2016年01月11日

もののあわれについて782

すこし寝入り給へる夢に、かの衛門の督、ただありしさまのうちぎ姿にて、傍にいて、この笛をとりて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声をたづねて来たると思ふに、

柏木
笛竹に ふきよる風の ことならば 末の世ながき ねに伝へなむ

思ふかた異なり侍りき」といふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣き給ふ御声に、さめ給ひぬ。




少し寝入りされた夢に、亡くなった、柏木が、まるで、あの時の、うちぎ姿のままで、自分の傍に座っていた。枕元の笛を取って、見ている。夢のなかながら、死んだ人が、うるさく、この笛の音を捜し求めて、ここへ来たのだと、思っていると、

柏木
この笛を、どこで吹いても同じなら、将来、いつまでも、子孫に伝えてほしい。

あなたに、上げる気はなかった。と言うので、訳を聞こうとするところで、幼児が寝ぼけて、泣く声に、夢が覚めた。




この君いたく泣き給ひて、つだみなどし給へば、乳母も起きさわぎ、上も御殿油近く取り寄せさせ給うて、耳はさみして、そそくり繕ひて、抱きい給へり。




この赤ん坊は、ひどくお泣きになり、乳を吐いたりされるので、乳母も起きて騒ぎ、北の方も、御殿油を側近くに持ってこさせ、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話をして、抱き上げていらっしゃる。




いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて、乳などくくめ給ふ。児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰め給ふ。男君も寄りおはして、「いかなるぞ」など宣ふ。うちまき散らしなどして、みだりがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。雲居雁「なやましげにこそ見ゆれ。今めかしき御有様の程にあくがれ給うて、夜深き御月めでに、格子もあげられたれば、例の、物怪の入り来たるなめり」など、いと若くをかしき顔してかこち給へば、うち笑ひて、夕霧「あやしの物怪のしるべや。まろ格子あげずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になり給ふままに、思ひいたり深く物をこそ宣ひなりにたれ」とて、うち見やり給へるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物も宣はで、雲居雁「いで、給ひぬ。見苦し」とて、あきらかなる火影を、さすがに恥ぢ給へるさまも憎からず。まことにこの君なづみて、泣きむつかり明かし給ひつ。




大変よく太って、綺麗な胸をあけて、お乳をくわえる。赤ん坊は、とても可愛くて、白くて綺麗だ。お乳はでなくとも、気休めに、あやしていらっしゃる。
夕霧も、傍にお出でになり、どうしたのだ、と、おっしゃる。魔除けの米などを散らかして、騒ぐので、夢の続きも、どこかへ行ってしまった。
雲居雁は、苦しそうです。若い人みたいな格好で、うろつきなさって、夜遅く月をご覧に、格子も上げになるものだから、おきまりで、物の怪が入って来たのでしょう。などと、若く美しい顔をして、苦情をおっしゃる。夕霧は、にっこりとして、変な物の怪の案内人だな。私が格子を上げなかったら、道がなくて、本当に入って来れなかったのでしょう。大勢の子供をお産みになったものだから、お考え深く、立派なことを、おっしゃるようになられた。と、ちらりと、ご覧になる目つきが、身が縮むほど美しいので、それ以上、何もおっしゃらない。雲居雁は、さあ、あちらへいらっしゃいませ。ご覧になる所では、ございません。と、明るいあかりを、さすがに、恥ずかしがっていらっしゃるご様子も、悪くはない。
本当に、赤ん坊は、むずがって、夜通し泣き明かし、夜明かしをしてしまった。




大將の君も、夢思しいづるに、「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、ゆくべき方にもあらず、女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて数に思ひ入れぬ事も、かの、今はのとぢめに、一念のうらめしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の間にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何事にも執はとどめじと思ふ世なれ」など思し続けて、愛岩に誦経せさせ給ふ。また、かの心よせの寺にもせさせ給ひて、「この笛をば、わざと人のさる故深きものにて、ひきいで給へりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊き事とはいひながら、あへなかるべし」と思ひて、六条の院に参り給ひぬ。




大將の君、夕霧も、夢を思い出すと、この笛は、面倒なことだ。死んだ人が、それほど執着を持ち続けていたこれは、私の所に、来るべきものではないのだ。女から、伝えてもらっても、しょうがないもの。どう思っていたのだろう。生きている時、たいして考えなかったことでも、例の臨終の時に、一心に恨めしく思ったり、または、愛情を感ずることがあれば、邪魔されて、長き夜の闇に苦しむという。だからこそ、私は、何事にも、執着は、持つまいと思う。などと、考え続けて、愛岩で、読経をさせるのである。また、別に柏木の帰依していた寺でも、させて、この笛を、わざわざ御息所が、亡き人に特別の、ゆかりあるものとして、下さったのに、それをさっさと、お寺に納めてしまうのも、亡き人への供養になるが、それでは、簡単すぎる。と、思い、六条の院に、参上された。




物には、人の心が宿るという、感情が、潜在的に存在する。
それは、万葉の時代からである。

この感情は、現在の日本人にも、存在する。
そして、それは、正しい。

だからこそ、物を大切にする。
そして、その物の恩に報いるために、その物を大切に扱う。
そして、物の有様を、最大限に活かすという心。
これが、日本人の心性である。
それも、もののあはれ、の風景である。


posted by 天山 at 07:11| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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