに、源氏「月見る宵のいつとてもものあはれならぬ折りはなき中に、こよひのあらたなる月の色には、げになほわが世のほかまでこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、なきにつけていとどしのばるること多く、おほやけわたくし、物の折りふしのにほひ失せたるここちこそすれ。花鳥の色にも音にも思ひわきまへ、いふかひある方の、いとうるさかりしものを」など宣ひ出でて、みづからも掻き合わせ給ふ御琴の音にも、袖ぬらし給ひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞き給ふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びの程には先づ恋しう、内などにも思し出でける。源氏「今宵は鈴虫の宴にて、明してむ」と思し宣ふ。




あれこれと、弦楽器を合奏されて、興が乗ってきたころに、源氏は、月を見る宵は、いつでも、胸迫る気持ちのしない時はないもの。特に、今夜の出たばかりの月の色を見ると、昔から言う通り、やはり、死後の世界のことまでも、何もかもが、つい、想像してしまう。亡き権大納言は、何かの場合に、死んだと思うと、一層、思い出されることが多く、公私共に、何かの時々の、輝きが無くなった気がする。花の色や、鳥の音など、美しいものをわきまえて、話ができるということでは、至れり尽くせりだった。などと、口にお出しになる。
ご自分のお弾きの琴の音にも、感じ入り、涙に袖を濡らされた。御簾の中で、宮が注意して聞いているだろうと、亡き人を偲ぶ一方では、悪く思うが、こんな音楽会には、誰よりも、恋しく、主上におかせられても、思い出されるのだった。
源氏は、今夜は、鈴虫の宴で、夜を明かそう、と思いになり、お口にもされる。

権大納言とは、亡き、柏木のこと。

posted by 天山 at 06:43| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

もののあわれについて789

御土器ふたわたりばかり参る程に、冷泉院より御消息あり。御前の御遊びにはかに止まりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部の大輔、また人々ひきいて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院に侍ひ給ふ。と、聞こし召してなりけり。




お杯が、二回りした頃、冷然院から、お手紙がきた。主上の御前での、音楽会が中止になったのを、残念に思い、左大弁や式部の大輔が、別に大勢を引き連れて、才能豊かな者ばかりが伺ったので、大将などは、六条の院にいられると、お耳にしたのである。




冷泉院
雲の上を かけ離れたる すみかにも 物忘れせぬ 秋の夜の月

同じくは」と聞え給へれば、源氏「なにばかり所狭き身の程にもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参りなるる事もをさをさなきを、本意なき事に思しあまりておどろかせ給へる、かたじけなし」とて、にはかなるやうなれど、参り給はむとす。

源氏
月影は 同じ雲居に 見えながら わが宿からの 秋ぞかはれる

ことなることなかめれど、ただ昔今の御有様の、思し続けられけるままなめり。御使にさかづき賜ひて、禄いと二なし。




冷然院
宮中から、すっかり離れた、この上皇御所にも、忘れもせずに、秋の月は、輝いている。

同じことなら、との、お言葉があったので、源氏は、さして、動きにくくなった身分でもないのだが、今は、ごゆっくりしておられる、冷泉院に、伺うことも全く無いので、思いに任せぬことと思いあまり、わざわざ、お手紙を下さったのは、もったいないこと。と、急なことではあるが、参上しようとされる。

源氏
陛下は、昔と同じ光と尊敬しておりますが、こちらが、何かとうまくゆかず、失礼しております。

たいしたことではないが、ただ、昔と今と、御様子が違うことが、あれこれと考えられるので、このような歌を、お作りになったのだ。お使いには、お酒が振る舞われ、禄が、またとないほど出された。




人々の御車次第のままにひき直し、御前の人々立ちこみて、静かなりつる御遊び紛れて、いで給ひぬ。院の御車に、親王奉り、大将、左衛門の督、藤宰相など、おはしける限り皆参り給ふ。




人々のお車を、身分の順に列をなし、前駆の連中が、いっぱい集まり、静かであった音楽も終わり、ご出発になった。院のお車には、兵部卿の宮が、同乗し、大将や左衛門の督、藤宰相など、伺っていた者が、皆、参上される。




直衣にて軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかり奉り加へて、月ややさしあがり、更けぬる空おもしろきに、若き人々、笛などわざとなく吹かせ給ひなどして、忍びたる御参りのさまなり。




直衣で、お手軽なお召し物で、下襲だけをお召し加えて、月が次第に上って来て、夜が更けた空の、おもしろさを見つつ、若い連中は、笛などをわざとらしくなく、吹かせられたりして、お忍びで、参上の行列である。




うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽して、かたみに御覧ぜられ給ひ、またいにしへのただ人ざまに思しかへりて、今宵はかるがるしきやうに、ふとかく参り給へれば、いたうおどろき待ち喜び聞え給ふ。ねびととのひ給へる御かたち、いよいよことものならず、いみじき御盛りの世を御心と思し捨てて、静かなる御有様に、あはれ少からず。
その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深う面白くのみなむ。例の言たらぬ片端は、まねぶもかたはら痛くてなむ。
明け方に文など講じて、とく人々まかで給ふ。




正しくすべき時には、仰々しく、厳しく儀式を尽して、お互いご対面されるのだが、昔の臣下時代に戻ったお気持ちで、今夜は、ごく気軽に、予告もなく、このように参上されたので、大変驚き、お出でを、喜び申し上げる。すっかりと、成人されたお顔立ちは、ますます、そっくりで、まだまだお盛りの最中に、ご自分から、ご譲位されて、静かに送るご生活は、心を打たれること、少なくない。
この夜、ご一同の詠まれた歌は、漢詩、和歌も多く、結構なものであったが・・・例により、一部分だけ申し上げるのは、気が引けますので・・・
明け方に、漢詩など披露して、早々に、ご一同は、ご退出になった。

冷泉院は、源氏の実の子である。
いよいよことものならず・・・

冷泉院もそれを知る。
譲位して、源氏に天皇の位を譲るという、気持ちだったが・・・
源氏が、それを控えたのである。

posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月05日

もののあわれについて790

六条の院は、中宮の御方に渡り給ひて、御物語など聞え給ふ。源氏「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐるよはひに添へて、忘れぬ昔の御物語りなど、承り聞えまほしう思ひ給ふるに、なににもつかぬ身の有様にて、さすがにうひうひしく、所せくも侍りてなむ。われより後の人々に、方々につけて後れ行くここちし侍るも、いと常なき世の心細さの、のどめ難う覚え侍れば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人々のものはかなからむ、ただよはし給ふな、と、さきざきも聞えつけし、心たがへず思しとどめて、ものせさせ給へ」など、まめやかなるさまに聞えさせ給ふ。




六条の院、源氏は、中宮の御殿に、お出でになり、お話などを申し上げる。源氏は、今は、このように、お静かなお住まい、いつもお伺いするはずで、別に、大したことではなくても、年を取るにつれて、忘れない昔話なども、伺い、申し上げしたく存じますが、私は、何とも優柔不断の状態で、それでも、動きまわるのが、きまり悪く、窮屈でもありまして、いつ死ぬかわからない人の世の、心細さで、ゆっくり出来ない気がします。この世を離れた、山寺にでもと、次第に気持ちは、進みますが、後に残る者達が、頼りないことでしょう。よろしくお願い申し上げますと、前にも申し上げましたが、その気持を変えずに、ご注意されていただきたいと、申し上げます。と、真面目なお話を、申し上げる。




例のいと若うおほどかなる御けはひにて、秋好「九重の隔て深う侍りし年頃よりも、おぼつかなさのまさるやうに、思ひ給へらるる有様を、いと思ひのほかにむつかしうて、皆人のそむき行く世を、いとはしう思ひなる言も侍りながら、その心のうちを聞えさせ承らねば、何事も先づたのもしき影には聞えさせならひて、いぶせく侍り」と、聞え給ふ。源氏「げにおほやけざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけ聞えさせしを、今は何事につけてかは、御心に任せさせ給ふ御うつろひも侍らむ。さだめなき世と言ひながらも、さしていとはしき言なき人の、さわやかにそむき離るるも有難う、心やすかるべき程につけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみ侍るを、などかその人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう、おしはかり聞えさする人もこそ侍れ。かけてもいとあるまじき御事になむ」と聞え給ふを、「深うも汲みはかり給はぬなめりかし」と、つらう思ひ聞え給ふ。




いつものように、お若く、おっとりしたご様子で、秋好は、御所の奥に住んでおりましたころより、お目にかかれず、どうしていらっしゃるのかと、心配する気持ちが強くなるように、思われ、考えもしなかった嫌なことで、皆が出家したり、亡くなったりするこの世を、捨てたくなるようなこともございますが、その気持は、まだ申し上げてご意向を伺っておりませんので、何事も、第一に、あなた様を頼りにする癖がついていますので、機にしております。と、おっしゃる。
源氏は、お言葉通り、宮中にいらした時は、しきたりの場合、場合のお里下がりを、嬉しくお待ちしていましたが、今は、何の理由で、ご自由に、遊ばすことが出来ましょう。定めなき世とは、申しても、これといって、理由のない人が、さっぱりと出家してしまうのは、出来ないことでして、気軽に出家出来る身分の者でも、いつしか、関わりあう係累が出来ます。どうして、そんな人ら真似て、負けずに、出家しようとするお気持ちでは、かえって、変な心がけと、推察することもあっては、困ります。絶対に、されてはいけないことです。と、申し上げるのを、自分の気持ちを、深く汲みとってくださらないのだと、中宮は、辛く思うのである。




御息所の御身の苦しうなり給ふらむ有様、いかなる煙の中に惑ひ給ふらむ。なきかげにても、人にうとまれ奉り給ふ御名のりなどの、出で来ける事、かの院にはいみじう隠し給ひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞しめしけるのち、いと悲しういみじくて、なべての世いとはしく思しなりて、かりにても、かの宣ひけむ委しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞え給はで、ただ、秋好「なき人の御有様の、罪軽からぬさまに、ほの聞く事の侍りしを、さるしるしあらはならでも、おしはかりつべき事に侍りけれど、おくれし程のあはればかりを忘れぬ事にて、物のあなた思う給へやらざりけるが物はかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の、勧めをも聞き侍りて、みづからだにかの焔をも、醒まし侍りにしがなと、やうやうつもるになむ、思ひ知らるる事もありける」など、かすめつつぞ宣ふ。




母親の、御息所が、ご自身、お苦しみになっているご様子、どのような煙の中で、困っていらっしゃるのだろうかと、お亡くなりになってからも、源氏に、嫌がられる物の怪になり、名乗りでたということ、六条の院では、厳しく隠されたが、いつしか、人の口は、うるさいもので、伝え伝えて、お耳に遊ばしたので、悲しく、辛く、何もかもが嫌になり、いい加減でもいい、お母さまがおっしゃった事を、詳しく聞きたいのだが、そのままには、おっしゃらず、ただ、秋好は、お母さまが、あの世で、罪が軽くないように、耳をすることもございましたので、その証拠がはっきりしているのではなくても、娘の私が、推察すべきことでしたのに、先立たれた時の嘆きばかりを、忘れずにおりまして、死後の世界を考えませんでした、至らなさ。何とかして、教えてくれる僧侶の勧めを聞きまして、せめて私でも、その、お苦しみの焔を和らげて差し上げたいと、年を取るにつれて、考えるようになりました。など、出家の理由を、暗におっしゃる。




六条の御息所が、秋好む中宮の、母親だった。
その、御息所は、何度も、物の怪となり、源氏に関わる人達に、憑いたのである。

生きている時は、生霊として、死後は、死霊として。

当時は、病などは、物の怪のせいであると、信じていた。
ただ、生霊、死霊につけては、現代でも、私は、その可能性があると、言う。

それは、人の思いである。
思念と言ってもいい。

生きていても、その死後も、思念は、無くならない。
そのように、考える。
科学の無かった時代の、産物とは、考えない。

ただ、現代の人が、忘れてしまったのである。

また、物に、思いが憑くということも。
それを、物にも、心があると、表現した。
それも、現代でも、充分に有り得ることだ。

posted by 天山 at 06:22| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

玉砕100

南西諸島方面にて、23歳で、特攻死した、林市造。
出撃2日前に、母宛の切々たる手紙を書く。

お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
 親思ふ 心にまさる 親心 今日のおとづれ 何ときくらむ (吉田松蔭)
この歌がしみじみと思われます。
ほんとうに私は、幸福だったのです。我ままばかりとおしましたね。けれども、あれも私の甘え心だった思って許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが、私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでゆくのが、つらいです。

お母さんは、偉い人ですね。私はいつも、どうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。お母さんは、苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできないところです。
お母さんの欠点は、子供をあまりかわいがりすぎられるところですが、これをいけないと言うのは無理ですね。私はこれが、すきなのですから。
お母さんだけは、まだ私の兄弟たちは、そして私の友だちは、私を知ってくれるので、私は安心して往けます。

私は、お母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りは、いつも神様はみそなわして下さいますから。
この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが、何だか人ごとのように感じられます。いつまでもまた、お母さんにあえる気がするのです。逢えないなんて考えると、ほんとうに悲しいですから。

その二日後に、特攻死したのである。
何とも、悲しい手紙である。
しかし、その母は・・・

その悲しみを抱きつつ、息子の思いを祈った。
親思ふ 心にまさる 親心・・・
絶句である。

私は今、特攻の本、を参照している。
その中で、神社新報社の編集したものが載っている。

その、遺稿の前に、書き込みがある。

かの大戦に出征した人々の多くが他界することにより、戦争体験そのものが風化しつつある。それはそれで平和の証であるからよいではないかという考えもある。確かにそれも一理ある。
しかし、憲法では日本が戦争を放棄しようとも、戦争は日本を放棄してくれない。日本では憲法は最高法規であるが、他国にとって日本の憲法などはまったく関心のないもので、ただひとつ意義があるとすれば、日本の憲法が戦争放棄を明文化しているというただ一事である。戦争を放棄しているなら、他国は安心して日本に武力行使ができる。これほど国辱的な憲法を持っている国は他にない。

ともあれ日本人の平和ボケは、戦争体験の風化と共に加速度的に進行している。しかし、日本人のこと平和ボケを厳しく叱り、真の平和とは何かを無言のうちに日本人の魂に激しく訴えかける場所がある。東京・九段の靖国神社である。

と、いうことで、ここからは、遺稿と共に、靖国神社、そして、戦争放棄の憲法を考えつつ進む。

昭和19年10月に、フィリピン・レイテ島周辺で始まった、特攻作戦が、最も、熾烈化したのが、沖縄戦である。
この方面の、航空作戦を、天一号作戦と、呼んだ。

海軍は、西日本の第五航空艦隊が、担当し、第一航空艦隊が、台湾から、支援した。

陸軍は、九州の第六航空軍と、台湾の第八飛行師団が担当し、作戦は、米機動部隊が、沖縄方面に来襲した、昭和20年3月23日に、発動され、やがて、沖縄戦が終了するまで、多数の若者が、特攻、散華した。

23歳で、特攻死した、若麻績隆は、特攻の意義を記す。

本日八分隊の○○名が転勤して行った。
送る送られる、別離の様式は至って清らかである。声をかけるでもなく、手を取り合うでもない。人が去って行くのは己がやがて去るであろう事を示し、人が死するのはやがて己も死ぬるを知る。
極めて当然なことである。
当然なりと自殺するのではない。今日の友の立場は明日の己の事である。
国を思う心に結ばれて同じ隊に生活したものにとっては、ある深い感慨が「淡々」という言葉の中に湧き出づる。
征く友よ、散る友よ、御身等の願うところは武名に非ず、功名に非ず、征けば必ず散り、散った後に、大日本帝国が厳たる勇姿を、硝煙の中から表れ出づる事を願うのみである。

戦時下における別れは、大半が、永別、死別となる。

ここで、極めて、見事な言葉は、武名に非ず、功名に非ずという、淡々とした、心情である。

つまり、冷静なのである。
この年齢にして、このような、心境、心情を抱くことが出来るという・・・
国のために、淡々として、死ぬ。

その彼らが、帰り着く所が、靖国神社なのである。
神社といえば、神道であるが・・・
靖国神社は、神道などという、以前の問題の場所である。

英霊を奉るという、その一点である。
国の施設である。

社とは、やしろ、である。
そこには、遺骨は無い。
その名を奉じているのである。

命と書いて、みこと、と、読む。
英霊は、○○○○の命、と呼ばれる。
つまり、日本の伝統である、死者が、神になるという思想である。

彼らとの、つながりの、窓口が、靖国神社なのである。
そして、全国にある、護国神社もそうである。
そして、慰霊碑である。

死者は、何かを窓口にして、生きる者達と、対座する。

靖国神社とは、そういう施設なのである。
一つの宗教施設ではない。
posted by 天山 at 07:12| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月09日

玉砕101

陸軍特攻隊六十一振武隊の一員として、25歳で、沖縄方面海域にて、特攻散華した、若杉潤二郎の、母宛の遺書である。

母上様
先日は突然帰って驚きのことだったろうと思います。早速お便り差上げようと思いながらさて改まって書くこともなく過ごして来ました。何の親孝行も出来ず心苦しく思います。二十年幸せだったと心から思います。有難う御座いました。
自分も小隊長として可愛い部下三名、十九と二十の若武者を引き連れて突撃して往きます。花はつぼみと言いますが本当に清らかなものです。篠原、田中、山本の三伍長です。この手紙がつく頃は見事戦果をあげてみせます。自分よりこの三人の可愛い部下の為祈ってやって下さい。
くれぐれもお身ご大切に長命を祈って居ります。お元気でお元気でお過ごし下さる様。
では往きます。必ずやりますからご心配なく。
皇国の弥栄祈り 玉と散る
心のうちぞ たのしかりける


上記で、驚くのは、自分よりも、三人の可愛い部下のために、祈って下さいというものだ。
特攻賛美をする者ではないが・・・

特攻と言う行為は、このような美しい心情を作るものなのか・・・
自分のことよりも、部下のために、言って下さいという、心境である。

感動する。

25歳の若者が、この心境に至る行為に、特攻という行為がある。
死を目の前にして、人は、末期の眼を持つ。
この末期の眼が、これほど、美しいとは・・・

正に、神と呼ばれる者に、相応しい。
靖国神社では、英霊という、神として、祀られている。
ただ、その名を、奉持するのである。

名前を奉持するのは、何も、日本の伝統だけではない。
インドネシアの英雄墓地も、それぞれの墓石を建てているが、遺骨はない。
ただ、名前を一つ一つの墓石に記してある。

その中には、元日本兵であり、その後、インドネシアの独立戦争に加担した、日本兵も、英雄として、祀られている。

さて、靖国神社の問題の一つに、宗教という枠がある。
敗戦後、アメリカ占領軍により、国家神道の形を解体された。
それは、それでいい。

その後、宗教法人というものに、神社が入ることになる。

だが、神道自体が、教祖無く、教義も無い。
それは、縄文期からの、伝統である。

日本の伝統的、宗教的、あり方である。

的なのだ。

他の宗教から、一つの宗教施設に、慰霊をする、更に、神社参拝をするという、イメージがある。
全く、それには、意味は無い。

靖国神社は、当時の日本国の、約束を果たす場所だった。
つまり、戦争にて、命を亡くした兵士は、靖国に、神として、祀るという、約束である。

その約束を、ただ、実行しているだけである。

ちなみに、神社は、神社本庁に属するが、靖国神社は単立の施設である。

戦没者を追悼慰霊する、場所として、当時から、国が約束していた施設なのである。
その約束を、淡々と果たす施設である。

一つの宗教施設であるという、考え方が誤っている。

そして、もう一つは、戦犯を合祀しているというものである。
戦犯とは、東京裁判にて、判決が下されたものである。
戦勝国側が、勝手に、戦犯として、裁いたものである。

日本には、戦犯というものは、存在しない。

戦争犯罪人を、祀る施設に、慰霊するのは、誤りだ、などとは、他国の言うことである。それは、日本の伝統を無視した、実に、野蛮な考え方である。

世界の至る所の国は、その国の戦没者に対して、礼を尽くす。
日本も、それと同じように、戦没者に尽くしているのである。

マッカーサーが、靖国神社を取り壊そうとした際に、カトリックの神父に相談している。
そこで、ドイツ出身の、ブルノー・ビッテル神父に言われた。

もし、靖国神社を焼き払っさたとすれば、その行為は米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残るであろう。・・・
いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものたちは、すべて靖国神社にその霊を祭られるようにすることを、進言する。
との、言葉である。

どの国においても、戦没者は、手厚く祀られる。
当然、日本の場合も、同じであり、宗教云々の問題ではないということだ。

白人の、キリスト教であるから、日本の神道については、全く理解が出来ないだろう。
一神教の考え方では、日本の伝統的、宗教的存在を、理解出来るわけがない。

また、更に言えば、宗教という、概念は、キリスト教から出たものである。
江戸時代に、宗教という言葉は、なかった。
あえて、言えば、通訳の際に、宗派という言葉を使った。

宗教学なるものは、キリスト教が一番上で、他の宗教は、キリスト教に発展してくるという、前提で、成り立ったものである。

勿論、今は、違う。
一神教が、悪の源であると、考える人達が増えてきた。

ユダヤ、キリスト、イスラム教という、一神教を見れば、一目瞭然である。
いつも、戦争をしている。
相手の宗教を、絶対に認めない。
実に、非寛容で、排他的である。
更に、異教徒は、殺してもいいのであるから、手が付けられない。

また、更に、それぞれの宗派の対立も、実に野蛮極まりないのである。

日本の宗教的、神道という、伝統行為を、理解出来る訳がない。
神道は、宗教的であるが、宗教ではない。

日本の伝統である。

posted by 天山 at 04:27| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

玉砕102

神風特攻隊第十八金剛隊、23歳で、フィリピン方面で特攻散華した、市川猛は、母宛に遺言を残している。

天の優しい御恵みと思いますが、本日出撃の予定が、天候不良のため明日に延期され、おかげで心のこもる千人針が私の手に入りました。
嬉しくつけて決戦場にまいります。
私は千人針はとてもまにあわないだろうと断念していたのですが、いよいよ出撃の幾時間か前に私の手に入りました。
また好物たくさん、ありがたさで一杯でした。可愛い私の教え子の練習生にもやり、一緒に食べて別れました。
母上様よりの「御守護札」肌身はなさず持って、任務に向かってまいります。では御礼まで。

淡々とした、遺書である。
この行間を埋めるためには、長い文が必要である。

また、特攻隊第一神雷隊の一員として、18歳で、九州沖で、散華した、有末辰三の、両親宛の遺書である。

走り書き、御免下さい。私は今度、幸い攻撃に出陣することになりました。僅か18年の歳月とはいえ、普通の人々とは別な苦労もし、楽しいこともありました。
父母上には、色々と心配のかけ通しでしたが、見事に散る日が来ました。小野川の小池兵曹も散っていきました。私も後を継いで、敵陣に突撃するつもりです。豊橋まで一緒だった上の山の佐藤栄之助も散りました。では長いことかけませんからこれくらいで。
ではさらば、お元気で。
必ずや皇国は、永久に栄えることを確信します。

この、第一神雷攻撃隊とは、米戦闘機の搭乗員から、ワンショット・ライターと、笑いものにされたほど、炎上しやすい、一式陸上攻撃機を母機として、人間爆弾桜花を発進させる、特殊部隊であり、桜花発進に成功しても、鈍足の母機も、ほぼ撃墜されるという、決死部隊である。

それを、百も承知で、有末は、淡々とした、遺書を残して、散華した。

そういう、若者たちを、奉じているのが、靖国神社である。

明治維新前後から、祀られている、246万余人の祭神の、九割は、大東亜戦争、第二次世界大戦で、散華した兵士たちの、霊位である。

戦争犠牲者は、320万人の死者。
軍属、兵士たちは、230万人である。

何度も言うが、遺骨はない。
ただ、名前を奉じている。

この、慰霊社に対して・・・
一部の人達は、軍国主義に絡めて、モノを言う。
一体、彼らが、軍国主義者だったのか・・・

当時の日本は、戦争をしていい国だった。
国際社会からも、それを、認められていた。

更に言えば、日本の植民地化云々というお話も、全く当たっていない。
もし、植民地主義というならば、どのようなことを、植民地主義というのかを、定義して欲しい。

東南アジアを日本は、植民地にしたのか・・・
確かに、侵攻せざるを得なかった。
自衛のためである。

そして、結果的に、三年数ヶ月の戦争の期間を過ぎて、すべての植民地が、独立したのである。

簡単にいえば、日本の侵攻により、植民地だった国々が、独立に目覚めて、独立を勝ち取ったのである。

そして、韓国の場合は、手続きを踏んだ、併合であり、台湾の場合は、日清戦争で、譲渡されたものである。

靖国神社に参拝することが、軍国主義に・・・というお話は、あまりにも、妄想で、飛び抜けた、飛躍した話である。

慰霊の社が、靖国神社である。
そして、それは、国家が、約束したものである。
その、約束を反故にしたとは、一度も聞いていない。

日本のマスコミは、世界の常識である、戦没者慰霊を、日本に限っては、軍国主義礼賛のような、バカバカしい報道をする。
更に、中国、韓国に言われると、加熱するのは、どうしてなのか・・・

それは、在日が、マスコミの中に多数存在しているとしか、思えない。
反日左翼、そして、反日日本人の多数が、揃っている。

何せ、国歌斉唱、国旗掲揚まで、子供に教えないという、教育を、放って置くのである。何処の国に、子供に、国旗も、国歌も、教えない国があるのか。

唯一、日本だけが、そういう人達の声を取り上げて、反日行為をさせている。

日本には、言論の自由がある。
しかし、それと、これとは、別物である。

国のために、命を捧げた人達を、慰霊する。当然のことを、他国に言われたというだけで、首相などが、参拝を止めるとは、情けないのである。

他国の抗議、干渉を、何故、日本のマスコミは、勝ちを誇ったように、取り上げるのかとは、反日を持論とする人達であろう。

勿論、その自由も許す国が、日本なのであるが・・・

戦没者の追悼慰霊と、国旗掲揚、国歌斉唱は、付き物である。
私も、多くの戦地に出掛けて、言葉無くして、ただ、国歌斉唱することがある。

祈りの言葉が、虚しくなり、国歌を歌う。
これが、慰霊の心である。

散華した兵士たちは、日の丸と、君が代を掲げて、戦ったのである。
当然、兵士と同じ心、気持ちになる。

そして、日本人としての、矜持がある。

日本が、侵攻して、宗主国を追い出した。そこから、独立の機運が出て、すべての国が、独立を勝ち取った。
日本が、行為したからである。

結論は、日本が、植民地を開放したといえる。
大東亜を開放したのである。
それが、あの戦争の、結果だった。
posted by 天山 at 07:03| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

玉砕103

回天特攻隊菊水隊の一員として、26歳で、カロリン諸島ウルシー海峡にて、散華した、今西太一の、父と妹に宛てた、哀切な遺書がある。

お父様、フミちゃん、太一は本日、回天特別攻撃隊の市ちんとして出撃します。・・・
最後のお別れを充分にして来る様にと家に帰して戴いたとき、実のところはもっともっと苦しいものだろうと予想して居ったのであります。しかしこの攻撃をかけるのが、決して特別のものでなく、日本の今日としては当たり前のことであると信じている私には何等悲壮な感じも起こらず、あの様な楽しい時をもちました。・・・
何も申し上げられなかったこと申訳ないこととも思いますが、これだけはお許し下さい。

お父様、フミちゃんのその淋しい生活を考えると、何も言えなくなります。・・・
フミちゃん、立派な日本の娘になって幸福に暮らして下さい。これ以上に私の望みはありません。お父様のことよろしくお願い致します。・・・
お父様泣いて下さいますな、太一はこんなにも幸福にその死所を得て往ったのでありますから、そしてやかでお母さまと一緒になれる喜びを胸に秘めながら、軍艦旗高く大空に翻るところ、菊水の紋章もあざやかに出撃する私達の心の中、何と申し上げればようでしょう。
回天特別攻撃隊菊水隊、唯今出撃致します。

決して、特別のものではなく・・・
つまり、当たり前のことであると、言う。

今日の、日本は、当然、死んでも悔いのない戦いをしなければならないと。

特攻隊を理解するためには、当時というものを、俯瞰しなければならない。
彼らは、決して、無駄に、死んだのではない。
切実な思いがあり、死ぬという、覚悟で、特攻攻撃をしたのである。

その、御霊が、靖国に祀られる。
日本人であれば、当然、靖国神社に、詣出るだろう。

当然過ぎるほど、当然のことであり、もし、それを拒否する人がいるならば、何か、考え違い、心得違い、あるいは、天邪鬼なのであろう。

戦争には、組みしない。
当時の、軍国主義に反対する。
等々、色々な思いがあろうが、詣出ることに関しては、論外である。

今、現在の日本で、生きて、生活をしている。
この、戦争のない状態を、70年以上も、続けている。
その訳は、彼らの、死にある。

もう、二度と、戦争をしないようにとの、彼らの願いを、全身に受けて、私達は、人生を謳歌している。

彼らは、私達の、近い先祖になる。
その彼らから見た、子孫である私達に、彼らは、自分と同じことをして欲しいと、思うだろうか。
決して、自分たちのようになって、欲しくないと、願いつつ、命を投げ出したことだろう。

それは、彼らの、遺書、遺文を見れば、一目瞭然である。

さて、そこで、一つ言う。
日本の特攻隊は、アメリカの民間人を、攻撃目標にしたであろうか。
否である。

日本の戦争に対する、あり方は、国際法に違犯していない。
これを明確にしておく。

米軍は、どうか・・・
日本の各都市に対しての、空襲、そして、原爆投下など、極めて悪質な、国際法遺産である。

東京裁判でも、それを指摘した判事がいたが・・・
却下されている。
この法廷は、日本を裁くものであると。

今では、誰もが、あの茶番の裁判を受け入れる者は、いない。
当時、明確に、日本に戦争犯罪はなしとしたのは、インドの、パール判事のみである。

しかし、裁判が進むにつれて、多くの判事が、疑問を呈した。

これは、裁判の体をなしていないと。

特攻隊は、誰一人も、民間人を標的にしていないのである。
現在の、自爆テロとは、天地の差である。

更に、日本は、敗戦したのである。
その敗戦を、無条件に受け入れた。
負けを、見事に認めたのである。

戦犯と言われる人達は、平和に対する罪、という言葉に、裁かれた。
では、言う。
平和に対する罪とは、戦争を始めたということだろう。

しかし、本当に、日本は、戦争開戦をしたのか・・・
戦争をしたくて、したのか・・・

日本を戦争へと、追い詰めたのは、誰か。
それは、アメリカのルーズベルト大統領であり、イギリスのチャーチルである。
そして、最大の、戦争犯罪人は、ソ連のスターリンである。

これに関しては、別エッセイ、天皇陛下について、また、国を愛して何が悪い、に、多々書いているので、省略する。

日本を軍国主義に、追い詰めたもの・・・
それを知るべきである。
そして、単に、日本の軍国主義が、特攻攻撃のような、世にも稀な攻撃方法を、作ったとは、言わせない。

真珠湾攻撃も、奇襲であり、宣戦布告なしの、卑劣な方法であるとは、言わせない。

ルーズベルトは、明確に、戦争は、起きるのではない。戦争を作り出すのだと、言った。

今、現在は、様々な資料が出されて、誰も、真珠湾攻撃を奇襲だなどとは、言わない。
それは、長年に渡り、アメリカが、戦争を仕掛ける時の、方法だった。

相手に、仕掛けて、アメリカ国民に、納得させるために、戦争機運を盛り上げるために、取った、方法である。

もう、隠すことは、出来ない。
つまり、最低の国、アメリカということだ。

posted by 天山 at 06:40| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

玉砕104

日本を護るために、命を捨てた。
しかし、日本とは、抽象概念である。

現実的に、特攻隊は、肉親、友人、知人を護るためにと言った方が、ピンとくる。

中でも、若い特攻隊員は、母親に存在が、大きい。
その母を、護るために、死ぬという、意識である。

神風特攻隊七生隊の一員として、24歳で、沖縄にて特攻死した、千原達郎の、母に対する思いが綴られた、遺稿がある。

私の飛行服のポケットには、御守袋が入っている。袋は学徒出陣の餞として京大から贈られたものである。
中には皇大神宮のお守りを始め、所々方々のお守りがぎっしり入っている。私は朝、飛行服に着替えて学生舎を出ると、胸のこのお守り袋を手で触りながら、明け切らぬ東の空に向かい、
「母上、お早うございます。立派にお役に立ちますよう、今日もお守りください」
と、口の中でつぶやく。飛行機に乗る前にも、この所作を繰り返すことがある。夜は寝る前に星空に向かい、
「お母さん、おやすみなさい。立派にお役に立ちますよう、明日もお守り下さい」と、心で言う。
いつ頃からかこういう習慣になったか知らないが、何は忘れてもこれだけは忘れたことがない。女々しいとも思い、滑稽だとも思う。しかし、この習慣を止めようとは思わない。
私は母の愛と祈りを片時も忘れたことがない。私と母とはいくら離れていても、このお互いの愛と祈りでぴったり繋がっているのである。

その、母のためなら、命を投げ出すことなど、何事もないのである。

特攻隊の、愛国心を言う前に、私は、特攻隊の、肉親愛を言う。
そして、故郷に対する思いである。
それを、護るためなら、命も惜しくない。

実に、人間として、当然の心情である。

それを、後の人が、大義と言っても、愛国心と言っても、何と言っても、いい。

この、人間の心を持った、人達を、祀る場所が、靖国神社なのである。
そして、そこでは、神、として・・・
その彼らに、頭を垂れること、実に、納得する。

彼らは、その死後、靖国神社に、祀られることを、良しとして、命を投げ出した。
護国の神として・・・

七生報恩
七度生まれても、国のために、命を捧げる。

そのような、国である、日本。
何処の国の兵士も、護るべき国のためにと、命を投げ出している。
そして、国は、彼らに対して、徹底して、慰霊をする。

靖国神社があり、護国神社があり、そして、各家庭には、死者のための、場所がある。
これは、伝統である。

そこに、とても、愚かな人の、偏向した、言葉の世界はない。
戦争賛美、特攻賛美、軍国主義を賛美する。
アホ、馬鹿、間抜けは、言うのである。

誰かのために、何かのために、命を賭けることがない人が、言う。
実に、滑稽である。

広島に原爆投下した、エノラ・ゲイ機に同乗して、空から、成果を観察した、ハロルド・アグニュー博士が、来日して、日本のテレビに出演した。

そして、被爆者たちが、
「罪のない市民まで、これほどの被害を受けました」と言った言葉を受けて、
「戦争はお互い様だ。戦争している国のあいだに罪のない人はいない」
と、答えている。

謝罪の言葉は無い。
当然である。
戦争である。
異常事態の戦争である。

相手を殺さなくては、戦争ではない。
だが、一つ、彼は、誤っている。

一般市民を攻撃対象にするのは、国際法で禁じられている。

原爆だけではない。
日本の各都市を、攻撃した。
一般人たちを、である。
国際法に違犯している。

アメリカ政府は、それを、一度たりとも、謝罪していない。

更に、原爆被害に遭った人達、日本人以外の外国人も、日本が、そのすべての補償をしている。
原爆手帳を持つ、外国人は、いつでも、日本に来て、生活出来るのである。

さて、ただ一つ、博士の言い分で、納得することがある。
戦争をしている国の間に、罪のない人はいない・・・

全くその通りである。
天皇の戦争責任と問う人々・・・
天皇以前に、すべての国民に罪がある。
当然である。

そして、戦争をしている国の人達は、相手の国に、如何に勝つかということを、のみ、考えている。
それは、日本も、アメリカも同じである。

どんなに、当時、戦争を反対しようとも・・・
戦争に至る道を、止めることは出来ない。
戦争とは、そういうものである。

私は言う。
追悼慰霊とは、追って悼むことであり、慰霊とは、亡き人を偲ぶことである。
この時、追悼とは、実に、当時の形相を、今、目の前に見るが如く、見ることなのである。

事実というものを、見つめ続ける行為が、追悼である。
そこに、思想信条の自由はない。
事実のみが、厳然としてある。

posted by 天山 at 06:39| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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