2016年01月04日

打倒・韓国51

さて、これから、また、再度、日本統治時代について、書く。
私自身が、興味深く思ったものは、創氏改名について、である。

このことについては、日本人も、韓国人も、事実を知る人は少ないのではないかと、思える。

簡単に言えば、韓国人が、日本名に変えるというものである。
それが、強制されて行われたと、いつもの嘘を韓国人は言う。

ところが、実際を調べると、全く話が違うのである。

創氏改名は、皇民化運動、国民文化運動の一環として、昭和15年、1940年から、五年半に渡って推進されたものである。

勅令第一九号の朝鮮民事令改正により、朝鮮民事令第十一条に記される。
「内地民法の「氏」の規定から、朝鮮の戸籍に氏を新設する。つまり、創氏である。

そして、法令第二十号「朝鮮人の氏名に関する件」により、日本風の名前に変更する、というもの。

およそ、五年間で、全朝鮮戸籍の80%以上が、日本風の氏、全人口の約10%が、日本人名を名乗るに至ったと推定されている。

この、創氏改名運動は、強制的に実施されたものではない。
あくまでも、任意であった。

上記の法令は、法制化されたが、自己届出制であった。
それは、勅令第十九号附則第二項の「氏設定届け」で定められている。
また、第二十号には、裁判所の許可による「氏名変更」制度であることが、記される。

姓名を奪ったとする、韓国であるが・・・
大嘘である。

当時の朝鮮人社会では、読み書きが満足に出来なかったのである。
行政指導、マスコミの鼓吹により、人々が、左右されるのが、当然だった。

創氏改名をするものと、思い込んだ者もいたはずである。

更には、姓名など無い者、そういう差別的な身分にいた者たちも多い。
そして、女性は、名も無い、社会である。

実際、創氏改名などしなかった村々も、多く存在したことが、知られている。

ここで、黄文雄氏の、説明で台湾と比べてみる。

台湾人は、韓国人以上に改姓名の経験がある。はじめは清の時代で、原住民に対する徹底した創氏改名が行われ、漢姓と租籍(本貫=一族発祥の地名を指し、姓名と組み合わせる)の捏造を強制された。それを受け入れなかった者には、税金10倍と、公用の使役が課せられたのだった。


その次が、日本時代である。
これは、朝鮮人のような、自己申告制ではなく、許可制の改姓名が行われたのである。

そして、最後は、国民党政府時代である。
日本式姓名を、再び、中国式姓名へと戻すことだった。

朝鮮の日帝時代に行なわれた創氏改名は、本来ならば上流階級に与えられた一種の特権だった。朝鮮総督府による自己申告制というのは、つまり、被治者が治者側と同じになれるという恩恵であり、朝鮮人でも、日本人と同じになりたければどうぞ、という寛大な措置だったのだ。


ということで・・・
未だに、日本人も、韓国人も、日本が姓名、名を奪ったと、思い込んでいる者が、多々いるのである。

そういう、何も知らない、調べない、ただ、韓国人の、言い分を聞いている輩である。

だが、台湾は、違ったのである。
黄文雄氏の案内で見る。

台湾では、二年遅れて、改姓名運動が行われた。
朝鮮人は、自己申告すれば、簡単に改名できたが、台湾人は、知事、群守、町長などの許可がなければ、改名出来なかったのである。

更に、改名前の前提条件として、祖父の代から三代にわたり、一族に一人も犯罪者がいない、憲法遵守の家、つまり、家庭潔白を要求された。

その他に、皇民化に協力している、日本語常用家庭、神道崇拝家庭であるなどというものという、条件である。

それが、朝鮮では、一切無いのである。
もし、台湾のようであれば、誰も、創氏改名など、出来なかっただろうと、私は思う。
朝鮮に、まともな者は、一人もいないからである。

台湾における条件の厳しさは、現在のアメリカ市民権であるグリーンカードとは比べ物にならないほどである。そのため、朝鮮では改姓名の申告が80%以上もあったのに対し、台湾では改姓名の許可を得られたのはわずか1パーセント前後でしかなかったという説もあるほどだ。終戦直前には条件がゆるやかになり、許可される率は10~20パーセントにアップしたとの説もあるが、正式な統計がなく、正確なところはわかっていない。ただ、実際のところは、台湾の山岳民族である高砂族の村では、たいていが日本名を持ち、日本語を常用し共通語として使用していた。


日帝の韓人に対する創氏改名への非難や、その史実捏造については、時代背景がまったく考慮されていない場合が多い。そのために、史実が捻じ曲げられてしまうのだ。忘れてはならないのは、当時の欧米植民地下にあったアジア諸国にとって、日本の存在とは、忌み嫌うどころかあこがれの的だったのである。したがって、日本人になりたがっていたアジア人も多く存在していた。朝鮮において80%以上が創氏改名したというのは、その表れであった。


韓国人は、決して認めないで、否定するだろうが・・・
現在も、日本は、アジアの希望と期待を負っているのである。

あの当時、日本は、色付き人間と蔑まれていた欧米と、同等の地位にあったのである。
日露戦争の勝利が、そのようにさせた。
黄氏が、書く通り、時代背景を無視するということは、無謀すぎるのである。
その、無謀を延々としているのが、韓国という国である。


posted by 天山 at 06:39| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

打倒・韓国52

日帝の末端行政当局が、自己の皇民化行政運動の成績を誇示するために、創氏改名を民衆に強制したこともあった。そのため、朝鮮人の反感を買う場合もあった。一例として、創氏しないものは日本内地への渡航許可を与えないといった、屈折した強制があったのもたしかだ。
現在の韓国人は、これをとらえて「日帝の末端の行政機構が強制的に行った」と被害者ぶっているが、それをいつまでも怨んでいたり、朝鮮総督府のせいにしたりするのは間違いだ。
黄 文雄

それは、「一視同仁」という、原則に基づき、制令20号第2条「正当な事由がある場合において、氏名の変更を許す」を規定として、日韓の差別なく、改姓名の制度を、設けたのである。

その目的は、内鮮一体の、国策である。

それに特に反対したのは、両班である。
禽獣の道を、5000年の文化民族に強要するものだ、という、言い分である。

1930年代の朝鮮では、族譜の編纂ブームであり、皆々、競って、一族の先祖の偉人を創り出した。
過去の権威をふるい出して、アイデンティティを求めていた時代である。

今までの、打倒・韓国を読んでいた人は、よく解るはずである。
そのような、民族なのである。
自分は、偉い、のである。

だが、いくら口では先祖や姓氏を大事にすると言っても、実際は男性のことだけであって、女性には社会的地位がなく、姓も名も付属のなかには載せられていなかった。女性というだけで、完全に社会から抹殺されていた。一方で、男性はその血統の継承者として、祖先祭祀の儀式でも重視される。


朝鮮の、女性蔑視は、甚だしい。
朝鮮の女に、名をつけることは、三国時代の昔から、忌み嫌われていた。

両班の婦女子には、中国の真似をして、生家の姓に「氏」をつけて、名はないのである。
常人の婦女子は、姓に「召史」をつけていた。

更に、女性の再婚が法的に認められたのは、日本統治時代以降である。
民法が施行されたからだ。

韓国では、女性が、数千年にもわたり、姓氏を奪われていたのである。
それなのに・・・
男性の姓氏を日帝が、奪ったという。
実に、呆れる様である。

この運動により、80~85%が、創氏改名を行ったが、当然、本来の氏名に拘る人たちもいる。しかし、それらは、懲罰を受けることはなかった。
つまり、強制ではなかったからである。

彼ら朝鮮人は、日本を野蛮な国、民族として、見ているが・・・
どちらが、野蛮なのかは、一目瞭然である。

大日本帝国軍人として、最後まで創氏改名をしなかった者もいるのである。

軍隊の場合については、以前に書いたが、朝鮮人の特攻隊がいたことを知れば、どうだろうか。
自ら、志願しての、特攻である。

そういう者までも、現代の韓国人が、強制などという、理屈は、有り得ない。

ここで、明確にしておくべきことは、朝鮮人の中でも、日本民族であることを、誇りにしていた人たちもいるのである。

更に、創氏改名は、朝鮮人の嘆願でもあったということを、付け加える。

朝鮮人の源流は、満州である。
だから、日本により、土地を奪われ、故郷から無理やり話されたというのは、大嘘である。

半島の生活空間が徐々に変化してきたのは高麗朝以後である。・・・
ことに元から明の時代は、高麗から宦官や貢女が半島から大都北京へと謙譲されていた。清の時代になると、胡乱によって朝鮮人は北方へと強制連行され、奴隷や農奴として売られていった。その数は50万とも人口の半分とも言われている。李朝後期になると、貧窮化した農民たちが満州やシベリア沿岸州へと入っていった。


それを知らずに、日本は、大多数の農民から生活基盤を奪ったゆえ、故郷を捨てて、流浪せざるをえなくなった。
満州やシベリアへ流浪させたという、大嘘を言う。
妄想でもある。

韓国人は、歴史に関しては、全く、知らないのである。

創氏改名のきっかけとなったのが、満州へ移住した朝鮮人からの要求であること。嘆願であること。

満州はもともと清国を開いた満州人の祖国であり、清朝時代には漢人(中国人)の入植が禁じられていた。19世紀には入植が解禁されたが、その少し前から満鮮国境にいた朝鮮農民は、じょじょに入植をはじめていた。それがもっとも多かったのは白頭山北方の満州一帯、間島地方である。


入植解禁前に、漢人がすでに、満州に入って、盗伐、盗墾をしていた。朝鮮人は、盗伐者たちに雇われて働き、次第に、定着した。
そこでは、しばしば、漢人と朝鮮人の衝突が起こった。

大きな衝突は、1931年の万宝山事件である。それをきっかけに、韓国人はソウルをはじめ、大都市のシナ人へ、報復虐殺を行った。

そして、日本の統治時代には、満州に約150万の朝鮮人がいた。彼らは、絶えず漢人から圧迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。
やがて、朝鮮人狩りが起こる。

朝鮮人を最も嫌ったのが、張作霖で、満州には、朝鮮人を一人も入れさせないと、息巻いていた。
そして、朝鮮人迫害である。

この歴史背景下にあった朝鮮人にとって、唯一の救いは、当時五強のひとつであった、大日本帝国の臣民になることだった。
唯一、中国人に対抗できる切り札である。
そこで、朝鮮人たちは、進んで、創氏改名を強く、要求したのである。

日本こそが、朝鮮人にとって、併合国家の民族の誇りだった。
そして、それが、中国人、漢人の跋扈に対抗できる、ただひとつの、勢力だったのだ。


posted by 天山 at 07:05| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月06日

打倒・韓国53

1931年の、満州事変以後、関東軍が関東州から、北上してきたことを、最も喜んだのは、朝鮮人たちである。

彼らは、いたるところで、日の丸を掲げ、関東軍を歓迎した。
日本人として集まり、日本国民としての、誇りと、意識を強くもっていた。

何せ、日本国民になれば、漢人にいじめられることもない。
更に、反日ゲリラも、次々に武器を捨てて、日本側へと転向した。

満州の150万人の朝鮮人にとって、創氏改名は、迫害を避ける、唯一の方法であり、藁をもつかむ心情だった。

関東軍の北満への出動は、朝鮮人にとって、積極的な救護保護であり、兵匪、満州軍閥からの、開放だった。

そして、日本国籍を有し、日本帝国の臣民として、その権利と義務を果たすべきだとの議論が起こったのである。

更に、帝国臣民になりたいという声が強くなり、漢人の差別に逆襲するために、創氏改名を強く、要求した。
だが、創氏改名を遂げた、過激な一部の朝鮮人が、漢人への報復のために、跋扈した。

それで、日本人は、日本鬼子、朝鮮人は、二鬼子と呼ばれることになる。

在満朝鮮人の帝国臣民としての法的地位要求に対して、当時の朝鮮総督府外事課長の田中武男は、次のような警告をしている。
「在満朝鮮人が、日本国民たる特権のみをふりかざして驕慢な態度に出、自重を欠き謙譲を失い、不遜暴慢をもって本来の満州国人やその他との間に紛争を引き起こし、ためにその非難忌避の対象となること甚だ多き」


韓国人は一度優越意識にひたると、その自信はどこまでも増長するようだ。ソウル・オリンピック後、冷戦終結と社会主義体制の崩壊もあって、韓国はますます好景気に恵まれた。すると韓国では日本を追い越すといった内容の書籍まで出る始末だった。・・・
「日本の時代はすでに終わった。これからは韓国の時代がやってくる。地球は韓国を中心にまわっている。21世紀は韓国人の世紀だ。韓国民は世界一優秀な民族である」などと、学者やマスコミや民衆が騒ぎはしゃいでいる。


と、いうことで、単純、馬鹿のようである。
その韓国は、現在、経済崩壊間近であり、社会は混乱して、人心が乱れて、大変である。

世界一優秀ではなく、世界一、救われない民族となりそうである。

国家という、体を作ることが出来なかった、李朝時代・・・
そのまま、何も変わらず、なのである。

李朝時代の両班は、当時大国人(シナ人)が世界一聡明な民族で、朝鮮人はそれに次ぐ二番目に聡明な民族だとして、西洋や日本は「洋奴」「倭奴」とバカにして禽獣だと蔑んだ。それが、わずか100年たっただけで、世界一優秀な民族だという自信をつけている。・・・
しかし、はしゃきすぎた韓人は、人種差別、他民族いじめをはじめた。・・・


矢張り、単純、馬鹿である。

日本人の、知識人でも、日本の創氏改名を嘆く人がいるが・・・
何も解っていないのだ。

実は、朝鮮は、創氏改名を繰り返してきた歴史がある。
何も、日本統治時代だけではない。

韓国の古代史は、後付で作られたもので、神話とも言えぬし、単なる、妄想の域を出ない。

史実として確認できるのは、新羅軍が、唐軍のちからを借りて、朝鮮半島を統一してからのことである。

最初は、貴族だけが、中国皇帝の賜姓により、中国式の姓をもらうことが、できた。
庶民たちは、名のみである。
もちろん、賤民は、名も無いのである。

朝鮮の創氏改名をみると、最初は、唐の属国となった時期である。
先祖の姓を捨てて、漢名を名乗ったのである。

その次が、フビライハンが、半島を征服した後である。
モンゴル人の元王朝は、100余年に渡り、半島に総管政治を施した。

そこで、高麗の貴族たちは、支配者のご機嫌を取るため、モンゴル姓を、我先に名乗り、モンゴル王族との姻戚関係を競って結んだ。

その後、元が明に滅ぼされると、日和見主義の貴族たちは、簡単に、モンゴル姓を捨てて、再び、漢姓を名乗った。

そして、最後の創氏改名は、日韓併合後の、皇民化運動である。

ただし、中でも、モンゴル支配下の時代が長く、一世紀以上に渡り、モンゴル風の特色ある歴史が、半島に刻まれていた。
こうして、高麗朝末期の朝鮮半島は、モンゴル風一色に染まったのである。

この頃の、つまり高麗史には、従軍慰安婦のお話も多い。
明らかに、従軍慰安婦であり、日本軍における、売春婦の話とは、別物である。

元の時代の高麗で、最も権勢があったのは、高麗人の宦官と、貢女という。
宦官と、貢女が活躍したのは、この時代だけである。

この、モンゴル人統治下のモンゴル化を見れば、李朝時代の小中華化や、日帝時代の皇民化も決して押し付けられたものではなかったことがわかるのではないだろうか。これらは、韓国人にとってひとつの時流であり、彼らはその時流に乗り遅れまいと自ら進んで飛びついたのである。


日本統治時代における、創氏改名について・・・
強制されたというのは、大嘘であるということだ。

あまりに悲しい韓国の、歴史である。
しかし、その本当の姿を書くしか無いのである。

どうやって、捏造しても、その事実は、確実に白日の下に晒される。
哀れ、という他にない。
posted by 天山 at 06:48| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月07日

打倒・韓国54

朝鮮では姓名を持たない者は白丁奴(パクチョンノム)や火賊奴(ファジョクノム)などと呼ばれ、虐待の対象とされていた。朝鮮の婦女子と賤民にやっと堂々と氏名をつけることが許されたのは、日帝時代に入ってからである。日本の戸籍法にもとづいて、戸籍謄本に指名を明記するための義務づけであった。


ということは・・・
氏名を持たなかった、差別された人たちに、氏名を名乗ることを、認めたという、画期的な出来事である。
つまり、日本は、朝鮮人に氏名を与えたのである。

朝鮮社会の差別は、他に類のないものである。
後々に、書き付ける。

韓国人の宗族の血筋を記す族譜は、古いものでも、15世紀の李朝までである。
それ以上は、妄想だ。

大半が、伝聞調になり、開国の檀君直系であるというのは、北朝鮮の将軍様ぐらいだろう。

韓国人が、血筋を大切にするという、理由は簡単である。
支那コンプレックスである。
由緒ある、血統書つきのペットには、人気がある。
韓国人も、宗主国である、主人からの寵愛が欲しかった。

この、中華コンプレックスが、朝鮮を支那以上の、儒教思想の囚われにしたといえる。

さて、韓国社会の、階級社会、閉鎖社会の様は、呆れるほどである。

国王を権力の頂点にして、王族、両班、中人、常人、賤民。
賤民は、更に、奴婢、芸人、巫医、巫女、白丁など、多くの階層により、構成されている。

現在も、李朝時代を思わせるような、差別が存在する。

形式的には、李朝の国王が立法、行政、軍事などのすべての権力を独占していたことになっているが、実際は党争に勝った士林や両班の集団が、国王の名をかりて暴虐な悪政を敷いていた。李朝の国王たちは、500余年、27代にわたって半島に君臨してきたが、世宗らごく少数の国王をのぞいたほとんどが、朋党や外戚に支えられた暗愚の君主であったのだ。


李朝の権力構造は、国王を頂点としてその下に議政府、中央官、地方官という序列であった。ピラミッド型ヒエラルキーを土台とした専制王政は、典型的な中央集権的国家である。日本の伝統的士農工商社会とも違い、東アジア社会ではほかに見られないもっとも頑強な階級社会、差別社会で、両班を中心とするインド的カースト制をもつ儒教社会だ。


韓国人は、男子単系血族を中心に、中国以上に強固な閉鎖集団社会をつくっている。彼らが仲間意識を持つのは、一族、姻戚関係から結ばれる門閥、門閥を土台とする党派が主で、あとは地縁的関係のある同郷人ぐらいなものだ。


大中華社会には、義侠(ヤクザ)集団と、ギルド(職業的集団)により結ばれた「幇会」と呼ばれる組織があった。
その社会を、「江湖社会」と呼ぶ。
江湖社会は、社会基盤を作っていた。
同じ組織の者には、手を貸す、また各地を渡り歩く場合は、組織の人脈を頼る。

これは、韓国とは違う。
血縁、ゆかりある人々としか、仲間意識を持たない小中華、朝鮮と、組織ネットワークに仲間意識を持つ、大中華という、社会性である。

韓国にも、朋党という、党派や、コリアン・マフィアが存在するが、内ゲバによる分裂があまりに多く、組織の体を成していないのである。

この度も、強くない野党が、分裂である。
韓国社会は、「50人による陰謀は、その共同体の49人から漏れる」という、ダレ神父の言うように、実に難しいというか、終わっている。

更に、より強固になった、血族集団を中心に生まれたのが「ウリ」という、仲間意識である。
そして、「ナム」という、他人、赤の他人という、意識である。

朝鮮半島は、1894年の甲午改革により、「四民平等」を宣言した。
この時、戸籍法が改正され、婦女子だけではなく、賤民、奴婢なども、戸籍を持つようになった。それまでは、一人の人間として、認められていないのである。

その後、近代国家として、本格的な社会改革が行われるのは、日本統治時代の、朝鮮総督府から、総督府時代である。

この時は、法律の施行により、万民平等の原則に基づく、階級差別廃止が、断行された。

朝鮮総督府による、門閥廃止、万民平等という、社会改革は、朝鮮史上初めての、階級差別廃止であった。
もし、それがなければ・・・
今、現在も、残っていたかもしれない。
何せ、現代でも、差別意識は、実に激しいのである。

韓国にとっては、実に恥ずかしい歴史であろうが・・・
李朝時代末期には、奴婢の中に、更に、公賤と私賤の区別が生じた。

私賤になるのは、婦女子が大半で、個人が囲う奴隷として、使役された。
彼女たちは、日韓併合に至っても、一人30円で売買されて、その価格は、アメリカの奴隷より、安かった。

婦女子の奴隷は、特定の夫を持たず、主人に属していた。
主人は、一人ではなく、何人かの間を渡り歩く。
子供を産むと、主人の所有物とされ、子供も奴隷として、転売されたのである。

女に対するこの感覚は、旧約聖書の、女性蔑視以上のものだろう。
あちらも、女は、動物と同じように、扱っていた。

モーゼの十戒の中にある、汝、誨淫するなかれ、と、盗むな、という、2つは、同じ意味で、相手の所有物を犯すなという、意味である。

それが、女だった。

さて、更に驚くべきは、地域差別である。
兎に角、朝鮮人、韓国人は、差別が好きなようで・・・
あまりに酷いので、ここでは、省略する。
posted by 天山 at 07:53| 打倒・韓国2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月08日

もののあわれについて781

殿に帰り給へれば、格子などおろさせて、みな寝給ひにけり。「この宮に心かけ聞え給ひて、かくねんごろがり聞え給ふぞ」など、人の聞え知らせければ、かやうに夜ふかし給ふもなま憎くて、入り給ふをも聞く聞く、寝たるやうにてものし給ふなるべし。




三条の殿にお帰りになると、格子などおろさせて、皆、お休みになっている。
この宮に、ご執心になり、こんなに親切にしていらっしゃるのだ、と、誰かご報告した者がいるので、このように、夜遅くまで、外にいらしたのも、憎らしく、入ってくる物音を耳にしつつも、寝ているふりをしていられる。

それは、夕霧の妻、雲居雁である。




夕霧「いもとわれといるさの山の」と、声はいとをかししうて、ひとりごち歌ひて、「こはなどかく鎖し固めたる。あなうもれや。今宵の月を見ぬ里もありけり」と、うめた給ふ。格子あげさせ給ひて、御簾まきあげなどし給ひて、端近く臥し給へり。「かかる夜の月に、心やすく夢みる人はあるものか。すこし出で給へ。あな心憂」など聞え給へど、心やましううち思ひて、聞きしのび給ふ。




夕霧は、いい人と一緒に入るあの山の、と、大変美しい声で、お一人、歌いになる。なんと、どうして、こんなに鍵をかけたのだ。ええもう、鬱陶しい。今夜の月を見ないところもあるのだな、と、不満気に、おっしゃる。女房に、格子を上げさせ、ご自分で、御簾を巻き上げ、端近くに臥すのである。
こんな月の夜なのに、気楽に夢を見る人があるものか。少しは、外へお出ください。なんて嫌な、など、申し上げるが、女君は、面白くないので、聞き流していられる。




君達の、いはけなく寝おびれたる気配など、ここかしこにうちして、女房もさしこみて臥したる、人気にぎははしきに、ありつる所の有様思ひ合はするに、多く変はりたり。




お子たちが、あどけなく寝ぼけている様子など、あちこちでしていて、女房も沢山寝ているのは、とても、賑やかな雰囲気で、先ほどの一条の宮の様子と、考えあわせてみると、全く違っている。




この笛をうち吹き給ひつつ、「いかに名残もながめ給ふらむ。御琴どもは、調変はらず遊び給ふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」など、思ひやりて臥し給へり。「いかなれば故君、ただ大方の心ばへは、やむごとなくもてなし聞えながら、いと深き気色なかりけむ」と、それにつけてもいといぶかしう覚ゆ。「見おとりせむ事こそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、必ず然ぞあるかし」など思ふに、わが御中の、うち気色ばみたる思ひやりもなくて、むつびそめたる年月の程を数ふるに、あはれに、いとかうおしたちて、おごりならひ給へるも、ことわりに覚え給ひけり。




この笛を、軽く吹かれて、どんなに、私が出た後も、思いにふけっていられるだろう。お琴の合奏は、調べも変えずに、続けていらっしゃるだろう。御息所も、和琴の上手な方だ、などと、思いつつ、横になられる。
どうして、死んだ柏木は、表向きの気配りは、姫宮らしく、北の方らしくて、差し上げながら、深い愛情はなかったのか。と、考えるにつけても、どうも腑に落ちない。器量が良くないということであれば、なんとも、お気の毒だ。だいたい、どこの話でも、素晴らしい評判は、いつもこのようなものだ。などと、考える。
ご自分の夫婦仲が、浮気めいたことをしないかとの、心配もなくて、仲良く暮らし続けている年月を、数えると、感心して、こんなに、我が強くて、いい気になっているのが、常なのも、と、考えられた。

最後は、妻の、雲居雁のことである。
posted by 天山 at 06:39| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月11日

もののあわれについて782

すこし寝入り給へる夢に、かの衛門の督、ただありしさまのうちぎ姿にて、傍にいて、この笛をとりて見る。夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声をたづねて来たると思ふに、

柏木
笛竹に ふきよる風の ことならば 末の世ながき ねに伝へなむ

思ふかた異なり侍りき」といふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣き給ふ御声に、さめ給ひぬ。




少し寝入りされた夢に、亡くなった、柏木が、まるで、あの時の、うちぎ姿のままで、自分の傍に座っていた。枕元の笛を取って、見ている。夢のなかながら、死んだ人が、うるさく、この笛の音を捜し求めて、ここへ来たのだと、思っていると、

柏木
この笛を、どこで吹いても同じなら、将来、いつまでも、子孫に伝えてほしい。

あなたに、上げる気はなかった。と言うので、訳を聞こうとするところで、幼児が寝ぼけて、泣く声に、夢が覚めた。




この君いたく泣き給ひて、つだみなどし給へば、乳母も起きさわぎ、上も御殿油近く取り寄せさせ給うて、耳はさみして、そそくり繕ひて、抱きい給へり。




この赤ん坊は、ひどくお泣きになり、乳を吐いたりされるので、乳母も起きて騒ぎ、北の方も、御殿油を側近くに持ってこさせ、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話をして、抱き上げていらっしゃる。




いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて、乳などくくめ給ふ。児もいとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰め給ふ。男君も寄りおはして、「いかなるぞ」など宣ふ。うちまき散らしなどして、みだりがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。雲居雁「なやましげにこそ見ゆれ。今めかしき御有様の程にあくがれ給うて、夜深き御月めでに、格子もあげられたれば、例の、物怪の入り来たるなめり」など、いと若くをかしき顔してかこち給へば、うち笑ひて、夕霧「あやしの物怪のしるべや。まろ格子あげずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。あまたの人の親になり給ふままに、思ひいたり深く物をこそ宣ひなりにたれ」とて、うち見やり給へるまみの、いと恥づかしげなれば、さすがに物も宣はで、雲居雁「いで、給ひぬ。見苦し」とて、あきらかなる火影を、さすがに恥ぢ給へるさまも憎からず。まことにこの君なづみて、泣きむつかり明かし給ひつ。




大変よく太って、綺麗な胸をあけて、お乳をくわえる。赤ん坊は、とても可愛くて、白くて綺麗だ。お乳はでなくとも、気休めに、あやしていらっしゃる。
夕霧も、傍にお出でになり、どうしたのだ、と、おっしゃる。魔除けの米などを散らかして、騒ぐので、夢の続きも、どこかへ行ってしまった。
雲居雁は、苦しそうです。若い人みたいな格好で、うろつきなさって、夜遅く月をご覧に、格子も上げになるものだから、おきまりで、物の怪が入って来たのでしょう。などと、若く美しい顔をして、苦情をおっしゃる。夕霧は、にっこりとして、変な物の怪の案内人だな。私が格子を上げなかったら、道がなくて、本当に入って来れなかったのでしょう。大勢の子供をお産みになったものだから、お考え深く、立派なことを、おっしゃるようになられた。と、ちらりと、ご覧になる目つきが、身が縮むほど美しいので、それ以上、何もおっしゃらない。雲居雁は、さあ、あちらへいらっしゃいませ。ご覧になる所では、ございません。と、明るいあかりを、さすがに、恥ずかしがっていらっしゃるご様子も、悪くはない。
本当に、赤ん坊は、むずがって、夜通し泣き明かし、夜明かしをしてしまった。




大將の君も、夢思しいづるに、「この笛のわづらはしくもあるかな。人の心とどめて思へりしものの、ゆくべき方にもあらず、女の御伝へはかひなきをや。いかが思ひつらむ。この世にて数に思ひ入れぬ事も、かの、今はのとぢめに、一念のうらめしきも、もしはあはれとも思ふにまつはれてこそは、長き夜の間にも惑ふわざななれ。かかればこそは、何事にも執はとどめじと思ふ世なれ」など思し続けて、愛岩に誦経せさせ給ふ。また、かの心よせの寺にもせさせ給ひて、「この笛をば、わざと人のさる故深きものにて、ひきいで給へりしを、たちまちに仏の道におもむけむも、尊き事とはいひながら、あへなかるべし」と思ひて、六条の院に参り給ひぬ。




大將の君、夕霧も、夢を思い出すと、この笛は、面倒なことだ。死んだ人が、それほど執着を持ち続けていたこれは、私の所に、来るべきものではないのだ。女から、伝えてもらっても、しょうがないもの。どう思っていたのだろう。生きている時、たいして考えなかったことでも、例の臨終の時に、一心に恨めしく思ったり、または、愛情を感ずることがあれば、邪魔されて、長き夜の闇に苦しむという。だからこそ、私は、何事にも、執着は、持つまいと思う。などと、考え続けて、愛岩で、読経をさせるのである。また、別に柏木の帰依していた寺でも、させて、この笛を、わざわざ御息所が、亡き人に特別の、ゆかりあるものとして、下さったのに、それをさっさと、お寺に納めてしまうのも、亡き人への供養になるが、それでは、簡単すぎる。と、思い、六条の院に、参上された。




物には、人の心が宿るという、感情が、潜在的に存在する。
それは、万葉の時代からである。

この感情は、現在の日本人にも、存在する。
そして、それは、正しい。

だからこそ、物を大切にする。
そして、その物の恩に報いるために、その物を大切に扱う。
そして、物の有様を、最大限に活かすという心。
これが、日本人の心性である。
それも、もののあはれ、の風景である。
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2016年01月12日

もののあわれについて783

女御の御方におはします程なりけり。三の宮三つばかりにて中にうつくしくおはするを、こなたにぞ又とりわきておはしまさせ給ひける。走りいで給ひて、三宮「大将こそ。宮抱き奉りて、あなたへ率ておはせ」とみづからかしこまりて、いとしどけなげに宣へば、うち笑ひて、夕霧「おはしませ。いかでか御簾の前をば渡り侍らむ。いと軽々ならむ」とてねいだき奉りて居給へれば、三宮「人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ」とて、御袖してさし隠し給へば、いとうつくしうて、率て奉り給ふ。こなたにも、二の宮の若君とひとつに交りて遊び給ふを、うつくしみておはしますなりけり。隅の間の程におろし奉り給ふを、二の宮見つけ給ひて、「まろも大将に抱かれむ」と宣ふを、三の宮「あが大将をや」とて、ひかへ給へり。




源氏は、女御の部屋においで遊ばす時だった。
三の宮が、三歳ばかりで、兄弟の中でも、特に可愛らしくているが、紫の上でも、特別に、お手元に住まわせていた。その宮が走り出て、大将よ、宮をお抱き申し上げて、あちらに連れて行ってください。と、自分に敬語をつけて、聞き苦しい話し方をされるので、笑いつつ、夕霧は、おいで遊ばせ。でも、どうして御簾の前を通れましょうか。まことに無作法ですと、お抱きして、腰を下ろすと、三宮が、誰も見ていないし、私が顔を両手で、隠そう。ぜひぜひ、と、お袖で顔をお隠しになったので、可愛らしくて、お連れ申し上げる。
女御の方でも、二の宮が、若君とご一緒で、遊んでいられるのを、源氏が、可愛がっていた。隅の間に、下し申し上げるのを、二の宮が、見つけて、私も大将に抱かれようと、おっしゃるのを、三の宮が、私の大将だよ、と、つかまえている。




院も御覧じて、源氏「いとみだりがはしき御有様どもかな。おほやけの御近きまもりを、わたくしの随身に領ぜむとあらそひ給ふよ。三の宮こそいとさがなくおはすれ。常に兄にきはひましう給ふ」といさめ聞えあつかひ給ふ。大将も笑ひて、「二の宮は、こよなく兄心に所さり聞え給ふ御心深くなむおはしますめる。御年の程よりは、おそろしきまで見えさせ給ふ」など聞え給ふ。うち笑みて、いづれほねいとうつくしと思ひ聞えさせ給へり。源氏「見苦しく軽々しき公卿の御座なり。あなたにこそ」とて渡り給はむとするに、宮たちまつはれて、さらに離れ給はず。「宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかし」と御心の中に思せど、なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひよせ給ふらむと、これも心の癖にいとほしう思さるれば、いとらうたきものに思ひかしづき聞え給ふ。




それを、源氏もご覧になり、なんと、行儀の悪い、お二方だろう。陛下の身近な軍人を、自分の家来にしようと、取り合いされるのだな。三の宮が、よろしくなくて、いらっしゃる。いつも、お兄様に負けまいとなさる。と、お叱りになり、仲裁される。大将も、笑って、二の宮は、大変、お兄様らしく、聞き分けのよいご性質の方で、おいであそばすようです。お年の割に、怖いほどご立派に見られます。などと、申し上げる。源氏は、にっこりとして、どちらも、とても可愛らしく思っている。
源氏は、公卿には、見苦しく軽々しいお席だ。あちらへ。と、東の対の方へ、おいでになろうとすると、宮たちが、すがりついて、お離れにならない。宮の、若君は、皇子たちとご一緒にいるべきではない、と、御心の中では、お考えだが、かえって、そういう気持ちを、母宮が、心に咎めて、ひがまれるかもしれないと、これもまた、持って生まれた性格で、大変可哀想になるので、とても、かわいがり、大切にして、差し上げる。




大将は、「この君をまだえよくも見ぬかな」と思して、御簾のひまよりさしいで給へるに、花の枝の枯れて落ちたるを取りて、見せ奉りて招き給へば、走りおはしたり。




大将は、この君を、まだゆっくりと見ていないと、思い、若君が御簾の隙から顔を出したところへ、花の枝の枯れて、落ちているのを手に取り、お見せしてお傍に、お呼びになると、走って、いらした。




二藍の直衣の限りを着て、いみじう白う光りうつくしきこと、皇子舘りもこまかにをかしげにて、つぶつぶと清らなり。なま目とまる心も添ひて見ればにや、眼居など、これは今すこし強うかどある様まさりたれど、まじりのとづめをかしうかをれる気色など、いとよくおぼえ給へり。口つきの、ことさらに花やかなる様して、うち笑みたるなど、わが目のうちつけなるにやあらむ。おとどは必ず思し寄すらむと、いよいよ御気色ゆかし。宮達は、思ひなしこそ気高けれ。世の常のうつくしき児どもと見え給ふに、この君は、いとあてなるものから、さま異にをかしげなるを、見くらべ奉りつつ、「いであはれ。もし疑ふゆえもまことならば、父大臣のさばかり世にいみじく思ひほれ給うて「子と名のりいでくる人だになきこと。形見に見るばかりの名残をだにとどめよかし」と泣きこがれ給ふに、聞かせ奉らざらむ罪得がましさ」など思ふも「いで、いかで然はあるべき事ぞ」となほ心得ず思ひ寄るかたなし。心ばへさへなつかしうあはれにて、むつれ遊び給へば、いとらうたく覚ゆ。




二藍の、直衣だけを着て、大変色白で、つやつやして可愛らしいことは、皇子方よりも、上品で、立派で、まるまると太り、綺麗だ。何か、そう思って見るせいもあるのか、目つきなどは、少しきつく、才走っているのは、衛門の督以上だけれど、目尻の切れが、美しく輝いている様子は、とても似ている。口元が、特に華やかな様子をしていて、にっこりしたところなどは、自分が、ふっと見るだけのせいか、そっくりだ。
源氏は、きっと、気づいているだろうと、思うと、益々、ご心中が知りたいと思う。宮達は、皇子だと、思うからこそ、気高くもあるが、世間普通かの可愛らしい子供と、見えるが、この君は、とても品があり、特別に、美しいのを、皇子方と比較申し上げて見ながら、なんと、可哀想な。もし、自分の疑いが本当なら、故人の父大臣が、あんなにまで、気の抜けたように悲しんでいらっしゃり、子供だと、名乗り出てくる人さえ、いない。せめて、形見として、世話する者でも、残しておいてくれろ、と泣いて焦がれていらっしゃるのに。実の子がいると、教えないのは、罪になりはしないか、などと思うが、いやいや、どうして、そんなことがあり得よう、と、やはり、納得出来ず、推測のしようがない。気立てまで、優しく、おしなしくて、仲良く、お遊びになるので、大変、可愛らしく思われるのである。

夕霧の、柏木の子に対する、思いである。

いであはれ
何とも言えぬ思い、である。
説明し尽くすことが出来ない、心情を言う。



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2016年01月13日

もののあわれについて784

対へ渡り給ひぬれば、のどやかに御物語など聞えておはする程に、日も暮れかかりぬ。昨夜かの一条の宮に参うでたりしに、おはせし有様など聞えいで給へるを、ほほえみて聞きおはす。あはれなる昔の事かかりたる節々は、あへしらひなどし給ふに、源氏「かの想夫恋の心はべは、げにいにしへの例にも引きいでつべかりける折ながら、女はなほ人の心移るばかりのゆえよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれと、思ひ知らるる事どもこそ多かれ。過ぎにし方の心ざしを忘れず、かく長き用意を人に知られぬとならばね同じうは心清くて、とかくかかづらひ、ゆかしげなき乱れなからむや、誰が為もココロにくく、めやすかるべき事ならむとなむ思ふ」と宣へば、「さかし。人の上の御教へばかりは心細げにて、かかる好きはいでや」と見奉り給ふ。




東の対へ、お出でになったので、静かにお話し合いなど申し上げているうちに、いつしか、日も暮れ始めた。
昨夜、あの一条の宮にお出でになった時の、あちらのご様子などを、申し上げると、源氏は、にっこりと、お聞きになっていらっしゃる。お気の毒な昔の事。柏木に関係のある話には、相づちなどされて、その想夫恋のやりようは、いかにも、後々まで、たとえ話として、引かれるのにも、いいような話だが、でも、女というものは、男の気持ちをそそるようなことを、並大抵では、見せてはいけないものだと、考えさせられることが、多い。亡くなった人への、心向けを忘れず、末永く、世話しようという気持ちを、相手に取られた以上、同じことなら、綺麗な気持ちで、何かとお世話して、感心しない不行儀がないのが、どちらにとっても、奥ゆかしい、見ても良い物だろう。と、おっしゃるので、いかにも、人のことになると、きちんとした調子だが、女相手だと、どんなものか、と、お顔を仰ぎ見る。




夕霧「何の乱れか侍らむ。なほ常ならぬ世のあはれさをかけそめ侍りにしあたりに、心細く侍らむこそ、なかなか世の常の嫌疑あり顔に侍らめとてこそ。想夫恋は、心とざしすぎて言いで給はむや憎き事に侍らまし。物のついでにほのかなりしは、折りからのよしづきて、をかしうなむ侍りし。何事も人により、事に従ふわざにこそ侍るべかめれ。よはひなども、やうやういたう若び給ふべき程にもものし給はず。またあざれがましう。すきずきしき気色などに、物なれなどもし侍らぬに、うちとけ給ふにや、おほかたなつかしうめやすき人の御有様になむものし給ひける」など聞え給ふに、いとつよきついで造りいでて、すこし近く参り寄り給ひて、かの夢語りを聞え給へば、とみに物も宣はで聞し召して、思し合はする事もあり。




夕霧は、何の不行儀など、ございましょう。やはり、短命に終わった者への、同情から世話をしております方に対し、すぐにやめては、かえって世間普通の、嫌疑を受けましょうと、思い、参上しました。あの想夫恋は、ご自分の方から、積極的に弾かれたのなら、嫌なことでしょうが、私の勧めでは、ほんのすこし、お弾きになったのは、あの時にふさわしく、結構に思いました。何事も、人次第、事の次第でございましょう。お年も、おいおい、たいしてお若いと申すほどでも、いらっしゃらず、それに私が、冗談を言ったり、女として相手するなど慣れておりません。お気をお許しなのか、申してみれば、優しく、非難するところのないご様子で、いらっしゃるのです。などと、申し上げてている間に、うまい話のきっかけを創りだして、少しお傍にお進みになり、あの夢のお話をされると、急には、何もおっしゃらず、お聞きあそばして、お気づきになることも、あった。




源氏「その笛はここに見るべきゆえあるものなり。かれは陽成院の御笛なり。それを故式部卿の宮の、いみじきものにし給ひけるを、かの衛門の督は、童よりいと異なる音を吹きいでしに感じて、かの宮の萩の宴せられける日、贈り物にとらせ給へるなり。女の心は深くもたどり知らず。しかものしたるななり」など宣ひて、「末の世の伝へは、また、いつかたにとかは思ひまがへむ。さやうに思ひなりけむかし」など思して「この君もいといたり深き人なれば、思ひ寄ることあらむかし」と思す。




源氏は、その笛は、私が持つ理由があるものなのだ。それは、陽成院の御笛だ。それを、亡くなった、式部卿の宮が、大事にされていたが、あの衛門の督が、子供の時から、大変上手に笛を吹いたので、感心して、宮が萩の宴をされた日に、贈り物として、お与えになったもの。女の気持ちは、深く事情を知らず、そういうことにしたのだろう。などと、おっしゃり、将来、子孫に伝えるというのは、どちらも、まごつくことがあろう。故人は、そういう気になったのだろう。などと、考えられて、この君も、よく気のつく人だから、気づくこともあろう。と、思われる。




その御気色を見るに、いとど憚りて、とみにもうちいで聞え給はねど、せめて聞かせ奉らむの心あらば、今しも事のついでに思ひいでたるやうに、おぼめかしうもてなして、夕霧「今はとせし程にも、とぶらひにまかりて侍りしに、なからむ後の事ども言ひ置き侍りし中に、しかじかなむ深くかしこまり申すよしを、かへすがへすものし侍りしかば、いかなる事にか侍りけむ、今にそのゆえをなむ思ひ給へ寄り侍らば、おぼつかなく侍る」と、いとたどたどしげに聞え給ふに「さればよ」と思せど、何かはその程の事、あらはし宣ふべきならねば、しばしばおぼめかして、源氏「しか人の恨みとまるばかりの気色は、何のついでにか漏りいでけむ、と、みづからもえ思ひいでずなむ。さて今静かに、かの夢は思ひ合はせてなむ聞ゆべき。夜語らずとか、女ばらの伝へに言ふなり」と宣ひて、をさをさ御しらへもなければ、うちいで聞えてけるをいかに思すにかと、つつましく思しけり、とぞ。




その源氏の顔色を見ていると、益々遠慮されて、急には、お話申し上げられないのだが、是非、お耳に入れたいという気持ちがあるので、今、ふっと思い出したかのように、よくわからないという態度で、夕霧は、臨終の時にも、見舞いに出掛けましたところ、死んだ後のことを、あれこれと、遺言しました中に、しかじか、六条の院に、心から恐縮している旨を、繰り返し繰り返し、申したものですから、どういうことで、ございましょうか。今に至るまで、その理由に気づきませんものですから、気にかかっているのでございます。と、いかにも、分かりかねたように、申し上げるので、源氏は、知っている、と思うが、何もその頃の事を、ありのままに、おっしゃるべきではないから、しばらくわからないふりをして、源氏は、そのように、誰かに、恨まれるほどの様子は、どんなときにしたのか。自分でも、思い出せない。それはそれとして、そのうち静かに、その夢のことは、考えがついてから申すとしょう。夜は、夢の話はしないものだとか。女房たちが、言い伝えているから。と、おっしゃり、特にご返事はなかったので、お耳に入れたことを、どうお考えなのだろうかと、きまり悪く思うのだった、とか。

何とも、難しい言い回しか、多い。

横笛を終わる。
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2016年01月14日

もののあわれについて785

鈴虫

夏ごろ、はちすの花の盛に、入道の姫宮の御持仏どもあらはし給へる、供養せさせ給ふ。このたびは、おとどの君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかにととのへさせ給へるを、やがてしつらはせ給ふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を運び縫はせ給へり。紫の上ぞ、いそぎせさせ給ひける。花机のおほひなどをかしき目染もなつかしう、清らなるにほひ、染めつけられたる心ばへ、目なれぬさまなり。夜の御帳のかたびらを、四面ながらあけて、うしろの方に法花の曼荼羅かけ奉りて、しろがねの花瓶に、高くことごとしき花の色をととのへて奉れり。




夏の頃、蓮の花の盛りに、入道された、女三の宮の、御持仏の、数々を開眼されて、供養をあそばす。今回は、源氏の御発願で、御念誦堂のいろいろな道具を、心をこめて、おろそかになっていたものを、この持仏開眼のために、お飾りになる。幡の出来など、優しい雰囲気で、特に立派な舶来の錦を選ばれて、縫わせになった。
これは、紫の上が、ご準備した。花机の被いなど、結構な鹿の子絞りも、優しい感じで、綺麗な色艶、染め上げられた趣向は、またとない、出来栄えである。夜の御帳台の帷子を、四方とも上げて、後の方に、法花の曼荼羅をかけて、銀で作った花瓶に、蓮の花を、背の高い立派な色ばかりを揃えて、挿してある。




名香には、唐の百歩の薫衣香を焚き給へり。阿弥陀仏、脇侍の菩薩、おのおの白檀して作り奉りたる、こまかにうつくしげなり。あかの具は、例のきはやかにちひさくて、青き、白き、紫の蓮をととのへて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚きにほはしたる、ひとつ薫ににほひあひて、いとなつかし。




仏様のお香には、唐風の百歩の、薫衣香を焚いている。阿弥陀仏、脇侍の菩薩、それぞれ白檀でお作り上げたのが、繊細で美しい。仏様のお水の道具は、いつも通り、きわだって小さく、青や白、紫の蓮の花を綺麗に飾り、荷葉香を調合して、蜜を少しにし、ぼろぼろして焚いたのが、蓮の花の匂いと一緒になり、とても優しく、懐かしい香りがする。




経は六道の衆生のために、六部書かせ給ひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせ給ひける。これをだにこの世の結縁にて、かたみに導きかはし給ふべき心を、願文に作らせ給へり。さては阿弥陀経。唐の紙はもろくて、朝夕の御手ならしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰言賜ひて、心ことに清らに漉かせ給へるに、この春の頃ほひより、御心とどめていそぎ書かせ給へるかひありて、はしを見給ふ人々、目も輝き惑ひ給ふ。




経典は、六道に迷う人々のために、六部お書かせになり、女三の宮ご自身の御持経は、院ご自身が、お筆をおろした。せめて、このご自筆のお経を、この世の結縁として、お互いに、導き交わすとの、気持ちを願文に、お書き遊ばす。それ以外は、阿弥陀経を、唐の紙はもろくて、朝晩お使いになるのは、どんなものかとあり、紙屋院の役人を召して、特別のご命令を下され、別誂えで、綺麗にお作りにならせた紙に、この春の頃から、念を入れて、急いで書き遊ばしただけのことがあり、ほんの一部分を、ご覧になる方々も、眩しく思われる程の、美しさである。




罫かけたる金の筋よりも、墨つぎの上に輝くさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、箱のさまなど、いへばさらなりかし。
これはことに沈の花足の机にすえて、仏の御おなじ帳台の上に飾らせ給へり。




罫に引いてある、金泥の線よりも、お筆の跡が紙の上に輝いている美しさは、実によいものである。お経の軸や、表紙、箱の様子なども、申すまでもないこと。
ご自筆の阿弥陀経は、特別に、沈の花足の机に載せて、仏様と同じ御帳台の上に、飾られた。




堂飾りはてて、講師参うのぼり、行香の人々参り集ひ給へば、院もあなたに出で給ふとて、宮のおはします西の廂にのぞき給へれば、狭きここちする仮の御しつらひに、所せくあつげなるまで、ことごとしく装束きたる女房、五六十人ばかり集ひたり。北の廂、簀子まで童べなどさまよふ。




お堂を飾り終わり、講師が上堂し、行香の人たちも、お集まりになった。院、源氏もそちらに、お出でになる途中、宮のいらっしゃる、西の廂に顔を出されると、狭い仮の御座所に、ぎっしりと、暑苦しいまでに、仰々しい装束の女房たち、五、六十人が、集っている。北の廂や、簀子まで、女童などが、はみ出して、うろうろしている。




火取どもあまたして、けぶたきまであふぎ散らせば、さし寄り給ひて、源氏「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひわかれぬこそよけれ。富士の峰よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折りは、大方の鳴りをしづめて、のどかに物の心も聞きわくべき事なれば、はばかりなき衣の音なひ、人のけはひ、しづめてなむよかるべき」など、例のもの深からぬ若人どもの用意、教へ給ふ。宮は人気におされ給ひて、いとちいさくをかしげにて、ひれ臥し給へり。源氏「若君らうがはしからむ、抱き隠し奉れ」など宣ふ。




香炉を沢山使い、煙たくなるほど、あおぎ散らすので、傍に寄り、源氏は、どこで焚いているかわからぬほどがよい。富士山以上に、煙が立ち込めているのは、感心しないが。お経の、講義の時は、他の音はしないようにして、静かに、お話の意味がわかるように。衣擦れの音や、人のいる様子は出さないようにするのがよい。と、いつも通り、思慮の足りない若い女房たちに、心遣いを教える。
宮は、大勢の人たちに圧倒されて、小柄で美しい姿で、臥せられていた。源氏は、赤ん坊は、やかましいだろう。抱いて、あちらに、お連れ申せ、などと、おっしゃる。

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2016年01月15日

玉砕95

25歳で、レイテ湾にて特攻死した、植村真久は、愛児素子に、遺書を残している。

私は、お前が大きくなって、りっぱな花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。

お母さんもまた、ご自分の全生涯をかけてただ素子の幸福のみを念じて生き抜いてくださるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になってください。
お前が大きくなって私のことを考え始めた時、この便りを読んでもらいなさい。

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんがいただいて自分の飛行機にお守りにしております。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

この中で、九段とは、靖国神社のことである。
つまり、お父さんに会いたければ、靖国神社に詣出なさいということだ。

靖国神社に死後、戻るという、感覚である。
故に、靖国神社を他の、宗教団体の建物とは、違うと、理解しなければならない。

英霊は、皆、靖国で会おうと、戦死した。
その英霊の声を無視するのは、冒涜である。

靖国神社は、一宗教施設ではないこと、明々白日である。
追悼慰霊の場であるということ。

問答無用である。

特攻隊員の凄さは、群がる敵機の執拗な攻撃や艦艇から繰り出される猛烈な弾幕をかわしつつ、目指す目標に突入してゆく、たぐい稀なる勇気にあるといわれているが、だが本当の凄さは、迫り来る死の恐怖にじっと耐える強靭な精神力にある。
特攻の本

出撃三時間前に書かれた、20歳で沖縄方面にて、特攻死した、信本廣夫二飛曹の遺文である。

自分が思っている事、今はりさけるばかりに胸中につまっている思ひを、明朝は必ず晴らして見せます。そして新しい春のような気持ちで皆の後を追って行きます。御父様や御母様もその事をよく理解されまして、あっさりと御あきらめ下さい。御両親とも御体に気をつけて最後まで頑張って下さい。時ちゃんも敬ちゃんも御父母様の言われる事をよく聞いて、何が何でもやりぬく事。日本人だから何処に出してもはづかしくない。日本人だから、米や英人にならぬ事。兄に負けぬ様ついて来い。近所の皆んなに宜敷く言って下さい。

では皆さんお元気で、後、出発まで三時間しかありません。後三時間したら他国の人と成るのです。あきらめて下さい。泣かないで下さい。お父さん、お母さん、時ちゃん、敬ちゃん、さようなら。

死の確定している三時間前・・・

あっさりと、諦められるものか。
家族としては、心痛の至りである。

だが、遺書が届いた頃は、この世の人ではないのである。

18歳、南西諸島方面にて、特攻死した、浦上博一。出撃30分前の遺稿である。

母上様、姉上様、いざ沖縄へ出撃です。
一機一艦、必ず轟沈です。
今出発の30分前です。
月の明かりで走り書きしましたから乱筆となりましたが、何卒お許し下さいませ。

以上である。

沖縄戦では、多くの内地の特攻隊員が、出撃した。
沖縄を守るためである。
沖縄戦の悲劇・・・

だが、そこには、内地の多くの若者たちの、壮絶な死がある。

ゆえに、沖縄県民だけが、という勘違いは、誤りである。

出撃、わずか5分前の遺文もある。
18歳で、南西諸島方面にて、特攻死した、麓岩男一。

美しきお月様、きっと体当たりは成功です。
遠き春空の大空より我等の成功を見守って下さい。
我等神雷部隊の勇士は大義のために死す。
神よ我等に神助を与え給え。 死

神機到来す。
父母様よりお先に参ります。私は大義の為に死にます。旭兄様より仇をたのむとの夢の中なつかしい旭兄様の笑顔、きっと仇はうちます。今日の美しきお月様、なにか教えてくれるものがあります。今日夜間参ります。
父母様お元気で今死につきます。

この神雷部隊とは、一式陸攻を母機とする、人間爆弾桜花による、特攻部隊である。

桜花特攻は、母機が離陸した時点で、生還率はゼロになる。
敵の迎撃にあって母機が撃墜されれば、桜花も、母機もろとも墜落する。
また、運良く敵を発見しても、母機から切り離されれば、敵に命中する、しないにかかわらず、頭部に一トンの爆薬をつめた桜花は、敵艦か、海面に接すると、同時に爆破する。

確実に、死ぬのである。

18歳で、大義のために、死ぬという意識。
それには、言葉も出ない。

平和を愛する人は、戦争の悲惨を知る者である。
戦争を知らなければ、本当の平和を希求することは、出来ない。

ただし、戦争がなければ、平和なのか・・・
更に、平和の中で、安穏としてしまうと、人は、ボケる。
危機意識を持たなくなる。

この世は、いつも紛争と、戦争が、入り交じる世界である。
今も、世界の何処かで、紛争、戦争が行われている。
posted by 天山 at 06:45| 玉砕3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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